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ショート版(mkis)

【あらすじ】

三十二歳の宮廷魔法師ルナは、魔核出力が現役最低基準の七十パーセントを下回り、半年以内に回復しなければ引退と告げられる。夜の錬金術院で出会ったのは、非公認の《細胞還元術》を研究する二十八歳のクロード。彼だけが「枯れたのではなく、眠っている部分がある」と言った。施術の条件は、嘘をつかないこと、途中で止めないこと。魔力を取り戻す治療のはずが、いつしかルナには研究室に帰る理由が増えていた。


「半年以内に七十パーセントへ戻らなければ、引退だ」

王立魔術院長の声を、ルナは椅子に座ったまま聞いた。

検査票の数字は、六十パーセントを下回っている。

宮廷魔法師の現役最低基準は七十。

三十二歳。

四十代から始まるはずの魔核の老化が、もう自分には来ていた。

「承知しました」

立ち上がった声は震えなかった。

廊下へ出てから、指先が冷えた。

*

最初の施術は、二日後の夜に行った。

クロードの研究室は、昼に見ると想像より小さかった。机が二つ、棚が三列、作業台が一つ。

棚には瓶が並んでいた。細胞還元術に使う試薬だとクロードが説明した。色の違う液体が、整然と並んでいた。

長椅子が一つあった。施術用だという。ルナは長椅子に横になるよう言われた。普通の服でいい、と言われていたので、魔法師の礼服ではなく、普段着で来ていた。そのことが、なぜか少し、楽だった。

「施術中、何かを感じたら言ってくれ。深い、浅い、温かい、冷たい、何でもいい」

「何を感じるんですか」

「術者が魔核に触れると、患者は体の奥に圧を感じることが多い。でも人によって違う。あなたがどう感じるかを聞きたい」

ルナは頷いた。

クロードがルナの横に椅子を置いて、座った。右手を、ルナの胸元の上に——触れるか触れないかの位置に、かざした。ルナの魔核は胸の中央、やや左にある。そこに向けて、クロードが何かを送り込んだ。

感じた。

圧、というよりは、熱。でも痛くない。体の奥に、温かいものが届いてきた。ゆっくりとした波のように。

「……温かい」

「どこに?」

「胸の奥。左側」

「魔核の場所を正確に感じられるか」

「……感じます。そこにあります」

クロードが手の位置を少し変えた。

「今は?」

「さっきより、少し深い。少し重い感じ」

「重いというのは、痛いとは違うか」

「違います。圧があるだけで、痛くない」

クロードは何も言わなかった。施術は続いた。三十分ほど。その間、クロードが時々状態を聞き、ルナが答えた。それだけの時間だった。

施術が終わって、ルナが起き上がった。クロードが手帳に何かを書いていた。

「どうでしたか」とルナは聞いた。「想定より深い場所に問題がある。表層ではなく、魔核の中層から老化が進んでいる」

「それは、悪いことですか」

「悪いというより、難しい。中層への施術は、表層より時間がかかる」

「どのくらい」

「三ヶ月から四ヶ月。活性化が切れる前に次の刺激を入れるため、週に三回だ」

ルナは考えた。院長の期限は半年だ。それより早く成果を出さなければならない。三ヶ月なら、間に合う。

「わかりました」

「次は三日後。睡眠と、魔力の節約を続けること」

「はい」

ルナが扉に向かったとき、クロードが「もう一つ聞いていいか」と言った。

「何でしょう」

「戦場での連続使用は、いつのことだ」

ルナは止まった。

「……五年前」

「三日間、ほぼ連続だったと記録には書いてあった」

「……読んだんですか、私の記録を」

「施術前に必ず読む。患者の情報は全部知る必要がある」

ルナは間を置いた。

「……はい。三日間、ほぼ連続でした」

「そのとき、魔核に何かを感じたか」

「……三日目の夜、何かが終わった気がしました。燃え尽きた感覚。でも翌日にはまた動いていたので、気のせいだと思いました」

クロードが手帳に何かを書いた。

「嘘をつかない、という条件を守ってくれた」

「……それが嘘をつかない、ということですか」

「気のせいだと思ったことも、正直に言った。それが大事だ」

ルナは何も言わなかった。夜の廊下に出て、星空を見た。三日後、また来る。

*

週に三回の施術が始まった。

火曜、木曜、土曜の夜に、ルナはクロードの研究室に来た。一回の施術は三十分から一時間。

クロードが状態を読み、術を送り込み、ルナが感覚を報告する。それの繰り返しだった。

単調に見えて、毎回違った。クロードが触れる場所が変わった。施術の質が変わった。ルナが感じるものも、毎回違った。

二週間目の施術後、クロードが「先週より細胞の反応が出ている」と言った。それだけだったが、ルナには十分だった。

レイナが「どんな感じ」と聞いてきたとき、ルナは「まだわからない。でも、変わっている気がする」と答えた。

「変わってる、って、具体的に?」

「……朝、体が少し軽い。前は起きると魔核が重かった。それが、違う」

「すごいじゃない」

「まだ出力は変わっていない。でも、何かが変わっている感触はある」

レイナが笑った。

「そのクロードって人、どんな人なの」

「……無愛想。余分なことを言わない。でも」

「でも?」

「嘘をつかない。わかることはわかると言って、わからないことはわからないと言う。それが施術の信頼につながっている、と思う」

レイナが「なるほど」と言った。何か考えているような顔だったが、それ以上は聞かなかった。

*

その夜、クロードは研究室に一人でいた。ルナの魔核の記録を、また開いていた。今日の施術が終わってから、すでに三度目だった。

「この細胞の反応パターンは、今まで見たどの症例とも違う」

記録を見ているつもりが、同じ行を何度も追っている。それとも、変わったのは自分の観察の方なのか。

カップに手を伸ばすと、お茶はもう冷めていた。どのくらい時間が経ったのか、気づいていなかった。

施術が一ヶ月を過ぎた頃、クロードが初めて「眠っている」という言葉を使った。

「焼けたのではなく、眠っているんだ。まだ終わっていない」

その日の帰り、ルナが傘を持っていないことに気づいたクロードが「待て」と言って、研究室の傘立てから一本取り出した。「明日返せ」とだけ言って渡した。翌日ルナが返しに来ると「今日の施術記録を確認したい」とクロードが言った。「今日は施術の予定ではありませんが」とルナが言うと「確認だけだ」と答えた。確認は十五分で終わったが、クロードはその後もルナがいることを特に気にしなかった。

施術の後、クロードがそう言った。ルナが「どういう意味ですか」と聞くと、クロードは手帳を開いて、図を描いた。魔核の断面図みたいなものだった。

「ここが表層。ここが中層。戦場での過負荷で、中層から深層にかけての細胞が、自己保護のために活動を停止した。焼けたなら回復しない。でも、眠っているなら起こせる」

「……起こせる、というのは確信ですか」

「確信ではなく、可能性だ。ただ、俺の見立てでは、眠っている確率が高い」

「それは、施術を始めてからの一ヶ月で、わかったのですか」

「そうだ。最初は判断がつかなかった。でも細胞の反応パターンを見ると、死んでいるのではなく反応を抑えている状態だとわかってきた」

ルナはクロードの描いた図を見た。

「……眠っている細胞を起こすには、どうするんですか」

「今やっていることの延長だ。外から刺激を与え続けることで、眠っている細胞が目覚め始める。時間がかかる。でも、目覚めない理由はない」

ルナは間を置いた。

「……あなたはなぜ、この研究をしているんですか」

「聞いていいのか」

「ダメですか」

「……母が魔法師だった。三十八歳で枯渇して、引退した。あのとき、助ける方法があればと思った。それが始まりだ」

ルナは何も言わなかった。

「……お母様は、今も」

「元気にしている。魔法師以外の仕事を見つけた。でも、あのときの悔しさは、今も俺の中にある」

クロードが手帳を閉じた。

「……次の施術は三日後だ。今日は早く休め」

ルナは頷いて、部屋を出た。廊下に出ると、星空が見えた。冬の星は多くて、少し冷たかった。

眠っている。焼けたのではなく、眠っている。その言葉が、ルナの体の中で、温かくなった。

*

施術が続く中で、深夜の研究室に居る時間が変わっていった。

施術が終わると、ルナはすぐに帰らなくなった。クロードが作業を続け、ルナが椅子に座って、施術の記録をつける。特に話さなくても、同じ研究室で過ごすようになっていた。

クロードがお茶を淹れることがあった。「飲むか」と聞いて、ルナが「いただきます」と言う。それだけの会話で、お茶の時間が始まった。

ある夜、ルナがクロードに「施術中、あなたは何を感じているんですか」と聞いた。

「感じる、というのは」

「術者の側から、患者の魔核に触れると、何かを感じますか」

「……感じる」とクロードは言った。「患者の魔核は、それぞれ形が違う。ルナの魔核は」

「どんなですか」

「……頑固だ」

ルナは笑った。

「それは褒めているんですか」

「事実だ。刺激を加えると、抵抗する。でも、時間をかけると動く。そういう魔核だ」

「……頑固、というのは、困りますか」

「困らない。俺も頑固だから」

また笑った。今日は二回笑った。クロードの研究室に来るようになってから、笑う回数が増えた気がした。

「クロード、あなた、笑いませんね」

「そうか?」

「一度も見たことがない。でも」

「でも?」

「笑っていなくても、あなたと話すと、なぜか私が笑う」

クロードは何も言わなかった。お茶のカップを置いた。

「……それは、いいことだと思う」

ルナは窓を見た。夜の外に、星があった。

「……私は、魔法師でなくなったら何もないと思っていた」

「今も?」

「今は……少し違う気がしている。ここに来るようになってから」

クロードは何も言わなかった。でも、資料のページをめくる手が、止まった。

*

二ヶ月目の末に、魔核の出力が七十パーセントに達した。

エラーかと思って、クロードは三回測り直した。三回とも、七十を超えていた。

「七十を超えた」とクロードが言った。ルナは何も言えなかった。七十。院長が定めた現役維持の最低基準値。それに達した。まだ安定していないし、九十以上が理想だということはわかっている。でも、七十を超えた。「……本当に?」

「三回測った。全部七十を超えている」

「……っ」

声が出なかった。喉の奥に何かが詰まった。泣くつもりではなかった。でも、目が熱くなった。

クロードはルナを見て、何も言わなかった。記録用紙を渡してくれた。数字が書いてあった。

七十一・三パーセント。

ルナはその紙を持ったまま、少しの間、黙っていた。

「……ありがとうございます」

「まだ途中だ」

「わかってます。でも、ありがとうと言いたかった」

クロードは何も言わなかった。でも、椅子を引いてルナの向かいに座った。

「……次の目標は、八十だ。八十を超えれば、安定域に入る。そこまで続ける」

「はい」

「泣くか」

ルナは笑った。

「……泣きません。でも、泣きそうだった」

「泣いてもいい」

「泣きません。まだ途中なので」

クロードの表情が変わった。笑いではない。でも、笑いに近い何かだった。ルナはそれを見た。

*

その三日後、院長がクロードを呼び出した。

ルナには後から知らされた。レイナが「院長が錬金術師を呼んで、施術の中止を命じたらしい」と言った。

ルナは院長室に行った。

院長は驚いた顔をした。ルナが自分から院長室に来ることは、ほとんどなかったからだ。

「院長、クロード・アシュの施術の中止を命じたと聞きました」

「非公認の術は、万が一の事故があれば院の責任になる。それだけのことだ」

「待ってください」

院長が止まった。ルナが「待ってください」と言ったのは、十七年間で初めてだった。

「……成果が出ています。私の魔核の出力が、七十一パーセントまで回復しました」

「それは」

「二ヶ月前、六十を下回っていました。今は七十一です。十一ポイント上がっています。これは細胞還元術の成果です」

院長は黙っていた。

「……続けたいのか」

「続けます。中止命令を撤回してください」

「ルナ、事故が起きた場合の責任は」

「私が取ります。院には迷惑をかけません。書面で残してもいい」

院長は黙っていた。

「……わかった。ただし、二週間ごとに私に状態を報告すること。その条件でなら、続けることを認める」

「ありがとうございます」

ルナは礼をして、院長室を出た。廊下でレイナが待っていた。

「どうだった?」

「続けられることになった」

「! ルナ、あなた院長に言い返したの?」

「言い返したというより、事実を伝えた」

レイナが笑った。

「……あなた、変わってきてる」

「そうかしら」

「魔法師としての誇りは前からあった。でも、それとは別の何かが今はある気がする」

ルナは廊下の窓から、遠くの錬金術院を見た。夕方の光が当たって、橙色に見えた。

クロードに、院長の決定を伝えなければならない。それを思ったとき、少し早く歩きたくなった。

*

クロードに中止命令が撤回されたことを告げると、彼は間を置いてから「そうか」と言った。

「院長を説得したのか」

「事実を伝えました。七十一パーセントという数字を」

「……俺には、できないことだ」

「何が?」

「人を説得することが、得意ではない。研究の話なら話せるが、人の感情を動かすような話し方が、俺にはできない」

ルナは考えた。

「クロード、あなたは知っていますか。あなたが施術中に患者に話しかける言葉は、感情を動かしていますよ」

「……俺は事実を言っているだけだ」

「『眠っているだけだ』という言葉は、事実かもしれません。でも、それを言われた私は、泣きそうになった。事実が感情を動かすことは、あります」

クロードは何も言わなかった。しばらく手帳を見ていた。

「……そういう言い方をされたのは、初めてだ」

「院長にも同じことを言っていいと思います。あなたの研究は、事実として成果が出ている。それを伝えれば、動く人は動く」

「……あなたが動いたように」

「私はあなたの言葉に動かされました。それが、循環していると思っています」

クロードがルナを見た。

「……ありがとう」

クロードが礼を言ったのは、初めてだった。ルナは驚いた。

「……どういたしまして」

*

三ヶ月目に入った週、クロードが「次の段階に進みたい」と言った。

「細胞質置換施術だ。今までの施術は、細胞を刺激して活性化させるものだった。次は、あなた自身の魔核に残っている活動性細胞から細胞質成分を採り、増幅して、老化した領域へ戻す。俺の魔力は、それを深部へ運ぶために使う。これが細胞還元術の最終段階になる」

「それが成功すれば、どうなりますか」

「理論上は、一回の施術で十から二十ポイント程度の回復を見込む。ただし、六十パーセント未満まで落ちた早期枯渇例では、まだ成功例がない」

「リスクは?」

「術者の消耗が大きい。細胞質成分を深部へ運ぶほど、搬送に使う魔力が増える。それと、施術中に患者が過去の記憶に触れることがある。魔核は感情の記憶も持っている。強い記憶で防御反応が起これば、搬送に必要な魔力はさらに増える」

ルナは間を置いた。

「……過去の記憶、というのは、戦場の記憶も含みますか」

「含む可能性が高い。あなたの魔核の老化は、あの夜の過負荷が原因だから。その記憶が残っているはずだ」

「……それと、向き合わなければならない」

「向き合う必要はない。ただ、出てきたものを観察することは必要かもしれない」

ルナは窓を見た。夜だった。外に星があった。

五年前の戦場。三日目の夜の感覚。燃え尽きた、と思った瞬間。あの感覚を、もう一度経験するかもしれない。怖いか、と自分に聞いた。怖い、と答えが来た。でも、止まりたくはない。

「……やります」

「そうか」

「一つ聞いていいですか。術者の消耗が大きい、と言いましたが、あなたは大丈夫ですか」

クロードが止まった。

「……限界は超えないようにする」

「それは大丈夫、とは少し違いますね」

「こういう施術では術者の負担は必ずある。それを最小化するための準備はする。でも、ゼロにはできない」

「……わかりました。一つ条件を言っていいですか」

「どうぞ」

「限界を超えそうになったら、止めてください。私よりあなたの安全を優先して」

クロードはルナを見た。何か言いかけて、やめた。

「……わかった」

*

細胞質置換施術は、月曜の夜に行った。

準備が丁寧だった。クロードが前日から試薬を調合し、当日の夕方に研究室の調整をした。

ルナは指示通り、昼間は魔力を全く使わなかった。昼食もクロードに指定されたものを食べた。「細胞の状態を整えるため」と言われた。

夜の八時に研究室に来た。クロードがすでにいた。作業着ではなく、施術用の衣類に替えていた。清潔な白で、袖が細い。

「状態は?」

「良いと思います。不思議と、落ち着いています」

「緊張はしていないか」

「……少し。でも、怖くはない。あなたがいるので」

クロードが間を置いた。

「……この施術には、術者と患者の信頼関係が必要になる。俺の魔力で細胞質成分を深部へ運ぶからだ。患者が術者を拒むと、魔核の防御反応が強くなって流入が止まる。逆に、体が受け入れていれば搬送は安定する」

「……それを言うのは、私に信頼してほしいからですか」

「事実を伝えているだけだ。ただ」

「ただ?」

「……俺は、あなたを信頼している。それも、事実として伝えておきたかった」

ルナは驚いた。クロードが「信頼している」と言ったのは、初めてだった。

「……私も、あなたを信頼しています。三ヶ月間で、そうなりました」

クロードは何も言わなかった。でも、施術の準備をする手の動きが、いつより丁寧だった気がした。

ルナが長椅子に横になった。クロードが椅子を引いた。隣に座った。今日は、クロードがルナの胸元に手を当てられる位置まで椅子を寄せた。

右手を、ルナの胸元の上に当てた。今日は触れた。肌ではなく衣服の上から、クロードの右手がルナの胸元に触れていた。

施術が始まった。

最初の十分は、いつもと同じだった。温かいものが体の奥に届く感覚。でも徐々に違ってきた。もっと深く。今まで届いたことのない場所に。

記憶が、来た。

五年前の夜の戦場。炎と煙。仲間が叫んでいる。魔力を使い続けた。使い続けた。それでも、彼女は使うのをやめなかった。三日目の夜、何かが変わった。魔核の奥で、何かが止まった。

燃え尽きた感覚。恐怖と、それでも動かなければという意志と。

施術中なのに、泣いていた。声を出さずに、涙だけが流れた。

「……大丈夫か」クロードの声が聞こえた。「……大丈夫、です。記憶が来ています。続けてください」

クロードは止めなかった。施術を続けた。

記憶の中で、三日目の夜が過ぎた。燃え尽きた感覚があって、それでも朝になった。魔核が動いていた。眠っただけだった。燃え尽きたのではなく、眠っただけだった。

そのとき、魔核の奥で何かが動いた。

温かいものが、広がった。今まで感じたことのない広がり方で。細胞質が、置き換わっていく感覚。古い、疲れた細胞が、少しずつ違うものになっていく。

出力の数値を感じることはできないが、何かが変わったことは、体でわかった。

施術が終わった。どのくらいの時間が経ったか、わからなかった。ルナが目を開けると、研究室の天井があった。

クロードが、椅子に座ったまま、前に傾いていた。頭が下がっていた。

「クロード?」

返事がなかった。

ルナは起き上がった。クロードの傍に行った。触れてみると、呼吸はある。でも、意識がなかった。戦場の記憶が戻ったとき、ルナの魔核は一度強い防御反応を起こした。その抵抗を越えて細胞質成分を運び続けた分、クロードの消耗は想定を超えていた。

ルナは彼の体を支えて、長椅子に横にした。毛布を持ってきてかけた。お茶を作った。クロードが意識を取り戻したときのために、傍の机に置いた。

それから、彼の傍に椅子を置いて、座った。

三ヶ月間、クロードがルナの傍にいた。今夜は、ルナがクロードの傍にいる番だった。

*

一時間後、クロードが目を開けた。

最初に見えたのは天井だった。次に、すぐ傍に座っているルナだった。

「……ルナ」

「起きた。よかった」

「お前は、どうして」

「傍にいました。あなたが三ヶ月間、私の傍にいてくれたので」

クロードは何も言わなかった。お茶のカップが傍にあるのに気づいた。手を伸ばした。飲んだ。

「……施術は、うまくいったか」

「わかりません。でも、何かが変わった感触があります。明日、測ってみましょう」

「……今夜は測れないか」

「測れますが、あなたが動けそうにないので。明日でいいです」

クロードが間を置いた。

「……消耗した。消耗で意識を失った」

「わかっています。条件を言ったのに、守れませんでしたね」

「……怒っているか」

ルナは考えた。

「怒っていません。でも、心配しました。心配させたことを、少し怒っています」

クロードの顔が変わった。今までで一番、笑いに近い顔だった。

「……心配、してくれたか」

「しました。あなたが倒れているのを見て、まず呼吸を確認した。そのとき、自分の魔核が回復したかどうかより、あなたの呼吸の方が先に気になった」

クロードは何も言わなかった。でも、長椅子の上で、体の力が抜けた気がした。

「……今日は、ここで休んでもいいですか」とクロードが言った。「どうぞ。私もここにいます」

「……付き合わせてしまう」

「付き合うのではなく、いたいのでいます」

クロードはルナを見た。何か言いかけて、やめた。目を閉じた。

研究室に静かが戻った。星の光が窓から入っていた。ルナはクロードの傍に座って、施術の記録をつけた。今夜のことを、全部書いた。

*

翌朝、魔核の出力を測った。

八十七パーセント。

クロードが三回測り直した。三回とも、八十五から八十七の間だった。

ルナは数字を見て、動けなかった。

八十七。一ヶ月半前に七十一になったとき、泣きそうになった。今日は泣こうとは思わなかった。ただ、静かに、その数字を見ていた。

「……八十七」とクロードが言った。「一回の施術で十六ポイント上がった。想定範囲の上側だ」

「それは、良いことですか」

「良いことだ。七十一パーセントから八十七パーセントへ、一回で十六ポイント上がった」

「……なぜ、うまくいったと思いますか」

「……お前が、戦場の記憶と向き合ったからだと思う。回避せずに。それが細胞の開放につながった」

ルナは施術台の縁に手を当てた。昨夜、ここで記憶の中の戦場を経験した。泣いた。でも、続けた。クロードが倒れ、ルナが傍にいた。全部つながっている。

「クロード」

「何だ」

「これで、あなたの研究の成果が証明されました」

「……まだ一例だ」

「でも、一例は最初の一例です。十例になり、五十例になる。あなたの母が枯渇した三十八歳から、研究を始めてここまで来た。最初の成功例が出ました」

クロードは手帳を持ったまま、何も言わなかった。

「……あなたが諦めなかったから、ここまで来られました」

「あなたが諦めなかったから、だ」

「二つとも、本当のことです」

クロードが手帳を置いた。椅子に座った。ルナも向かいに座った。

お茶を淹れた。いつもクロードが淹れるが、今日はルナが淹れた。クロードは受け取った。

飲んだ。

「……院長に、報告に行かなければならない」とルナが言った。「そうだな」

「一緒に行きますか」

クロードが間を置いた。

「……行く」

*

院長室で、ルナとクロードが並んで立った。

ガルド院長は検査結果を見た。三回目を見たとき、眼鏡を外して、もう一度見た。

「……八十七か」

「はい」とルナが言った。「細胞質置換施術の結果です。昨夜の施術で、一回で十六ポイント上がりました」

「……クロード・アシュ、あなたの研究について、一つ聞いていいか」

「どうぞ」

「この成果を、他の魔法師にも適用できるか」

「条件が揃えば。魔核の老化の段階と、患者の協力と、時間が必要ですが、可能です」

「……非公認術のままでは、広めることができない」

「そうです」

院長は黙っていた。

「……正式認定ではない。まず条件付き臨床研究として審査にかける。症例を重ねて、安全性と再現性を見る。それなら私の権限で動かせる」

クロードが、間を置いてから言った。

「……ありがとうございます」

それだけだった。でもルナは、クロードの声が変わっていることに気づいた。感情の薄い声に、何かが混じっていた。

院長室を出た後、廊下でルナが言った。

「声が、変わっていましたよ」

「……気づいたか」

「波紋士ではないですが、声の変化はわかります」

「……十年かかった。母が枯渇してから、十年かかった。それが、少し」

クロードが止まった。窓の外を見た。

「……報われた気がした」

ルナは何も言わなかった。

クロードの隣に立って、同じ方向を見た。外は晴れていた。秋の光が差し込んでいた。

少しの間、ふたりはそのまま立っていた。言葉のない時間だったが、それが重くなかった。

*

半年後。

魔核出力は九十パーセント台で安定した。

ルナの引退勧告は撤回。

クロードの細胞還元術は、条件付き臨床研究として認められた。

ルナは仕事帰り、錬金術院の二階へ上がった。

研究室の窓辺に、以前はなかった椅子が一脚ある。

棚には、ルナが使ってきたカップ。

クロードが戻ってきた。

「来ていたのか」

ルナは椅子に手を置く。

「これ、私用ですか」

「他に使う者はいない」

「私が来ない日は?」

「空いている」

「片づけないんですね」

「必要になるから」

ルナは彼を見た。

「感謝を言うために来ているんじゃありません」

「知っている」

「あなたがいるから来ています」

クロードはそこで黙った。

十秒。

二十秒。

「返事は?」

「考えている」

「研究結果ですか」

「言葉だ」

やがて彼はルナの隣へ立った。

「俺も、あなたが来るから、この部屋にいる時間が増えた」

「研究以外で?」

「ああ」

ルナは椅子へ座った。

クロードはもう一脚、自分の椅子を引いた。

窓辺に二人分の席。

棚に二人分のカップ。

体の奥で、九十二パーセントの魔核が脈打った。

もう引退基準を恐れる炎ではない。

明日もここへ来るために燃える炎だった。

了



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