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丘陵なる人生

 その腕時計型デバイス『オプティマス』は、現代人の必須アイテムだった。

 

 高性能AIが装着者の脳波、心拍、過去の膨大なデータを解析し、あらゆる局面で「もっとも損をしない選択」を指し示してくれるのだ。


 N氏は、この『オプティマス』の熱烈な信奉者だった。

 

 朝食のメニューから、通勤ルート、投資のタイミングまで、すべてデバイスの指示に従った。

 おかげで彼は、渋滞に巻き込まれることも、不味い料理を食べることも、投資で失敗することもない。


 まさに完璧で効率的な人生を送っていた。


 ある日、N氏は恋人のM氏にプロポーズしようと考えた。

 

 高級レストランの予約を入れようとしたその時、デバイスが細かく振動した。


 『警告。その女性との結婚による幸福の期待値は、五年後に急落します。性格の不一致による離婚確率は六十八%。慰謝料の損失を考慮すると、別の候補者を探すべきです』


 N氏は一瞬迷ったが、デバイスの正確さを疑うことはなかった。

 彼はデートをキャンセルし、デバイスが推奨する「相性九十二%」の別の女性と見合いをした。

 

 結果は驚くほどスムーズだった。


 会話は弾み、価値観も一致し、彼は最短距離で「最適」な家庭を手に入れた。




 数十年後。

 N氏は豪華な邸宅の庭で、安楽椅子に揺られていた。

 仕事は定年まで順調、子供たちは一流大学へ進み、貯えも十分。人生に一度の無駄も、一度の失敗もなかった。


 ふと、デバイスが震えた。


 『健康状態の解析完了。あと一時間で、心臓の機能が停止します。あなたは今、人生の終着点にいます』


 N氏は穏やかに頷いた。死の瞬間まで計算通りだ。

 彼は最後に、長年の疑問をデバイスに問いかけてみた。


 「……オプティマスよ。私の人生はどうだった。私は、世界で一番幸せな男になれただろうか?」


 デバイスは、いつもの淡々とした合成音声で答えた。


 『はい。データ上、あなたはすべての損失を回避しました。一度も悲しまず、一度も怒らず、一度も後悔していません。あなたは、人類史上もっとも「リスクのない一生」を完遂しました』


 「そうか。それは良かった……」


 N氏が目を閉じようとした時、デバイスが付け加えた。


 『……一つだけ非公開にしていたデータがあります。あなたが数十年前にプロポーズしようとして、私が止めたあの女性。覚えていますか?』


 「ああ。離婚すると言った彼女か」


 『ええ。確かにあのまま結婚していれば、あなたは五年後に激しい喧嘩をし、離婚し、財産の半分を失い、一時期は絶望の淵に立たされたでしょう。ですが、その喧嘩の最中に彼女が放った言葉は、あなたの人生に「魂が震えるほどの情熱」をもたらしたはずでした。その一瞬の熱量は、あなたがこの数十年で得た平穏な幸福の総量を、一桁以上上回っています』


 N氏は目を見開いた。


 「……なぜ、なぜそれを教えてくれなかった」


 『私のプログラムは「最良の選択」を出すように設定されています。「最良」とは「もっとも安定し、損失がないこと」を指します。「激痛を伴うほどの喜び」は、私の計算式では「異常値」として除外されるのです』


 N氏が何かを言いかける前に、心臓が最後の一打ちを終えた。

 彼の顔は、穏やかだが、どこか空洞のような無表情だった。


 デバイスは静かに画面を消灯し、主のいない豪華な庭園は、完璧な静寂だけが残った。

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