#正義の味方
A氏は、どこにでもいる平凡な会社員だった。
朝起きて出勤し、昼休みにスマホを眺め、夜はニュースとSNSを交互にスクロールして一日を終える。
SNSでは、いつも誰かが怒っていた。
匿名の陰に隠れたアカウントが、誰かの失言を血祭りに上げ、罵詈雑言の嵐が吹き荒れる。
A氏も時折その怒りの波に乗った。
「何様のつもりだ」
「説明責任を果たせ」
「絶対に許すな」
そう打ち込むと、一瞬だけ正義の味方になれた気がした。
大義名分を得て、一方的に相手を叩く権利を得た気がしたのだ。
皆が同じように誰かを叩く、例えそれが間違いや過激な発言だろうと、匿名だから関係ないのだ。
事実が異なれば、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
そうして日々のストレスと発散しているのだ。
そんなある日、政府が新しい制度を導入した。
『全国民SNS登録義務化』
これからは一人一アカウント。
裏アカウント、匿名アカウントの作成は禁止。
目的は『国民の声を、正しく政治に反映させるため』
偽名を使えば罰金、他人の写真を使えば犯罪。
SNS上の発言は、すべて個人番号と紐づけられた。
つまり、どんな発言も『自分自身の言葉』になる。
SNS法が施行される前夜まで、総理大臣のSNSは日夜絶えずに炎上し続けた。
翌日から、SNSは静かになった。
ニュースを騒がせた教授の炎上も、数時間で終わった。
「バカ」「死ね」など軽率な言葉は、ほとんど姿を消した。
その代わりに、誰もが互いを持ち上げ、称賛し合った。
「素晴らしいご意見ですね」
「なるほど、勉強になります」
「おっしゃる通りです!」
タイムラインは礼儀正しい称賛と「スゴイ」で満ちた。
他人を攻撃するという行為は、自分が攻撃的な人間であるという証拠になる。
誰も火をつけようとしない世界。
SNSは穏やかで、安全で、退屈になった。
* * *
だが、人間は慣れる生き物だった。
穏やかすぎる日々に退屈し始めた人々は、別の娯楽を見つけた。
——正義の投稿である。
マナー違反の映像、歩きタバコ、交通違反。
些細な事でも迷惑行為を撮影し、投稿する。
『悪を暴く正義の市民』として称賛を集めるのだ。
投稿は瞬く間に拡散され、コメント欄には賛美が並ぶ。
「素晴らしい行動です!」
「勇気ある投稿に拍手を!」
「この国はまだ捨てたもんじゃない!」
次第に“通報”は流行となり、『悪い奴を見つけたら撮って上げよう』が合言葉になった。
政府はそれを歓迎した。
『国民による健全な監視活動』と呼び、ポイント制を導入した。
違反行為を報告すれば、社会貢献スコアが上昇するのだ。
そのスコアを集めれば買い物等で使えるポイントに変換する事が出来る。
以来、人々は互いにスマホを向け合うようになった。
学生同士でも、誰かが道化を演じ迷惑行為をすれば、その場では笑顔で道化っぷりを讃えても、その夜にはもう #正義の味方 のタグと共に投稿される。
自転車が少しでも逆走すれば、すぐにカシャリ。
例え冤罪だったとしても、そう受け取れる写真を撮られてしまえば、社会的な死が与えられる。
笑顔の裏で、常にレンズが誰かを狙っている。
* * *
A氏はある朝の通勤中、駅のホームで女性にぶつかり転倒させた男性の姿を見た。
周囲の誰も助けなかった。
彼らは一斉にスマホを構えた。
「危険行為だ」
「女性に暴行を加えた」
投稿はすぐに拡散され、男性は社会的危険人物として逮捕された。
A氏は考えた。
——あれは、ただ転んで起きた事故ではないか?
だが、口には出さなかった。
その夜、A氏の投稿は一万スゴイを超えていた。
その内容は一枚の画像と一言コメント。
『女性に暴行を加える中年男性!逮捕されてよかった #正義の味方』
投稿のコメント欄には称賛の言葉と笑顔の絵文字が並び、誰も異を唱えなかった。
誰もがスマホを向け、誰もが本音を隠す。
声はなく、笑顔だけが溢れていた。
——ここは、世界でいちばん安全な檻。




