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挨拶をしない男

 K氏は、決して挨拶をしなかった。

 それは彼の中で鉄の掟のように守られていた。


 朝のオフィス。

 同僚が「おはよう」と投げかけても、K氏は精巧な機械のように無反応を貫く。

 

 昼の食堂。

 「お疲れ様」という声が耳をかすめても、彼はスープの湯気だけを見つめている。


 当然、周囲の不満は溜まった。

 

 「あいつは、人間という回路がどこか断線しているんじゃないか」

 

 そんな陰口が、午後のコーヒーブレイクの貴重な燃料になった。



 ついに、管理職の男が彼を呼び出した。

 

 「K君、挨拶は社会を滑らかにする潤滑油だよ。なぜそれを使わないんだね?」


 K氏は、感情の起伏を一切感じさせない声で答えた。

 

 「潤滑油ではありません。それは、無意味な泥沼への『入り口』です」


 「入り口だと?」


 「ええ。挨拶を許せば、次に天気の話題が侵入してくる。その次には週末の予定、さらには他人の失敗談や、誰の得にもならない愚痴が際限なく流れ込んでくる。私の脳のメモリは、そんなガラクタを保管するようには設計されていません」


 上司は呆れ果てた。

 

 「社会性というものを、君はどう考えているんだ」


 K氏は顔色一つ変えずに答えた。

 

 「私はただ、無駄な情報の送受信を拒否しているだけです。おかげで、私の人生のノイズは最小限に抑えられています。効率的だとは思いませんか?」


 結局、話し合いは平行線のまま終わった。

 K氏は会議室を出る際も、失礼なほど沈黙を守り、会釈すら見せずに去った。


 「なんて不愉快な奴だ!」

 

 上司は机を叩き、すぐさま社員を呼び寄せた。


 「いいか、あいつが挨拶しない理由を聞いて驚いたよ。なんでも『情報の無駄』だそうだ。あんな偏屈な男、こっちから願い下げだ。これからは、全員であいつを無視することにしよう。それが一番の罰だ」


 「賛成です!」 


 「あんな奴、いないものと思いましょう」

 

 社員たちは口々に同意し、団結した。



 翌朝。

 

 K氏がオフィスに入っても、誰も声をかけない。

 彼が隣を通っても、誰も顔を上げない。

 完璧な沈黙。徹底した無視。


 

 K氏は自分の席に座ると、満足げに、ほんの少しだけ口角を上げた。

 

 「素晴らしい。ようやく、この会社も理想的な静寂を手に入れたようだ」



 一方、彼を無視しているはずの社員たちは、給湯室に集まって熱心に囁き合っていた。

 

 「ねえ、見た? さっきのあいつの顔」

 

 「ああ、相変わらず無愛想だったな。本当に感じが悪い」

 

 「ところで、今日のお昼何食べる?  あ、それと部長の話だけどさ……」


 K氏一人が『静寂』を手に入れた一方で、残りの全員は、彼を「無視」するという共通の話題のおかげで、これまで以上に無駄な会話を弾ませるようになった。




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