冬の匂いがした朝
とある企画で30分で執筆した作品です。
お題は「冬の匂いがした朝」
・制限時間は30分
・文字数制限なし
・ジャンル 自由
私が思い浮かんだお話はこれでした。 どうぞ!
昔の記憶とは、どのような時にふと思い出す事があるだろうか。
デジャヴのように何かをしようとした時に、ふと昔こんな事したような……?と考え込んだ時だろうか。
それとも小さな幼子や学生達がじゃれ合う様子を見て、懐かしさに目を細めた時だろうか。
——私の場合は、匂いだ。
春ならば、好奇心のままに手を伸ばし、匂いを嗅いだ名も知らぬ草花の匂い。
夏ならば、兄と共に虫網を手にして駆け抜けた、朝露に濡れる夏の草原の青臭い匂い。
秋ならば、通学路で避けて歩いた銀杏のツンとした匂い。
冬ならば、特別な行事が目白押しな楽しい日々。ケーキの上で揺れる蝋燭の火を吹き消した後の、あの匂いは大人になってしまえば嗅ぐ機会は少ないだろう。
大人になり、常に見るのは手元の携帯端末。考える事は仕事の事ばかり。
時々届く両親からのSNSメッセージには、そっけない返事やスタンプだけを一つ送るだけ。
朝から晩まで毎日仕事に励み、土日には死んだように眠る。
息が詰まってしまいそうな日々の中、今年のクリスマスは土日に重なっていた。
一人暮らしの朝はとにかく静かだ。
休みの日は昼前まで寝る事が多いが、不思議と朝早くに目が覚めた。
時計を確認し、大きく欠伸をしながら深呼吸をすると、冷たい空気に、ほんのり甘い香りが混じった。
その匂いに思わず目を大きく見開いた。
微かに漂うのは……あの時の匂い。
胸の奥で、ずっと閉じたままの引き出しが、そっと開くような感覚がした。
* * *
まだ私が幼かった頃、クリスマスの朝は決まって同じ光景があった。
祖父母の家にお泊りし、家とは違うカーテンの隙間から差すのは薄い冬の光。
冷えた床を踏むと、遠くからミルクを温めるガスコンロに火が灯る小さな音が聞こえてくる。
その音と、甘くやわらかい匂いが混ざると、自然と足はキッチンへ向かった。
「おはよう、メリークリスマス」
鍋を混ぜながら一人キッチンに立つ祖母が、振り返って微笑む。
鍋の中で湯気がふわりと揺れ、焦げないように揺する微かな音がする。
祖母はいつも、私が見えるようにゆっくり混ぜてくれた。
マグに注がれたホットミルクは、舌を火傷してしまいそうなくらい熱く、甘くて優しい味がした。
冷えた身体に染み込む砂糖とハチミツの甘みと温度。これだけでクリスマスの特別な朝がやってきたと思えたのだ。
* * *
気付けば、そんな朝を最後に迎えてから何年も経っていた。
忙しさに流されるように時間が過ぎ、祖父母の家にもすっかり行かなくなった。
季節の匂いさえ感じる余裕がなくなっていたのだと思う。
でも、今年の……今日の朝だけは違った。
なぜか、もう一度、あの味に会いたいと心から思った。
鼻の奥がツンとして目元にじわりと涙すら浮かんできた。
私はゆっくりキッチンへ向かった。
冷蔵庫から牛乳を取り出し、ミルクパンに注ぎ、弱火で温める。
白い湯気が立ちのぼると、胸の奥がふっと温かくなった。
——あぁ、この匂いだ。
砂糖とハチミツを少しだけ入れ、祖母がしていたようにゆっくりと混ぜる。
表面に薄い膜が張るのも、昔と同じだ。
マグに注ぐと、湯気が白く揺れた。
その瞬間、失われたはずの記憶がひとつずつ形になって戻ってくる。
祖母の笑顔も、声も、手の温度も。
一口飲むと、舌の先を火傷する。——猫舌はあの頃から変わらない。
それでも嚥下すると、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
火傷で痛い、でも……懐かしい味。
* * *
冬の匂いがした朝。
私は久しぶりにもう一度、あの頃に戻れたような気がした。
ホットミルクの湯気を見つめながら、そっと笑う。
時間はもう戻らない。
世界も私も、変わっていく。
時間は人すら変えてしまう。——でも、あの頃の優しい思い出だけは今も変わらず胸にある。
最後の一口を飲み干し、私は小さく息をついた。
今日はきっといい日になる。




