世よ寛容であれ
2XXX年、世界は転換期を迎えていた。
ある大国のリーダーが権威主義の撤廃を宣言したのだ。
かつて、人々は「多様性を尊重しよう」と言った。
誰もが自由に意見を語り、違いを認め合う――そんな理想論。
だが、いつの間にかその言葉は金儲けの為の旗印となり、信仰になった。
そして信仰には、異端を裁く教義が必要だった。
* * *
SNSでは今日も、誰かが誰かを糾弾している。
「このレイシストが!!」
「発言の意図がどうあれ、受け取り次第で傷付く人がいるなら差別だ」
「無自覚な偏見こそ、最も悪質な暴力だ」
言葉とは裏腹に、人々はデモで唾を飛ばして相手を罵倒し、侮辱し、人格を否定した。
自論と異なる思想は全て排除していく。
時に暴力的に。正義の行進を邪魔する者は差別主義者だと叫びながら。
多様性の保護という名の弾圧の下、人々は多様に存在した考えを奪われざるを得なかった。
* * *
ある大学で、H教授が講義中に語った。
「昔の作品には差別的な表現が多い。だが、それを学ぶことに意味がある。今の社会では生み出される前に封殺されてしまうがね。だがそんな作品にも、ふと気付かされる事もある。それ故に全てを否定し除外するのはリベラリストの蛇蝎の如く嫌う過去のナチスの焚書と変わらない行為である」
その発言は録音され、編集され、意図的に切り抜かれ、拡散された。
『リベラリストはナチスである』
連日ニュースからワイドショーまでその話題で持ち切りとなった。
彼の所属する大学は『我々は差別を許さない、我々は多様性の人々と共にある。彼を即日解雇する』と声明を出し、コメンテーターは彼の幼少時代から現在までの言動や学歴、交友関係まで全てを痛烈に批判した。
「差別を肯定する教育者」
「思想が古い」
「子供達が洗脳される」
H教授は数日後、自ら命を絶った。
翌週、教育庁は新しい方針を打ち出した。
「子供達を傷付ける可能性のある表現を、全て教科書から削除する」
その結果、国語・理科・社会・音楽・体育・美術の教科が消滅した。
* * *
街のスクリーンには、こう映し出されていた。
『隣人と、世界の友達と手を繋ごう』
『愛に性別は無い』
『レイシストには自由と平等の鉄槌を』
人々は拍手した。
寛容を守るために、異論を焼く炎が必要だと信じていた。
ある日、学生のE氏がSNSにこう投稿した。
「私は、もう少し自由に発言できる方がいい。今の社会は到底自由とは言えない。美しい物は美しいし、醜いものを美しいなんて思えない。そう思うのも多様性じゃないの?」
リプライ欄には日夜コメントが溢れた
「あなたは誰かを傷付けたいのですか?」
「誰かに優しくする事がそんなに嫌なのか?」
「多様性を侮辱するな。お前のはただの差別だ」
翌日、E氏は過激な平等主義者によって殺害された。
犯人は『私は誠の平等を愛する博愛主義者である』と報道者のカメラを睨みつけた。
寛容と自由を守る人々はまた一つ、多様性が守られた事で満足げに祝杯を上げた。
『世よ、寛容であれ』
人々はそう祈りながら、不寛容に他人の口を塞ぐのだ。




