序章
※性別の無い主人公に代名詞“彼”を使用していますが、これは男性三人称代名詞(he)ではありません。
単純に“此”に対する“彼”(彼の人、that person)であり、特定の性別を示唆するものではないことを予めご了承下さい。
読まれる方が意識の上でどちらかの性に区分されることを拒むものではありませんが、
「作者は主人公を男性として位置づけていない」ことはご理解賜りますようお願い致します。
テラ大陸共和国 シティ・ミランダ
ぼおぉ――……っ、と、窓の外を眺める受験生がひとり。
高層ビルの立ち並ぶシティから離れた丘の上の一軒家には、海を渡り谷を吹き抜けてきた風がよく通る。見晴らしの良い窓から微かに潮の香の残る風が入り、机の上の『治安局員資格試験問題集-魔術師部門-』のページをパラパラとめくった。
やる気はとっくの昔になくなっているのだが、彼――カゼスは一応、めくれたページを元に戻した。長い髪が視界にかかり、鬱陶しそうにそれを後ろに払いのける。その色は染料でも魔術でも出せない微妙な海の青。生まれつきの変異だ。
奥二重の眠そうな目をこすり、彼はなんとか問題集の内容に集中しようとした。最後の模擬試験は明日だし、本試験はわずか一ヶ月後に迫っている。
「治安局員規約第十一条とは何について定めたものか、制定の経緯をまじえて説明せよ」
声に出して、カゼスはぼそぼそとつぶやいた。学校のテスト用紙の裏に解答を書きなぐり、おざなりな答え合わせをする。この問題は嫌になるほど繰り返していた。
次の問題。一条に於いて定められている局員の義務とは……云々。
なんとか読みはしたものの、既にそれは単なる文字の羅列になってしまって、脳で文章として認識されない。
(…………て)
ぼんやり文字の模様を眺めていた半開きの目が、不意にパチリと開いた。
「今、呼んだかい? リトル」
背を伸ばして振り返ると、棚の上に鎮座ましましている一見水晶球のような物体が、中心に浮かぶシンボルをくるりと回した。
「いいえ、何も。来客でもありませんし、通信も入っていません」
答えた声は、人間のものに近いが、わずかに不自然さを残した合成ボイス。リトルなどという可愛らしい名前のわりには、落ち着いた成人男性のものに近い。
カゼスは何か物音がしそうなものを探して、室内をぐるりと見回した。この家に住んでいるのは彼とリトルだけだ。
家出も同然にここへ引っ越したのは、もう何年も前のことで、カゼス自身は一瞬たりともそれを後悔していない。……が、今この部屋を見る第三者がいれば、その選択は間違いだったのでは、と言うだろう。
資格試験が目前というのもあって、室内は混沌を極めていた。とは言え、注意を引くほど音を立てそうな物は、これといって見当たらない。崩れ落ちる可能性がある物は既にことごとく崩れてしまった後だ。
はて、と首を傾げたカゼスに、リトルは呆れ声を作った。
「夢でも見たんじゃないんですか、先ほどからまったくページが進んでいませんからね。本当にお気楽なんですから。落ちたらどうするつもりなんですか?」
「縁起でもないこと言うなよ」
ぼやいてカゼスはまた問題集に目を戻す。ちっとも集中できない。少し休憩して、実技の練習でもした方がいいかな、と考えた時、
(どうか……て下さい……)
「???」
今度は先刻よりも少しはっきりと聞こえ、カゼスは無視できず立ち上がった。
「やっぱり声がする……何だろう」
眉を寄せ、きょろきょろしながら部屋を出る。リトルが宙を飛んでついて来た。
「私のセンサー類には何も感知されませんが。精神波でもないようですし……」
「となると、純粋に魔術だけの何かが原因なのかな?」
家の中央にある螺旋階段を降りる。その下の床に描かれているのは、界渡りに使う専用の魔法円だ。今は受験勉強中なので、異世界旅行などに逃避できないよう封印してある。
(……ル様……私……て)
「ここみたいだ……でもどうして? 封印してあるはずなのに」
カゼスは円の上にしゃがみ、床に手をつく。リトルが嫌そうな声を出した。
「止して下さいよ、この大事な時期に。あなたが治安局員以外の道で魔術師として食べて行けるとは思えませんからね。神殿管理員とか研究職とか教員とか……あああ考えただけでぞっとする」
「機械のくせにぞっとするんじゃないよ」
憮然としてカゼスは言い返す。もちろんその後の反論は承知のうえで。
「私をそこらの合金と樹脂の塊と一緒にしないで下さい! リトルヘッドなんですよ、精神素子の網目によって形成される疑似人格を有する超高速情報処理端末にして知性体! そのありがたみを、たまには、少しでも、考えてみたらどうなんですかっ!」
湯気を立てているリトルには構わず、カゼスは屈んだまま封印を調べていく。
「おかしいな……きっちり封じられているのに」
(どうか助けを)
突然、声が明瞭に響いた。ぎくっとしてカゼスはその場から飛びのこうとする。
が、遅かった。
「うわっ! 落ちる!」
縁起でもない。だが、実際に彼の体は『下』へとはまりこんでいた。
「何やってるんですか!」
「そんな事言ったって、僕だってわけ分からなっ、ぅわあっ!」
床が消失し、狭間へと飲み込まれる。いつもの旅行の時とは違う、無理やり引きずって行かれる感覚。
色彩の渦。重力場の回転。一緒に飲み込まれたらしいリトルが、カゼスの目には伸びたりねじれたりしながらついて来る。
どうにかして戻ろうとするものの、まったく効果がない。じたばたしながらふと、
(あ……資格試験、受けなくてもよくなるかも)
などと後ろ向きな期待を抱いたのを最後に、あっと言う間に流されて行った。