正直薬
ある街に一人の科学者、J博士がいた。
J博士の開発した薬は、世界を変えた。
「服用から約一時間後、三日間のあいだ、一切の嘘がつけなくなる」
ただそれだけの効果を持つ、無味無臭の白い錠剤。
——その名も「セラピンβ」。
当初は、重度の自己欺瞞を患う患者向けの精神医療用に開発されたが、ある日、政府関係者がそれに目をつけた。
「これを都市規模で散布したら、犯罪の抑止になるのではないか」
「政治的な腐敗を根絶できるのではないか」
「国民が本音で語り合う、理想の社会が築けるのではないか」
そうして、正直薬は倫理的実験の名の下に、とある中規模都市においてドローンを使用し、夜中に極秘に散布された。
──そして、地獄の三日間が始まった。
翌朝、街は地雷原となった。
まだ新婚の夫婦が、いつも通りお互いの愛を確認するように、質問を投げかけた。
「ねぇあなた、私と結婚して幸せ?」
夫はにっこりと笑みを浮かべ、答えた。
「お前と結婚したのは、他に選択肢がなかったからだ」
妻は微笑んだまま、包丁を握りしめた。
ある子供は学校で教師に言った。
「先生の授業、つまらないって思ってます。早く定年すればいいのにって、みんな言ってます」
「何てこと……何てこと言うの!!私だってこんなクソガキだらけのクラスやりたくなかった!出来の悪いガキのお守りなんて自分の子で十分なのよ!!」
役所では上司が部下に言った。
「君の顔が嫌いでね。実力もなければ愛嬌もない。なぜ君がまだここにいるのか不思議だよ」
「奇遇ですね、私もあんたのような無能ハゲが偉そうに踏ん反り返っているのが目障りで仕方なかったですよ」
真実が解き放たれた社会は、まるで壊死し膿でパンパンに膨れ上がった傷口を開いたようだった。
人々は、自分でも気付かぬうちに嘘をつくことで、社会という幻想の舞台装置を保っていた。
だが、そのカーテンが突如取り払われたのだ。
街は瞬く間に崩壊した。
家庭は崩壊し、学校は崩壊し、職場は崩壊し、教会すら崩壊した。
愛、友情、信頼。
すべての言葉が虚飾であると暴かれた時、人々は人であることをやめた。
「……人間は、正直に生きる事は出来ない」
この言葉を残して、J博士は効果の切れる三日目の夜、自ら命を絶った。
彼の死は皮肉だった。
誰よりも嘘を憎み、誰よりも真実を愛した彼自身が、最も早く崩壊に耐えられなかったのだ。
それから十年。
都市は封鎖され、記録は抹消された。事件はなかったことにされ、セラピンβの研究も闇に葬られた。
ただ一人、都市の外で暮らす老人が、ぽつりと語る。
「博士の薬で目が覚めた人間は、最初に死んだよ。正直者は、生きられなかった。
でも嘘つき達も、それから長くは保たなかった。
……みんな、本当の事なんて聞きたくなかったんだ。自分自身ですら、ね」
老人は窓の外を見つめる。
そこには、嘘と建前とお世辞と忖度で彩られた、見事な平和な社会が広がっていた。
老人は静かに笑った。
──人間は正直には生きられない。
故に、今日もこの世界は嘘で美しく彩られている。




