見送るひと、見守るひと
それは冬の朝だった。
何の変哲もない、この世の多くの人々には何も関係のない、代わり映えのない朝。
小さなホールには今日焚いたものではない、焼香の香木の甘い匂いが微かに残っている。
オルゴール調にアレンジされた昭和を代表する歌謡曲からクラシックの名曲たちが、その場の空気をしっとりと彩り訪れる人々の口数を減らす。
多くの供物と花々で飾られた祭壇に据えられている遺影に写る老人の男性は、穏やかな笑みを浮かべていた。
その祭壇の前に安置されるのは、豪華絢爛でも質素過ぎるわけでもない、白木の素朴な棺。
故人の顔が見られるように棺の窓が開けられており、幾人もの親族や友人等が老人の静かに眠る顔を拝み、控室へと去っていく。
棺の傍らには喪主である老婆が寄り添っており、慈しむように棺を撫でていた。
葬儀は時間通り、滞りなく進んでいた。
鈍色の装束に身を包んだ神職が厳かに祭詞を奏上し、その声に誘われるようにすすり泣く声が混ざる。
参列者はただ、両手を静かに合わせ、時折伏した目を上げて遺影を見つめていた。
やがて式も終わり、僅かな時間を挟んで最後の花入れの儀へと移り行く。
蓋の開けられた棺には、丁寧に死装束を着せられ、眠るように穏やかな顔をして横たわる老人の姿。
遺族らの手により、彼の生前に好んだ趣向品から愛用していたタオル。カーディガンなどが並べられ、その上から祭壇を彩っていた色取り取りの花々を手向けていく。
老人の姿は、まるで花畑で寝転がっているかのように、甘い香りと優しい色合いの花々に包まれていた。
司会者の促しの言葉もあり、参列者達は最後の別れを告げるように老人の顔を覗き込み、手を合わせる。
喪主である老婆は最後にゆっくりと歩み寄り、棺の前に立った。
一呼吸おいてから両手をそっと伸ばし、夫の冷たい頬へ触れる。
「……ずっと楽しかったよ」
消えそうなくらい小さな声。
それでも、目下に眠る最愛の人へ掛けるには充分だった。
「五十年近く……ずっと毎日が幸せだったよ……一緒にいてくれて、ありがとう」
「こんな私を……もらってくれて……ありがとう……」
言葉の一つ一つは短く、ありふれた言葉ではあったが、止め処無く流れる涙と共に零れ落ちる言葉には彼女の心の奥底から、長い年月を共に歩んだ夫婦だけが持つ、静かで深い愛が溢れていた。
崩れ落ちそうになる老婆を親族が支え、共に涙を流す。
その空気に当てられ、慣れているはずの斎場スタッフでさえ目を潤ませた。
そして、儀式を見守る神職ですら──。
棺のそばで、ふと空気が揺れた。
まるで冬の朝に稀に現れるサンピラーの如き光の粒が、柔らかく形を成したかのように。
棺のすぐ横に、男が立っていた。
その身体は靄のように輪郭は薄れていながらも、表情だけははっきりしていた。
——優しい笑み。
(……お前は、最後まで優しいな)
声は誰にも届く事はない。
彼は泣き崩れる妻の横顔を見つめ、そっと手を伸ばそうとする。
しかし触れられない。
触れられないことを知りながら、それでも彼は手を伸ばした。
(ありがとう……)
(一人残してしまって、ごめんなぁ)
男は静かに、寂しげに微笑み、その姿を薄れさせた。
まるで、言葉ではなく想いだけをその場に残していくように。
その姿を——神職は見ていた。
斎主として、これまで幾度となく別れの場に立ち会ってきた。
故人へ涙を流す意味さえ、人によってそれぞれ違う。
深い悲しみに包まれる式もある。悪意に満ちた式もある。
ただ自身の感情を極力抑え、厳かに滞りなく儀式を進めるのが「なかとりもち」としての役目だと思っていた。
故に、神職も僧侶も、どれだけその式場の雰囲気が重苦しく悲しみに包まれていたとしても、無感情に務め、涙を流す事は許されない。
その涙を流すのは、彼等の役目ではないのだ。
だが、この時ばかりは、胸の奥が酷く熱く、思わず背を向けて歪みそうになる表情を隠そうとした。
老婆が棺に縋るように崩れ落ち、咽び泣くその肩に老人の幻が手を添えた瞬間、既に薄れていた姿が風に溶けるよう、立ち昇る煙のように消え去った。
神職はわずかに顔を上げ、目を閉じた。
涙がこぼれぬように。
いや、こぼれたかもしれない。
だが誰にも気付かれなかったはずだ。
皆の手添えによって棺が閉じられる直前、妻はもう一度だけ夫へ触れた。
その手は震えていたが、悲しみよりも、感謝の気持ちを伝えようとしていたのだ。
「……本当に、ありがとう」
神職は、その眩く深い愛を前に、ただ深く頭を垂れて見送った。
——確かに、ここに本物の愛があった。




