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LOST  作者: 風羽洸海
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六章 (2) 裁きの迷宮



 地下迷宮は、王宮を含む街全体の下に広がっている。出入り口も今入ってきた一箇所だけではない。ヤルスは既にこの迷宮を調べて地図を自分の頭脳にしまいこんでいたので、王宮に近い場所にも出口があることが分かった。

 地上をうろつくのは危険が多いので、そこまで進んでから外に出て、国王に真実を話してスーザニーを処罰することのないよう手を打たねばならない。国王ならば、皇族の力を有しているから暗示にかけられる心配をせずにすむ。

 その上でハーカーニーを捕らえるか、最悪の場合は殺すかして、始末をつける。

 そう決めると、三人は準備にかかった。

 まず、ハーカーニーによって操られている人々の攻撃をかわすために、防御呪文をかける。反撃して無関係の人々を傷つけるのを防ぐのにも役に立つからだ。

「彼が魔術方面に野心を持っていなくて良かったよ」

 カゼスはつぶやきながら、防御の呪文を組み立てる。

 ハーカーニーの野望は単純で、富と世俗の権力とだけがその対象だ。だがもし、この世界の強大な力場を自在に操ることが出来たなら、世俗の権力など塵よりもくだらないちっぽけなものになるだろう。ここで魔術の支配者になるということは、神に近付くにも等しい意味をもっている。

 カゼスは呪文を唱えてアテュスにかけると、軽い目眩に顔をしかめた。

「これで大抵の事は防げる、と」

 目眩がおさまるとカゼスはうなずき、ヤルスを振り返った。

「あと、お願いします」

 言われてヤルスは立ち上がると、まずカゼスの方に歩み寄った。それから軽くカゼスの頭を両手で挟むように支えると、深紅の瞳でカゼスの目を覗き込む。

 その瞬間、カゼスは意識が深淵に吸い込まれたように遠くなるのを感じた。ヤルスが何か言っているのがぼんやりと聞こえたが、理解は出来なかった。

 遊離した意識の片隅で、自分の意識が丈夫な殻に包まれるのを感じる。無理やり思考をねじ曲げられるような不快感はなく、むしろ保護された安心感が満ちていく。

 ハッと我に返ると、ヤルスが手を離し、目の前でパチンと指を鳴らしたところだった。

「大丈夫か?」

 彼はかすかに不安を帯びた声で問うた。カゼスは自分の意識を探り、完全に防御が固められているのを確かめた。

「ええ、しっかりガードされてます。自分でやったんじゃ、ここまで完璧には出来ないな……アテュスの方もあなたにお願いした方がいいでしょうね」

 カゼスはそう答えて苦笑する。ヤルスが施した暗示は、他の催眠暗示には一切かからない、というものだ。先に強力なこの暗示をかけておけば、後から別の暗示をかけられることはない。ハーカーニーがキューブを持ち出しても、顔を背けたりしなくてすむわけだ。

 ヤルスはうなずき、アテュスに手を伸ばした。『赤眼の魔術師』の息子であり、しかも宰相という位にある人物が手を触れようとしたので、アテュスは反射的に身を引いていた。一瞬、二人の間に横たわる空気が緊張する。

 だが、アテュスはすぐにおとなしく進み出た。

 気まずい瞬間などなかったように、ヤルスはアテュスにも同じ暗示を施そうとして……ふと、眉を寄せた。

「これは……」

 アテュスの瞳が、夜空のように深い青から濃い青紫に変化する。催眠を中止するとすぐに紫色が薄れ、元の青褐色に戻ったが、その変化は見間違いではなかった。

「どうかしたんですか?」

 カゼスが小首を傾げると、ヤルスはまた少しアテュスの瞳を覗き込んでから、手を離して頭を振った。

「なるほどな」

 小声でつぶやいた彼に、残る二人は目をぱちくりさせる。ヤルスは複雑な表情でアテュスを見つめ、それからゆっくり言った。

「おまえも親を恨む立場になるだろうということだ」

「は? どういうことですか、宰相閣下」

 相手の身分を思い出して遠慮がちにアテュスが問う。ヤルスは眉を片方上げた。

「あるいは、今ほど私にへりくだる必要はなくなるかも知れん。おまえの親が分かった」

 は、ともう一度聞き返すのも馬鹿のようで、アテュスはただ困惑したまま目をしばたたかせる。カゼスも首を傾げていたが、ややあって「あ、もしかして」と気付いた。

「元皇族の誰かですか。暗示がかけられないんですね?」

「はぁ!?」

 素っ頓狂な声を上げたのはアテュス当人だった。ヤルスは至って平静にうなずくだけ。

「ハーカーニーが実行の日を指定してきたのだ。その時は特に気に留めなかったが、今考えると辻つまが合う。ハーカーニーの後ろ盾となっている貴族が、おまえの出生を知っているのだろうな。かつておまえの存在を闇に葬ったのも、奴らかも知れん。今回の計画のついでに、王宮から追い出すか、始末をつけてしまうつもりだったのだろう」

「えっ……、で、でも、なんで俺が」

 アテュスは予想外の言葉に驚き、うろたえる。自分が捨てられた子供だということは知っていたが、まさか貴族の……それも、皇族の力を有するほど王家に近い血筋の子供だとは、夢にも思わなかった。

「どういういきさつでおまえがアムル殿に育てられることになったのか、それは知らん。だがおまえは連中の思惑に反して衛兵という形で王宮に入り込み、奴らの目に留まった」

「だからって、どうしてアテュスに濡れ衣を着せたんでしょう? 確かに計画通り行けばアテュスの前の番兵を暗示にかけるわけですから、アテュスが暗示にかからないってことをあなたに知られる心配もないし、そもそもこの計画がなりたつわけですけど……もしアテュスが早目に宝物庫の前に来たりしていたら、パアになってるところですよ」

 カゼスは首を傾げたが、ヤルスはいともあっさりと応じた。

「大方、アテュスが奪われた権利と地位とを取り返す為に王宮に出仕したのだ、とでも思ったのだろうよ。腹黒い人間は他の人間も自分と同じだと考えるからな。そうでなくとも、何らかの機会でアテュスが皇族の血を引くと露見しないとも限らない。奴らにとっては存在するだけで脅威だったのだろう……貴族になった気分はどうだ? アテュス」

 皮肉っぽく問われても、しばらくアテュスは絶句したままだった。それから「はぁ」と小さくつぶやいて首を傾げる。

「夢かな?」

 貴族にしてはあまりに朴訥な反応に、カゼスとヤルスはそろってふきだした。

「それどころか、下手すれば王位継承の第五順位までに入るかも知れんぞ」

 意地悪くヤルスが言ったので、アテュスは青褐色の目をくるりと天井に向けた。いっそ気絶してしまいたい、とでも言わんばかりに。

「まあ何にしろ、暗示にかからないのならひとつ心配が減りますね」

 カゼスは苦笑し、冷えた指先にそっと息をかけた。

「それじゃ、急ぎましょう。ここに長くいたら凍えそうですよ……それに、おなかが空いちゃってもう……」

 ぶつぶつぼやいた拍子に、腹がぐるぐる鳴る。他の二人はおどけた表情になったが、あえて無言を貫いた。自分の腹もその内に抗議の声を上げそうだと感じたので。

「こっちだ」

 ヤルスが先頭に立って歩きだす。リトルがその少し先を飛んで前を照らし、カゼスとアテュスも慌てて歩きだした。

「昔に造られた迷宮だ、って言ってましたよね? なんでこんなものがあるんですか?」

 カゼスは首を傾げて訊いた。殺すことのできない魔物や怪物の類を閉じ込めるのに、迷宮や洞窟などが利用されるといった民間伝承は、今までに行った世界でも時々耳にしたことがある。

「……まさか、何か物騒な生き物が閉じ込められてるとか言うんでは……」

 小声になったカゼスに、ヤルスはしれっと「そんなところだ」と答えた。

「えええっっ!?」

「言い伝えだがな。分裂時代の前の時代、ここは裁きをつけるために利用された。何か正体は分からぬが、知能をもつ生き物がこの迷宮に棲んでおり、通常では裁きのつけられない容疑者をここに放りこむと、それが片を付けてくれたそうだ」

 意地悪な笑みを口元に浮かべ、ヤルスはちらっとカゼスを振り返った。怖がらせて楽しんでいるのだろうか。

「無事にどこか出口から出て来られたら無罪、さもなければ……永久に出てこない。足元に気を付けろよ、人骨があるかもしれんぞ」

 うへっ、とカゼスは床に目をやり、嫌な顔をした。それからアテュスに、ひそっとささやく。

「あれ、ホントかい?」

「さあ。でも、似たような昔話は聞いたことがある。まさか毎日その上で生活しているとは思わなかったけどな」

 アテュスも嫌そうに顔を歪めてぼそぼそ答えた。

「気にするな」ヤルスはあくまでも平静だ。「どうせ毎日吸い込んでいる空気にも元死体の原子がまじっているんだから」

「そーゆーことを言わないで下さいよっ!」

 ぎゃーっ、と叫んだのはカゼスだけだった。アテュスは何のことか理解できずにぽかんとしている。

「私は事実を述べたまでだが」

「事実でも口にしていい状況とか、言い方とか、何かあるでしょうっ」

「じたばた暴れると下に堆積している昔のホコリが舞い上がるぞ。死体の原子どころか、もっと大きなものを含んでいる……」

「やめて下さいってばっっ!」

 他愛ないことで騒いでいる二人を後ろから眺め、アテュスは呆れ顔になった。

「いつの間にあんた、宰相閣下とそんなに仲良くなったんだ?」

 途端にカゼスは極め付きの苦い顔で振り向いた。

「これが仲良く見えるんなら君の目は相当おかしいね」

「目よりも情報を処理する脳の方だろうな」

 ぼそっとヤルスが言う。アテュスは意味はよく分からなかったが、自分が馬鹿にされている事だけは感じ取れた。

「今だって結託してるじゃないか……」

 宰相閣下に言い返すことはできなかったので、彼はぶつぶつと低くぼやいたのだった。


 三人が地下を王宮方面へ急いでいる頃、地上ではスーザニーの護送が行われていた。

 街の人々の目にしっかり焼き付くように、手枷足枷をはめられたスーザニーが近衛兵の槍に追い立てられて先頭を歩いて行く。

 宝珠の箱を持ったハーカーニーが傲然と顔を上げ、自分が今回の功労者であることを見せつけている。そのかたわらで、オルトシアが不安そうに後ろを振り返っていた。

「どうした、オルトシア? まだあの男が気になるのか」

 ささやいたハーカーニーに、慌てて彼女は首を振る。

「宰相様とラウシール様まで一緒に姿を消してしまったなんて、何か良くないことが起こりはしないかと……」

「心配ない。学府には兵を充分配備しておいた。奴らがどこに潜んでいようと、いずれは出てこなければなるまい。その時が奴らの最期だ」

 自信をもってそう言ったものの、ハーカーニーはふと眉をひそめた。

「宰相が奴らを逃がしたのは予想外だったが……まあ、いずれにせよ奴はどこか得体が知れなかったし、信用もしていなかった。構わんさ」

 慰められても、オルトシアの顔は曇ったままだ。目に涙まで浮かんで来た。

「申し訳ありません、特別に術を施して頂いたのに、満足に役目を果たせなくて」

 言外に『捨てないで』と訴えているのがにじみでている。ハーカーニーは一瞬うんざりしたように目を天に向けたものの、すぐに笑顔を作って少女の肩を抱いた。

「そなたがすぐ知らせに来てくれたおかげで、計画が台なしになるのを防ぐことができたのだ。何を責めることがある?」

 よしよし、と忠実な犬を相手にするようになだめながら、彼は別の事を考えていた。

(スーザニーの婆ぁが吊るされたら、他の余計な連中も片付けなきゃならんな……)

 捏造した文書で、いかにもスーザニーとその徒党が一部の貴族とつるんで宝珠を盗んだかのように見せかけているが、それだけでは『長衣の者』の中に残る邪魔者を一掃してしまうことはできない。

(だがしばらくは辛抱せねばなるまい。立て続けに失脚させて用心されてはかなわん)

 無事に都合のいい世嗣さえ国王に認めさせてしまえば、ハーカーニーの輝かしい未来は約束されたようなものだ。

 今回の計画をもちかけた貴族一門は、まだほんの幼い子供を世嗣につけようとしているとか。ハーカーニーは他の誰を排除してでも、その後見となるつもりでいた。

(見返してやる)

 自分を跡取りから外して、何の権力も持たない魔術師にしようとした親類縁者の顔が浮かぶ。ハーカーニーは我知らず剣呑な表情になっていた。

(私を一族から弾き出すというのなら、良かろう、一族など滅んでしまうがいい)

 宝珠盗難の黒幕は、彼自身の親兄弟だということになっているのだ。スーザニーの家から発見された密書によれば、だが。

 普通ならばハーカーニーにも累が及ぶのだが、皮肉にも今は、爪弾きにされたことによってその身を保護されている。『長衣の者』は等しくラウシールの後継者であるという理由で、出生や身分といったものの束縛から解放されるのだ。入門の時点で魔術師志願者は、世俗の権力との決別を強いられる。貴族の子供であれ、平民であれ、また極端な場合、時の敵国から来た者であれ、『長衣の者』になれば関係はない。

 反乱や犯罪に加担すれば別だが、『長衣の者』である限り身内の巻き添えはくわずにすむわけだ。

 おかげでハーカーニーは今回の件でも全く痛手を受けないまま、栄達することになる。

 貴族としての出世が望めない以上、彼は魔術師の頂点に立つことで世俗の権力をも手中に収めようと考えていた。少なくとも、そう出来るはずだ、と。

 完全に世俗の権力と手を切るなど、実際には出来ない相談だ。運営資金や数々の独立的な特権も、時の勢力者の庇護あればこそ。

 ハーカーニーがスーザニーのすぐ下にまでのぼりつめられたのも、そのお陰だ。自分の能力だけでそこまでの地位を得られることはないと、彼自身わきまえている。

(こんなものに頼らなくても自力でなんとかできれば)

 袖の中に隠したキューブをちょっと転がしててのひらに乗せ、彼はむっつりと考えた。

 そうすれば、もっともっと権力を得られるのに――

(この件が片付いたら、もっと詳しくこれを調べてみよう。何か手掛かりが得られるかも知れない)

 ヤルスを始末することになってしまった以上、今後は彼の所有する『赤眼の魔術師』の遺物に頼ることは出来なくなるのだから、なんとかした方がいいだろう。

 ……と、その時。

 空気がパシッと音を立てたような気がして、ハーカーニーは物思いから醒めた。

 顔を上げると、周囲の何人かが同じように奇妙な予感に襲われて、宙を見上げている。

 奇妙な空白の時間がすぎ、なんとなく詰めていた息を吐き出したくなった頃、

「うわ……っっ!」

 いきなり、地面が揺れた。

 さほどの揺れではなかったが、滅多にないことだけに人々の恐怖は激しく、悲鳴を上げる者や意味もなく逃げ場を探して走りだす者で、通りは騒然となった。安定の悪い物や店先の果物などが転がり落ちたり、犬や馬が興奮して吠えたり暴れたりする。

 人にとっては長く感じられたが、実際にはわずか十数秒で揺れはおさまった。

 それでもしばらくは騒ぎが鎮まらず、ハーカーニーたちも護送を再開できずに立ち往生してしまう。ややあってもう大丈夫かと安心すると、人々は次いでひそひそと低くささやきを交わしはじめた。

 これは何らかの凶兆ではないのか。

 王家の宝珠が盗まれたというだけでも、人々にとっては充分な衝撃だった。いまや、救い手であるラウシールの後継者たち、その中でも最高位にあるスーザニーが大逆罪で捕らわれている。国の未来に不吉な陰が差しても当然だ。

 そんな人々の不安を嗅ぎ取り、ハーカーニーはフンと鼻を鳴らした。

 馬鹿馬鹿しい。今のは単なる自然現象で、スーザニーとは何の関係もない。こんな不安が伝染したら、自分が最高指導者になろうというのに、雲行きが怪しくなりかねないではないか。

 いい迷惑だ、と彼は地面を睨みつけた。

 自分の胸中でも疼いている、小さな不安を握り潰すために。


 もちろん、地下にいる三人にとっては不安どころではなかった。

「あああ、びびびびっくりしたぁぁぁ」

 腰を抜かしたままカゼスが震え声で言った。壁に張り付いた状態のアテュスが、無言でがくがくと首を振る。ヤルスだけはそれまでいた場所に、無表情のまま立っていた。

「ここが崩れるほどの揺れではなかったな。父の収集品が何枚割れたかは考えたくもないが……珍しいこともあるものだ」

 ふむ、と落ち着き払って言うヤルスを見ると、さすがにアテュスもぼやいた。

「ちょっとは人間らしく怖がって見せりゃいいのに、可愛くねえったら」

 ぶつぶつ。言ってしまってからハッと気付いて、声に出すつもりはなかった、とばかりに口を覆う。が、時すでに遅し。冷ややかな凝視に耐えられず、彼はうつむいて縮こまるはめになった。

「おまえも貴族のはしくれなら、今後は少し言葉に気を付けた方がいい」

 凍てつく声で言ってから、少し間を置いてヤルスは普段の調子に戻った。とは言え、低温に変わりはないが。

「第一、なぜ私がおまえに可愛いと思われる必要がある?」

 …………。

 これは冗談だと察したのは、カゼスの方が早かった。ぶっ、とふきだし、座り込んだままくすくす笑いだす。ヤルスは口の端に微苦笑を浮かべて、カゼスに手を貸して立ち上がらせた。

 まだ笑いを浮かべたままカゼスは立ち上がると、憮然としているアテュスに話を振って気分を変えさせた。

「アテュス、君、今までに地震って何回ぐらい経験した?」

「え? いや、地面が揺れるなんて生まれて初めてだ。建物が嵐の時に風できしんで揺れたりとか、そういうことはあったけど」

 はー、と息を吐いて彼は胸に手を当てる。

「死ぬほど怖かったよ、今のは。特にこんな場所にいたんじゃな」

「逃げ場がないからねぇ」

 カゼスは苦笑し、偶然かな、と首を傾げた。『力』の変動が感じられたような気がしたのだが、地震を起こすほどとなると、気がした、程度ではすまないはずだから、何か別のことなのだろう。

「この近くには造山帯や活断層もないから、地震など滅多に起こらないはずなんだがな」

 ヤルスも首を傾げる。「なんだって?」と目をぱちくりさせたアテュスに、カゼスは簡単な説明をした。

「この辺りは大地が安定してるから、揺れることは少ないはずだって事だよ」

 まだ訝しげな顔をしながらも、ヤルスは歩みを再開した。アテュスとカゼスも、とにかく早くここから出るべきだろうと考え、急ぎ足になる。

 少し行くと、迷宮は舗装されていない広間に出た。

 広間、と言っては語弊があるかも知れない。そこはもとからあった洞窟部分らしく、壁に何か祭壇のようなものがしつらえられていたが、他にこれといって人間の手が入った形跡はなかった。

 真ん中の辺りで地面の一部が裂けて、深淵に落ち込んでいた。ザーッとかすかな水音が聞こえるところから察するに、地下水の流路なのだろう。

「なんだかひんやりしてますね。地下水かぁ」

 言いながらカゼスは、ちょこちょこ走って物見高く裂け目に近付く。アテュスは祭壇の方を気味悪そうに眺めた。

「嫌な感じだな。その、大昔に何かが棲んでた、っての、ここじゃないのか?」

「かも知れん。今は何もいないことを祈ろう。いずれにせよ、先を急がねば……カゼス、行くぞ」

 ヤルスは呼びかけたが、反応がないので眉を寄せた。

「どうした? 何かあったのか」

 用心しながら近付き、カゼスの横から深淵を覗き込む。アテュスもやってきて、暗闇に首を突き出した。

「何も見えないぞ」

 アテュスが言ったが、カゼスは無言で、ついと手を伸ばして底のほうを指さした。それから、泣き出しそうな顔で二人の方を振り向く。

「……何か、動いた……」

「馬鹿な。この暗がりと距離で動きが見えるほどの生物がいるとすれば、よほどの大きさでなければ……」

 言いかけたヤルスが、ぎょっとなった。確かに何かが動いたのだ。

 はるか下方で、地下水の流れがリトルの光を反射してちらちらしている。が、それとは別に、何かが動いて陰影を作った。

「逃げた方が、良くないか?」

 アテュスがごくりと喉を鳴らし、後じさる。残る二人も無言で身を引き、静かに静かに裂け目から遠ざかる。だが、何かは知らないがその生物は、闖入者の気配で完全に目が覚めてしまったようだった。

 水音が乱れ、大きくなる。流れの中に何かが出てきたせいだ。

「走れ!」

 アテュスが叫ぶと同時に、三人とも反射的に全速力で逃げ出していた。



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