誰も上を見てはならぬ
L氏の住むこの町には、変わった掟がある。
——昼の間は、誰も上を見てはならぬ。
この町に暮らす人間は、子供の頃から耳にタコができるほど聞かされてきた言葉だ。
掲示板から新聞、娯楽の小説の中ですら鬱陶しいぐらいに書かれていた。
《昼空注意。上を見るな。守って優しい町づくり》
標語としてどうなのか。後半だけでも良いのではないか?そんな疑念がL氏の脳裏に浮かぶ。
それでいて何故か夜は空を見上げても良い。
月や星を見るのはむしろ推奨されている。
「昼はダメだ。夜になったら好きなだけ見上げなさい」
幼い頃通っていた学校の教師は言った。
父も母も、夜には一緒に庭に出て、星座を教えてくれた。
「でも、昼はだめだ」
理由を聞くと、大人達は決まって曖昧に笑った。
「昔からそう決まっているんだ」
「ひいじいちゃんの、もっと昔の代からそう伝わるんだ」
「上を見ると、良くないものと目が合うからね」
その良くないものが何なのか、誰も教えてはくれなかった。
* * *
L氏は二十歳を過ぎても、この町を出なかった。
出ようと思えば出られたが、特に出たい理由もなかったからだ。
夜は仕事をして、朝には眠り、夕方に起きる。
これはL氏に限った事ではなく、この町の人々はできるだけ昼間に活動しないように過ごしていた。
だから、掟に困らされたという苦情は少なかった。
強いて言えば、朝方にどうしても必要なものがあった時、小売店がどこも開いていないくらいだろうか。
それでも一部の不良が大人達の静止を振り切って昼間に空を見上げ、酷く怒られているのを目にした事がある。
彼等は酷く焦燥し、二度と昼に外に出ない事すら誓った。
だが不良達は大人達に詰め寄られて萎縮したわけではなかった。
彼等は震えながらこう繰り返していたという。
「嘘だ……嘘だ……」
町の人間は誰一人、昼に上を見ようとしなかった。
それはもはや、信仰と言ってもいい。
「本当に何かあるのかな」
ある夜、仕事の休憩中に同僚のQ氏が煙草を吸いながら言った。
「昼の空ってさ、結局何があるんだろうな」
「そりゃ、太陽と雲はあるだろ」
L氏がそう返すと、Q氏はケラケラと笑った。
「だろう?それを見ちゃいけないっていうのが、変なんだよ」
彼はふっと真剣な顔になった。
「昼の空を見たやつ、知ってるか?」
「……さぁ」
L氏は過去に目にした不良の事が脳裏に過るも、あえて知らないふりをする。
「俺が子供の頃、親父が酔っぱらってさ。『昔、掟を破ったやつがいた』って話してたんだよ」
「……それで?」
「さあな。そこから先を言う前に寝ちまったから、起きた後は何も言ってくれなかったんだ」
煙草の燃え尽きた灰がポトリと落ち、Q氏の履くズボンを汚す。
悪態をつきながら灰を払うQ氏の横顔を眺め、L氏は胸の奥に名状し難き騒めきが満ちていくのを感じていた。
* * *
ある日、L氏は珍しく残業し夜明けまでに職場を出る事が出来なかった。
ようやく仕事を終え、退社したのは既に日が高くなった時の事。
人通りの著しく減った日差しに照らされる帰り道を、L氏は足早に歩いていた。
最近頻発する地震に舗装された道が割れ、至る所で工事が行われている。
仮設の細い通路。足元には段差。
危険なエリアは早く抜けてしまおうと足を早めた所、L氏の前を歩いていた老人が、小さく悲鳴をあげた。
「おっとっと……」
老人はバランスを崩し、よろめく。
思わずL氏は手を伸ばした。
咄嗟の事だった。
自身を下敷きにする事で老人が身体を打つのを防いだが、仰向けに倒れてしまう。
視界には青空が――
L氏は慌ててすぐに顔を背ける。
「大丈夫ですか」
「おお、すまんね」
老人は笑って礼を言い、そのままゆっくりと去っていった。
だが残されたL氏は、心臓が速く打っているのを感じていた。
今のはセーフだろうか。
太陽も、何も目に入っていない……はずだ。
そう自分に言い聞かせながら、家に帰った。
その後、L氏は中々寝付くことが出来ずに寝返りばかりを打っていた。
夜勤明けの体は怠く、眠気が全身を覆っているはずなのに、目だけが冴えていた。
――昼の空を見たらどうなるのか
子供の頃から何度も頭をよぎっては、すぐに追い払ってきた疑問が、今日はしつこく張り付いて離れない。
時計を見ると、正午を少し回っていた。
カーテンの隙間から差し込む光は、強く白い。
——少しだけ、少しだけならきっと大丈夫だろう。
L氏は立ち上がり、静かにベランダに出る窓を開けた。
空からさんさんと降り注ぐ日の光が、暗闇に慣れたL氏の目を眩ませる。
目を閉じたまま、顔を上へと向けた。
思わず緊張と恐怖で足が震えている。
何をやっているんだ、と自分でも思う。
掟を破るつもりなどなかった。
ただ、理性と恐怖感よりも——好奇心が勝った。
L氏は大きく息を吸いこみ、そして瞼を開けた。
――そこには、澄んだ美しい青空と白く輝く太陽があった。
教科書で見たことのある、どこにでもある空の写真と同じだ。
L氏は安堵の息をついた。
肩の力が抜ける。
——なんだ、何もないじゃないか。
拍子抜けして、笑いさえこみ上げてくる。
子供の頃からあれほど恐れていた事が馬鹿みたいだ。
L氏はもう一度太陽を見た。
白く輝く眩しい光。何故皆はこの美しい光を恐れるのだろうか。
あまりにも眩しい光に目を細め――L氏は気付いた。
――太陽が二つある。
丸い光の外側に、さらに大きな円の縁が見えた。
そしてそれが空に離れて二つ並んでいる。
青空も、よく見ると一枚の絵のようだった。
少し遠近感が狂っている気がする。
まるで、ハリボテのような……。
——そして、見えた。
太陽の少し外側。……それは間違いなく目だった。
巨大すぎて、最初は模様だと思った。
だが、はっきりとした輪郭を持つ、いくつもの円。
黒い瞳孔。
色のよく分からない虹彩。
ゆっくりと動く瞬き。
空の向こうで、こちらを覗き込んでいる。
L氏は呼吸を忘れた。
空の『向こう側』に何かがいる。
たくさんの何かが、こちらを退屈そうに見ている。
目だけではない。
輪郭も、かすかに見えた。
巨大な顔。
顔とも呼べない、何か。
それらが箱の中を覗き込み、僅かに動き回るものたちを眺めている。
——まるで、水槽の魚を見るように。
——まるで、アリの巣を観察するかのように。
これは見てはいけないものだ。理解してはいけないものだ。
L氏はあまりのショックに叫び声をあげたつもりだったが、自分の声は聞こえなかった。
代わりに、耳鳴りのような低い雑音が、頭の中いっぱいに広がった。
空の向こうの『目』がわずかに動き、L氏を見た。
巨大な目が、L氏一人に集中する感覚。
背中に冷たいものが走る。
ああ、そういう事だったのか。我々は――
* * *
「ねぇママ! この子、声あげてたよ!元気に動いている子いた!!すごいよ!見て見て!」
甲高い子供の声が響いた。
大騒ぎする我が子に優しく微笑みながら、母親は優しく諭した。
「……ほら、言ったでしょ?小さい子たちはね、大きな私達を見ると驚いてしまうの。だからそっと覗くだけって約束したでしょう?」
「ごめんなさい……でもねママ、この子!ほら! ほら! 手に乗せたい!」
子供の小さな指が一人の小人へと向けられる。
「だめよ。急に触れると、すぐショックで死んでしまうの。小さな子達は心臓が弱いんだから」
「でも!でも!声をあげてたから!きっとこの子、ぼくを見たんだよ!?みんな見てくれないのに!ねえ!ねえ!!いいでしょママ!」
* * *
世界は混乱に満ちていた。
眠りについていた人々も、地を震わせるような巨大な音に微睡みから叩き起こされ、それでも止まぬ轟音に耳を塞いだ。
あぁ、誰かが禁を犯したのだ。
事情を知る一部の大人達が祈る様に頭を抱え、ベッドの中に飛び込む。
願わくば、自分と家族に災いが降りかからぬよう。
無邪気な神の興味を引かぬように願いを込めて。
やがて、日の光を巨大なナニカが遮り、町全体を影が覆い隠す。
L氏は恐怖し、視線を動かすことが出来なかった。
それ故に、ずっとソレと目が合い続けていた。
ソレは喜びの混ざるギラギラした目でL氏を見ていた。
「ほら!ママ! この子!!触って良い?この子だけだから!!」
「……仕方ないわね。少しだけ、 優しく触るのよ。この子達臆病なんだから」
巨大なナニカの手が、自分へ向けて降りて来る。
広げられた指が近付き、その厚みだけで空気が押されて風が起きる。
L氏は声を上げ逃げようとしたが、腰が抜けて動く事が出来ない。
目の前が肌色一色に染まっていく。
——ああ。
昼の空を見てはいけなかったのは、
太陽が危険だからではなかった。
その向こうで、私達を覗き込んでいる飼い主を認識してしまうからだったのだ。
気まぐれで残酷な子供がこちら側へ手を伸ばしてしまうからだったのだ。
* * *
「……あれ?ねえねえ!……動かなくなっちゃった。死んじゃったの?」
「言ったでしょう?気まぐれに触れると、壊れちゃうのよ。だから優しくしないと!これで分かったかしら?生き物の命は簡単に失われてしまうから大事なのよ」
坊やは自分の手の中でピクリとも動かなくなってしまった、小さな小さな生き物を偲び、大声で泣き喚いた。
「ごめんね、ごめんね……!!ぼく、ただ触りたかっただけなのに……!」
「ほら、ごめんなさいしてティッシュでくるんで捨ててきなさい。もうすぐご飯の時間よ」
蓋が、ゆっくりと閉じられた。
ゆっくり。
ゆっくり。
夜が訪れるように。




