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LOST  作者: 風羽洸海
10/16

五章 (1) 急変



「うら、起きろ、朝メシだぞ」

 蹴飛ばされて目が覚めた時、カゼスは自分がどこにいるのかしばらく分からなかった。

 まぶしい陽光が窓からいっぱいに差し込み、小川のせせらぎや鳥の声が聞こえる。ぼうっとした頭でぐるりを見回し、ベッドのそばに立っている男が目に入ると、ようやく現状を思い出した。

「アムルさん……帰ってたんですか」

 もそもそ起き上がり、うーん、と伸びをする。

「随分うなされてたな。大丈夫か?」

「え、そうですか? ああ……そう言えば嫌な夢を見ていたような気が」

 むにゃむにゃ答え、カゼスはベッドから降りてぼさぼさ頭のまま顔を洗いに行く。この家は小川のすぐそばに建っているので、井戸から水を汲まなくても良かった。

 どうにか身なりを整えて家に戻ると、アムルが鏡に向かって真剣な顔で髭を剃っていた。鏡といってもきれいな物ではないから、剃刀を扱う時は慎重にしなければならない。

 ちょうど終わるところだったらしく、最後の部分を剃ってアムルは振り向いた。

「それじゃ朝メシにするかね。お嬢ちゃんはこいつは要らねえだろ」

 言われてカゼスはどきりとしたが、慌ててうなずいた。髭剃りなど生まれてこの方、やったことがないのだ。その意味が分かっているのかいないのか、アムルはカゼスの頬を軽くぴたんと叩いてにやっとした。

「まったく、つるつるの顎しやがって、若い奴はいいねぇ」

 カゼスは曖昧に笑ってごまかす。幸いアムルはそれ以上この話題を続けず、手早く朝食の支度をすませた。

「昨日は遠くまで診療に出ていたんですか?」

 カゼスが水を向けると、アムルは「ああ」とうなずいた。

「オルトシアには会っただろ? あいつの親父さんが怪我をしたってんでな。動けねえから来てくれって呼ばれてよ」

「感じのいい人ですよね。なんだかてきぱきしてるし、愛想がいいし」

 調子を合わせるつもりで言ったカゼスだったが、アムルの反応は芳しくなかった。

「まぁ、普通だな」

 けなすわけではないが、好意的とは言えないコメントだ。

「息子の彼女となると評価が厳しいんですね」

 おや? と意外に思ってカゼスが首を傾げると、アムルは渋面を作った。

「そういうんじゃねえよ。ただ何となく、あいつは虫が好かねえってだけだ。俺が言うのもなんだがよ……志が低いってえか、視野が狭いってえか……」

 口をへの字にひん曲げて、アムルはぶつぶつと文句を並べる。『普通』と言ったのは外見や性格、人当たりといった事ではなく、内面のもっと深い部分を指しているらしい。

 そう気付くとカゼスはまた、軽い驚きをおぼえた。アムルがそんな高尚なものの見方をしているとは思わなかったのだ。低俗とまでは言わないまでも、彼の意識している世界は世俗的物質的なことであって、志だの視野だのといった精神的なことが入っているとは、ちょっと想像がつかなかった。少なくとも、ここ二、三日接した限りにおいては。

 ぽかんとしているカゼスの心境が分かったらしく、アムルは憮然として見せる。

「そんな心底驚いた顔をするこたねえだろう。失礼な奴だな。俺ぐらいの年になりゃ、女を顔だけで選ぶと後悔するってことぐらい分かるさ」

 ぶ、と思わずカゼスはふきだした。実際に後悔したことがある、と、相手の顔にくっきりと書かれていたのだ。アムルはますます苦い顔になった。

「昨日の事だってそうだ、あの程度の怪我だったらオルトシアが自分で何とかしてやれたはずだってえのに、俺を呼びに来やがった。他力本願なんだよ、ああいう子供は。手っ取り早く他人の助けを借りたがる」

 まったく近頃の若い者は……、とばかりにぶつぶつ言い、アムルは大袈裟にため息をついて見せた。

「アテュスさんにはそういうこと、言ったんですか?」

 カゼスが首を傾げると、アムルは「まさか」と鼻を鳴らした。

「てめえで学習させるさ。だいたいガキって奴ぁ自分の友達や恋人に関して親が口出しすりゃ、必ず腹を立てるもんと決まってるからな。おまえだって、親に『あの子と付き合うんじゃない』とか、そこまでじゃないにしろ友達をけなされたりして、ムッとした覚えがあるだろ?」

 言うだけ無駄さ、とばかりにアムルは肩を竦めたが、カゼスの反応はいささか予想と違っていた。彼は曖昧な表情でしばらく黙り込み、それからちょっと寂しそうに苦笑した。

「そういうことは、言われたことがないんで……」

 歯切れの悪い口調でそれだけ言い、語尾を濁す。アムルは数回続けて目をしばたたかせてから、こちらもまた何とも言い難い表情になった。

「そいつは、随分とできた親だな」

 カゼスは「いえ」とだけ答え、口をつぐんだ。気まずい沈黙の間に、二人はそれぞれ朝食を片付ける。ややあってカゼスは、小さくため息をついた。

「両親は私が誰と友達なのかも知りませんよ。まあ実際、友達なんていませんでしたけど……私が何をしようと誰と付き合おうと、勉強しようとすまいと、何の関心も示さなかったから。唯一関心を示して貰えるのは、病気になった時ぐらいでした。それもすぐさま病院に放り込まれておしまい、でしたけど」

 その度に、色々な検査を受けた。それは多分、自分が普通の人とは違っているからだろうけれど――とても、怖くて、寂しくて、嫌だったのを憶えている。だからそのうち、病気になってもそれを隠すようになった。親の注意を引く唯一の手段を使えなくなって、自分はずっと一人でいるのが当然なのだと、諦めてしまったのだ。

 不覚にも涙がこぼれそうになって、慌ててカゼスは瞬きした。アムルがその頭を軽くぽんとはたく。

「ま、気にすんなよ。親なんざいてもいなくても子は育つもんさ。あーだこーだとうるせえ小言を聞かされなかった分、マシだったかも知れねえし」

 な、と諭すように言い、アムルは食器を片付けはじめた。カゼスは涙を拭い、無言でうなずく。気が晴れるわけではなかったが、励まして貰えたのが少し嬉しかった。

 その時ふと、何の脈絡もなくカゼスはヤルスのことを思い出した。

 彼がまとっている空気になじみがあると思ったのは、自分自身の諦めと同じだからではないか、と気付いたのだ。孤独であることに慣れきってしまい、寂しいと考えることすら無意識に禁じている、そんな空気。

 今この場でカゼスがアムルの慰めを得てホッとしたのは、ヤルスが自宅で両親から受けている効果と同じなのではないか?

 ぼんやりそんな事を考えていると、誰かが戸口の方で壁を叩く音がした。

 皿を洗っていたアムルが、こんな早くに誰だ、とぶつくさ言いながら表に出て行く。二、三やりとりする声が聞こえ、ややあってオルトシアが入ってきた。

「カゼス様、お願いがあるんです。来て頂けませんか」

 何やらアムルに言われたらしい、彼女はおどおどしながら切り出した。

「ターケ・ラウシールの子供たちが、今朝になって急に次々と具合が悪くなって……原因が分からないんです。カゼス様なら治してくださるのではないかと」

 ターケ・ラウシール――『青い家』、というのは、ラウシールが創立した民間の慈善施設の名前だ。

「食い物に当たったんじゃねえのか?」

 アムルが口を挟んだ。初歩的な応急処置などはターケ・ラウシールの職員なら習得している筈だから、何もわざわざ魔術師の手を借りなくてもいい筈だ。第一、ここに医者がいるではないか。

 不審げになったアムルに、オルトシアは首を振る。

「もちろん最初はそう思って、薬を飲ませました。でも全然効き目がないんです。それに食べ物が原因なら、子供たちだけではないはずでしょう?」

 話を聞いてカゼスも「うーん」と唸った。物騒な事件が続いているだけに、どこで何がつながってくるか分からない。もしかしたら、という気分もあって、カゼスは承知した。

「分かりました。何ができるかわかりませんけど、行ってみましょう」

「王宮の方に行かなくていいのか? 宝珠盗っ人の件はどうなったんだ」

 主客転倒ではないか、とアムルが渋面を作る。一瞬カゼスは言葉に詰まったものの、すぐに「大丈夫です」とうなずいた。

「ゆうべ、どうやら盗っ人の一味とおぼしき連中が国王陛下の命を狙って来ました。だから多分、今日は彼らを締め上げて主犯の名を吐かせるんだと思います。私の出る幕じゃありませんから……もし誰かが呼びに来たら、私の居所を教えてくださいね」

 たぶん来ないだろうけど、と言い置いて、カゼスはオルトシアの後から市街地へ出かけて行った。


 ターケ・ラウシールは敷地面積こそ広かったが、建物の装飾などは地味なものだった。真っ青なタイルの屋根だけは遠くからも見えたが、それ以外にはこれといって装飾に費用をかけている様子はない。殺風景にならない程度に実用的だ。

 門まで行くと、中からうんうん唸る声が聞こえてきた。幼い子供たちがむずかる声や、苦痛に耐えかねて癇癪を起こした子供のわめき声も。

「こっちです」

 オルトシアが建物の中へと案内する。正面から入ると、ホールの壁に美しいレリーフが飾られていた。深い青色の髪の中性的な人物が、慈悲深い笑みを湛えて、その足元にすがる人々に手を差し伸べている。

 それを目にした瞬間、カゼスの胸に言いようのない感情が湧き上がった。

(なんだ? この気持ち……)

 無意識の間に、眉間にしわが寄っていた。じっと食い入るようにレリーフを見つめ、もやもやの感情が徐々にはっきりした形を取るに任せる。明瞭になったその感情の正体に気付くと、カゼスは無理やり視線を引きはがして床を睨んだ。

(くそっ!)

 激しい自己嫌悪。

 彼は、ラウシールに嫉妬したのだ。誰彼かまわず手を差し伸べられる余裕。他人に愛情を分け与えることができる、人々から慕われている存在。悔しかった。同じ青い髪の魔術師でありながら、この落差がたまらなく屈辱的だった。

 カゼス自身はと言えば、己のことで手一杯で、誰かに慈悲をかけるよりもむしろ自分の方がそれを必要としているのに。

(ああ、ラウシールを嫌う人がいても当然だよな)

 ヤルスの顔を思い出し、カゼスは奥歯を噛んだ。聖人面をして慈悲を垂れられても、乾き荒んだ人間にはいまいましいだけだ。荒れた手に水がしみるように、ひびの入った心に慈しみという水は痛いばかり。

 そして、そうと分かってしまう自分が嫌だった。

「カゼス様? どうかしましたか」

 オルトシアの声が物思いを破り、カゼスは慌てて顔を上げた。

「いや別に、なんでもないよ」

 どう見てもなんでもないようには思われない態度だったが、オルトシアはあえてそれ以上は訊かなかった。身振りで片方の廊下を示し、先に立って歩きだす。

 オルトシアが案内した大部屋に、子供たちが集められていた。

 ターケ・ラウシールは施療院のような機能も果たしていたが、大部分は孤児院として使われている。そのため、一度に多数の病人が出たりすると、治療室に入り切らないのだ。

「何があったって言うんだろうね、これは」

 さすがにカゼスも呆然とした。十数人もの子供たちが一様に体を丸め、震えている。嘔吐しているのも聞こえたが、大半はもう吐くだけ吐き尽くしたらしく、ぐったりと横たわったままだ。

〈リトル? 病原体が空気感染するとかいう可能性は?〉

〈そうだとしたら、ここのスタッフもとっくに発症している筈です。小児に特異性のあるウイルスというケースも考えられますが、むしろ何か毒物を誤飲した可能性の方が高いでしょうね。子供は何かと口に入れる癖がありますから〉

 あなたも昔はよく私をなめたりかじろうとしたりしたもんです、とリトルは余計な一言を付け足す。カゼスはそれを聞かなかったことにして、とりあえず近くに寝かされていた子供を診察することにした。

(熱はないな……脈は正常、外傷もなし。ふむ)

 ぐるりと周辺の子供を見回し、カゼスは眉を寄せた。よく見ると、症状は必ずしも一様ではなかった。真っ赤な顔をして腹痛に体をぎゅっと折り曲げている者もいれば、呼吸困難に陥っている者もいる。けいれんを起こしている者もちらほらといた。

(アルカロイド系の中毒みたいに見えるけど……原因はひとつじゃないのか?)

「嘔吐は全員が?」

 振り返ってオルトシアに問うと、何かに気をとられていたらしく、彼女は「えっ?」と聞き返した。

「全員、食べ物を吐いたかい?」

「あ、ええ……今は少し落ち着いたみたいですけど、私が出て来た時はもっと症状が激しくて……死ぬんじゃないかと思いました」

 胸の前で指を組んだりほどいたりして、落ち着かなげにそう答える。その手に、何か赤紫の染みがべったりとついているのに気付き、カゼスは嫌な予感をおぼえた。

 ぐいっとオルトシアの手首をつかみ、指を広げさせる。他の場所に汚れはついておらず、最初に目にした染みだけだった。

「これは?」

「え? あら、いつの間についたのかしら……何でしょう、分かりませんわ」

 きょとんとしてオルトシアはそれを見つめる。カゼスは不審に思って、まじまじとオルトシアを見つめた。だが彼女は本当に何も気付いていなかったらしく、不思議そうに首を傾げている。カゼスの凝視にもたじろいだ様子がない。

「洗って来ます。あの、この子たち、助かりますか?」

「……たぶんね」

 カゼスがうなずくと、オルトシアはパタパタと出て行った。

〈何の色だと思う? 毒性のある植物の実を彼女が触っていて、その手を介して子供たちが中毒を起こしたのかも〉

〈その可能性は高いですね。分析する時間も試料も足りなかったので、あれが何なのか正確なところは分かりませんが。とにかく先に子供たちの治療をすませましょう。吐いてしまった後なら、命の心配はないでしょうが、早く治すに越したことはありません〉

〈彼女を疑いたくはないな。過失だったと思いたいよ。だけど……あれだけべっとりついていたのに、気が付かないなんて馬鹿なことがあるとは思えないし〉

 いささか暗澹としながら、カゼスは治療に取りかかった。解毒薬を調合するには材料を集めなければならないし、人体に使用して害がない程度に精製しなければならない。そんな時間も設備も知識もないので、専ら魔術に頼ることにした。

 治療のために呪文を組み立て、『力』のレベルを落とす。それでもかなりの負担がかかり、カゼスは一人を治療する度にしばらく休憩しなければならなかった。

〈疑うといえば、カゼス。昨日の話の続きなんですが〉

 大方の処置を終えてぐったりしていると、リトルが話しかけて来た。

〈昨日? 何か言ってたっけ……ああ、ヤルスさんがどうとかって件かい〉

〈そうです。あの人にはどうも不審な点が多いんですよ。昨日、あなたは目の前の襲撃者に気を取られて彼が来た事にも気付きませんでしたが、あなたが上げた悲鳴はさほど大きくはありませんでした。二階にいて聞こえたとは思えません。恐らくあなたが声を上げるよりも早く、襲撃に気付いていた筈です〉

 はて、とカゼスは首を傾げた。別に不審な点はないように思われたのだ。聡い彼のことだ、国王の仕掛けた罠に気付いて早くから警戒していたのかもしれない。

〈気付いていたこと自体は不思議ではないかも知れません。しかしそれならば、あなたの悲鳴で気が付いたとは言わなかった筈です。それに、あの後アテュスさんが出てきた時、彼はすぐに脱走は咎めないと言いましたね〉

〈そりゃそうだろ? だってアテュスは……〉

〈襲撃犯ではない。そう知っていたのは、あの時点ではあなたと、寝室にいた近衛隊長ぐらいのものでしょう。後から襲撃の場に駆けつけて、投獄されているはずの人物を見付けたら……普通、ぎょっとするのが人間ではありませんか?〉

 カゼスはぎくりとした。治療の手がいつの間にか止まっていたことに気付き、慌てて目の前の子供に注意を戻す。

〈まさか……それじゃ、ヤルスさんがはじめから襲撃者の人数や顔触れを知っていた、って言うのかい? それじゃまるで、ヤルスさんが黒幕みたいじゃないか。そんな風にはとても思えなかったよ〉

 家での様子を思い出し、カゼスは頭を振る。だが、リトルは容赦しなかった。

〈もうひとつ厄介な証拠があります。あなたは翻訳呪文のせいで聞き流していたようですが……中庭にいて狙撃されたことがありましたね。あの時にヤルスさんと交わした会話の中に、ダースという単位が出て来ました〉

〈それがどうかしたかい〉

 やれやれ、と次の患者にとりかかりながらカゼスは先を促した。いちいち考えるのも面倒臭くなっていたのだ。これで最後の患者だ。治療を終えてしまえば、ゆっくり話す時間がとれる。

 カゼスが呪文を唱え終わるのを待って、リトルは続けた。

〈デニスの計数法はこれまで集めたデータを見る限り十進法だけです。十二進法は使用されていません〉

 リトルの言葉の意味をカゼスが理解するまで、しばしの時間を要した。

〈……ちょっと待ってくれよ。ダースって言ったのは……翻訳済みの言葉じゃなくて〉

〈そうです。私はあなたと違って翻訳呪文を直接利用することはできません。あなたの精神を媒介して翻訳された言語を同時に拾っていますが、実際はデニス語をそのまま記録しています。彼は確かに『ダース』と言ったんですよ。この国にはないはずの単位を。そしてそれは翻訳呪文を介しても変化しなかった。彼が別の意味でその言葉を使ったわけではないのは明白です〉

〈そんな馬鹿な!〉

 さすがに事の重大さに気付き、カゼスは愕然とした。ヤルスがカゼスと同じ故郷の言葉を知っている。ということは、すなわち、

〈ヤルスさんがデニスの人間じゃないって言いたいのか?〉

〈考え得る仮説としてはもっとも有力です。彼はシザエル人の『末裔』なのではなく、シザエル人そのものだということ。倉庫に入った時……転移装置が二百年前のものとは思えないと言ったあの時に、実際に新しいものだという可能性を思いつかなかったのは迂闊でした〉

〈それじゃ、ヤルスさんは二百年前のシザエル人とは別口のシザエル人だって事か? でもそれだったら、彼がザール教を広めようとしていないって事実はどう解釈するんだい〉

 信じられないよ、とカゼスは小さく頭を振る。

〈それに両親とも仲が良さそうだったし〉

〈彼が魔術師だったら細工は簡単な筈です。デニスには伝えられなかった『暗示』をかけてしまえばいいんですから。ザール教に関しては……いったい何ができます? 彼がたどり着いた時代には、既にシザエル人が過去の悪、『赤眼の魔術師』として位置付けられていたんですよ。いまさらザール教を広められると思いますか〉

 リトルの言葉はカゼスに予想外の衝撃を与えた。

 ヤルスがラウシールを憎んでいるのは、そのためなのだろうか? この説は確かに筋が通るように思われた。過去に漂着した他のシザエル人同胞が、ラウシールによって破滅させられたのだから、憎悪も当然だろう。

 両親と仲が良いにも関らず妙に寂しそうだったのは、それが暗示によって作り出された偽りの親子関係でしかないから? 本当の家族とは離れ離れになっているから?

〈暗示か……その手が……って、ちょっと待てよ!〉

 ぎょっとなってカゼスは弾かれたように立ち上がった。

 最後の歯車がカチリと合った。

 襲撃者がカゼスの魔法に吹っ飛ばされてもまだ立ち向かってきたのは。

 現実に宝珠は盗まれているのに、アテュスが『何も見なかった』と確信しているのは。

〈でも、どうしてあの人が!?〉

 ヤルスが暗示をかけたからだ。

 催眠状態のアテュスに宝珠を持ち出させたのなら、宝物庫には何の精神残像も落ちはしない。アテュスが何も見ず何も聞かなかったと証言するのも当たり前だ。彼の記憶には、ヤルスがやって来て彼に暗示をかけたことなど、残っていないのだから。

 そして襲撃事件が仕組まれたものであるとすれば、今頃彼らの口からは、事前に刷り込まれた黒幕の名前が出ているはず。彼らに暗示をかけた人物の名前ではなく。

〈冗談じゃない、急がなくちゃ〉

 慌ててカゼスは立ち上がる。が、大部屋から出たところでオルトシアと鉢合わせした。

「カゼス様? どうかなさったんですか?」

 びっくりして彼女は目をしばたたかせ、手に持っていたトレイを慌てて支え直した。

「お昼をお持ちしたんですけど……」

「え、あ、ごめん。でも」

 食べている時間などない、と言いかけたが、先に胃袋が抗議した。オルトシアが失笑し、カゼスは赤面する。朝食は早かったし、もうとっくに昼時は過ぎているのだ。空腹なのはごまかしようがなかった。

 急いで食べればいいか、とカゼスが考えを変えた時、リトルが警告した。

〈残念ですが食べない方がいいですよ。あなたがアルカロイド耐性をもつというのなら別ですが〉

 食事のトレイを受け取りかけていたカゼスは、ぎくりとして手を引っ込めた。オルトシアは怪訝な顔でこちらを見上げている。

 知らずに毒のある植物を食事に混ぜてしまったという善意的な解釈は、今となってはとても出来そうになかった。

(もし、僕をここに足止めしようとしているのだとしたら)

 不吉な考えに顔をひきつらせているカゼスの前で、オルトシアはただきょとんとしている。手の染みを見付けられた時と同じ顔で。

 カゼスは彼女の両手がふさがっているのを確認し、すっと手を伸ばして相手の額に指先を当てた。瞳を覗き込み、相手の精神をさっと調べる。そう深くもないところに、暗示のブロックがいくつか見付けられた。

(やっぱり……!)

 細かく調べている余裕はなかったので、いささか乱雑なやり方で暗示を解く。オルトシアはぽかんとしており、何をされたのか気付いていないようだった。

「ごめん、急用を思い出したんだ、戻らなくちゃ。あ、これは食べない方がいいよ」

 慌ただしくそれだけ言い、カゼスはオルトシアに背を向けた。

「えっ? えっ、あの、カゼス様? どうされたんですか? 急用って……それに、食べない方がいい、って……」

 おろおろとオルトシアが引き留める。カゼスは苛立ちを押し隠して振り返り、我慢強く言った。

「今は説明している時間がないんだ、とにかくその食事はもったいないけど捨てて。また後でわけは話すから」

 分かったね、と有無を言わせぬ口調で念を押し、カゼスは走りだす。

 王宮に行ってアテュスに会い、暗示を解いて犯行当夜の記憶を呼び戻すのが第一。それから、昨夜の襲撃者を尋問している誰かのところに行って、真実を告げなければ。

(ついでにどこかでお昼ご飯を食べられたらいいんだけどな)

 トホホ、と腹を押さえる。気付いてしまうと空腹感はいや増した。

 カゼスの後ろ姿がターケ・ラウシールの門をくぐって消えると、呆然としていたオルトシアはハッと我に返った。つかのま焦ってきょろきょろし、それからトレイをそこらに放り出して、彼女もまた外へと走りだした。

 ただし、カゼスが向かったのとは違う方へと。


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