正直の代償
この世界は、善人であるほどに生き辛い。
M氏は、不器用なまでに誠実な人間だった。
嘘をつけず、責任を押し付けず、約束を守り、公平であろうとした。
M氏の両親は警察と弁護士であった。世の悪を許さぬ正義の味方だと幼いながらに両親をヒーローだと澄んだ目で見ていた。
やがて小学校・中学校・高校と歳と知識を重ねたM氏は、たとえ自らが人一倍損をしようとも、不当に仕事を押し付けられても、それが『正義』であるならば歯を食いしばり耐え抜いていた。
――その生き方が美徳になるほど、この社会は親切ではない。あまりにも悪が多すぎるのだ。
小学校時代には、問題を起こした同級生が教師に真実とは異なる言い訳や嘘で誤魔化そうとしていた時、納得しかけた教師にM氏は真実を述べた。
教師は普段の生活態度からM氏を信用し、問題を起こした生徒へと厳重注意を行った。
翌日からM氏の友人は誰一人としていなくなった。
悲しい事に、中学でも同じ事が繰り返された。
クラスでの盗難トラブル――女子生徒のリコーダーが盗まれたのだ。
すすり泣く女子生徒の泣き声が、沈黙で満たされた教室内に響く。
担任の教師は男子の方を厳しい目で見まわし、犯人は名乗り出るように促すも、誰も教師へ目を合わせず、女子生徒へ好意を寄せていた男子生徒へ疑いの目が向けられた。
しかしM氏は、本当の犯人を知っていたのだ。
自分が黙っていれば、この場では疑いは晴れないまま時間が過ぎ去り、放課後にはこっそり犯人である女子生徒が元の場所に返して終わったかもしれない。
——だが、M氏は己の正義に忠実だった。
間違った事は間違っている。窃盗は犯罪だ。
バレてしまったから返す。だからこれで無罪!とはならないのだ。
立ち上がったM氏の証言により、真犯人の女子生徒の鞄からリコーダーが発見され、教師は女子生徒を処罰し、クラスは落ち着いた。
その日からM氏の机や下駄箱の中に紙切れが入るようになった。
『裏切り者』『ヒーロー気取り』『死ね』
犯人の女子生徒は処罰を受けながらも、同級生らに庇護された。
間違っているのは誰なのか、そんな事は分かっていても誰も口にしなかった。
正しさよりも、仲間の方が価値があるとでも言うように。
その後、不登校となった女子生徒は転校した。
風の噂では自ら命を絶とうとしたらしい。
その事が知れ渡ると、M氏への風当たりはより一層冷たい物になった。
——何故?悪人は向こうなのに。
M氏の苦悩は続いた。
高校ではいじめの現場を目撃した。
お前も加担しろ。こいつはどん臭くて人間じゃない。猿だと。
既に高校も三年目。受験へのストレスで気が立っていた青年達にとって、いじめとはストレスから解放される為の娯楽であり、非日常を味わうアトラクションに過ぎないのだ。
無論、M氏は見逃さなかった。
ホームルーム中に教師に証言し、いじめは収まった。
いじめられていた生徒は、M氏に泣きながら感謝を述べた。
次の日から、M氏がいじめのターゲットになった。
何よりM氏の心を揺らしたのは、いじめから助けた生徒も嗜虐的な笑みを浮かべてM氏へと暴行を加えていたのだ。
それに加え、学校側も二度目は取り合ってくれなかった。
担任では話にならないと学年主任、教頭、校長へと直談判を繰り返すも、帰ってくるのは首を横に振る動作だけ。
学校側は、いじめはなかったと判断を下したのだ。……己の保身のために。
日々、教師に媚びを売る生徒とそうでない、むしろ可愛げのないM氏。
教師にとっては、多少間違っていたとしても、自分を慕う生徒が可愛いのだ。
M氏は両親の助けを借りて証拠を突き付けて事を大きくし、平謝りし被害届を取り下げて欲しいと懇願する校長を尻目に、正義の名の下に悪を滅した。
大学でも、就職後でも、状況は変わらなかった。
世の中は正直さを利用し、
誠実さを踏み台にし、暗躍し続ける悪を許した。
それが社会で生きていく事だと。
その中でも、M氏だけは、道を踏み外さなかった。
M氏は変わらなかった。
変われなかったのだ。
理不尽な業務の押し付け、責任のなすりつけ、成果の横取り。
それらはいつも、黙って受け止める『正直で便利な人間』に降りかかった。
M氏は声を荒げず、憤りをぶつけず、ただ正しく仕事をした。
それが正しいと信じていたからだ。
しかし、社会とは本来、誠実を歓迎するようにはできていない。
ある時、経理の数字に不自然な改竄が見つかった。
金額としても、内容としても、偶然とは呼べないものだった。
部署内の誰もが気付きながらも、沈黙を守り静かに目を伏せていた。
M氏もついに、気付いてしまった。
見なければよかった。
見なかったことにすればよかった。
気付かなければ、人生はもっと平穏でいられたのに。
M氏はもう学生の時とは違い、大人になったのだ。
この世界は悪人が作っている。
悪で満たされた、汚らしい世界なのだ。
汚染されたドブ沼には、清流に住む魚は生きる事は出来ない。
自由に動けない魚と違って人間である自分はどうすれば良いか。
――至極簡単な事。自分も悪に染まればいい。
悪事を見て見ぬふりをして、不在の人間の陰口を叩き、己が齎した損益や犯したミスを誰かのせいにして、要領が悪く人のせいにできない善人だけが素直に怒られ、始末されているのを見て嘲笑うのだ。
M氏は人間社会で生きていく為の妥協を、正義の牙を抜くことはできなかった。
すぐに証拠を纏め、上司の不正を役員に報告した。
それは幼い頃から一貫して続けてきた、M氏をM氏たらしめる、ただひとつの生き方だった。
――翌週、処分されたのは上司ではなく、M氏だった。
『組織への不信』『協調性欠如』『問題人物』
会議の席で浴びせられた言葉は、事実とは真逆でも、社会的には真実になった。
誰も擁護しなかった。
擁護すれば、沈む船に巻き込まれると知っていたからだ。
不正は『退職者の残した負の遺産』で片付けられた。
報告したM氏は左遷され、雑用以下の扱いまで落とされた。
それでも、M氏は辞めなかった。
誰が見ていなくても、責任を果たした。
早朝の雑務。客対応。大量の帳票処理。
休むことなく、黙々と続けた。
不正をしても上司に媚び、上手く取り入る者は引き立てられ、組織としてではなく、人として誠実でありたいと願う正直者だけが消耗した。
数年後、ストレスで老け込んでしまったM氏は会社を退職した。
その際に面談で、人事担当者は淡々と告げた。
「正直すぎると生き辛いですよ。この社会では」
去りゆくM氏を気遣ったのか、それとも皮肉だったのか。
M氏にとっては何度も聞かされていた言葉だった。
再就職しても、状況は変わらなかった。
社会は誠実さを巧みに装い、罪を巧妙に隠し、嘘吐きを有能と呼び、正直者を愚か者と蔑んだ。
M氏は、ただ静かに働き続けた。
冬のある夜、仕事帰りのコンビニ。
安いカップ麺とパンを買い、店を出ようとした時、声をかけられた。
「あの……Mさんですよね」
振り返ると、かつて同じ部署にいた後輩社員が立っていた。
「急にすみません。ただ……一つだけ言いたくて」
しばらく言葉を選んだ後、ぽつりと零した。
「俺、あの時……助けられてました。
口では言えませんでしたけど、
正しかったのは、Mさんだった」
M氏は何も言わず、踵を返して店を出た。
その言葉で救われるほど、人生は甘くなかった。
今日の生活が苦しいのも、明日が不安なのも変わらない。
不正を働いた者は罰されず、今もどこかで嗤っている。
帰り道は寒かった。
首にマフラーはなく、冷ややかな風が容赦なく体温を奪い、肌を粟立たせる。
寒さに身を縮込ませる姿は見る人によっては見窄らしくも見えている事だろう。
M氏は一度も嘘をつかなかった。
誤魔化すことで楽をすることはしなかった。
報われなかった。
勝てなかった。
救われなかった。
だとしても、その信念も心も曲げてはいなかった。
損するだけの人生だったのかもしれない。
それでも『正しくあろうとしたこと』をM氏が悔いる日は、きっと来ない。
そして、M氏が報われる日も、きっと来ない。




