只、輝いて。 一
「――挑まないと損だろうが!」
にやけを抑えきれない口から放たれる言葉を聞いて、隣に立つシュウが呆れたのがわかる。
だが、仕方がないのだ。見たことも聞いたこともない生き物を、見たことも聞いたこともない場所で見かけたら、戦略的撤退すら惜しくなる。
「な……っんで、逃げないの! 逃げて!!」
もう呼吸も苦しいだろうに少女はこちらを案じて必死に叫ぶ。
そんな少女の願いを一から十まで丸々無視することになるが、後で謝って許してもらおう。
「いくぞ」
「……えっ、ちょっと待」
短いやり取りで、レンは異形――イノコに対して先手を打つ意思を伝え切る。
腕の重さも体の怠さも感じない。今レンの脳内を占めるのはイノコに対する興味のみだ。
「――ッ!!」
牙だけが神々しく白く輝く、異形の化物が雄叫びを上げる。
追いかける少女の先に新しく獲物を見つけた故の雄叫びを。
同じ種族で、イノコからすれば似たような背丈。獲物というよりおもちゃが増えた感覚に近いのだろう。
人の言葉を持たない獣が知る由もないが、人はそれを油断と呼ぶのだ。
顔を上げて雄叫びを上げるイノコが前方に視線を戻せば、眼前にいるのは先程まで十メートルは先にいた、人間の男――レン。
「――しぁ!」
「――!?」
土煙が発生して更に吹き飛ぶほどの威力で地を蹴って、レンは既に飛び上がってイノコに殴りかかっていた。
力を込めた故の鋭い声の漏れを口の端からこぼしながら、しかしイノコの額を一直線にその手が撃ち抜く。
拳を覆う篭手がその威力を余すことなく伝え切り、回避も迎撃もできずにイノコはレンの拳を無様に食らった。
常人ならば縦回転しながら後方に吹き飛んでいくほどの威力だ。いくら自分より何回りも大きいといえど、多少怯むくらいはする筈だ。
「――」
だが。
「まじかよ」
絶句。苦笑いすら浮かぶほどに、レンの拳に伝わってくる感触は壁だった。
大地にいくら打ち込んでも、世界が揺れるはずがない。そんなことはまともな教育を受けていないレンでも直感的にわかることだ。
だからこそ、このイノシシの異形から感じた手応えに、レンは言葉を失うしかなかったのだ。
その身は、軽度な揺れすら許さず。突進の勢いは少しも減っていない。まるで走っているときの羽虫とでもいうように、イノコはレンの攻撃を意に介していなかった。
乱入者が加わって、しかし状況は変わらない。ならばその乱入者の支援者もまた動けない。
シュウは歯ぎしりしてその光景を見ることしかできないのだ。
だが、第三者視点から見ているからこそわかることもある。今回に関してはシュウの視点がそうだ。
「――! レン、あぶな――」
獲物を追いかけるのハンターにとって、うざったらしいのは羽虫の攻撃ではない。
――羽虫そのものだ。
そのことに当事者であるレンが気付いたときには、既にイノコは予備動作を取っていて。
直後、視界が揺れた。
――そういえば、忘れてただけで疲労は溜まってんだよなあ。
■■■
「――レン!」
まずい、と思った。
一言発して突っ込んでいったレンは、イノコを怯ませるに足る攻撃を放てなかった。
攻撃を意にも介していないイノコが意識したのはレンの存在そのものであり、故にイノコは首を振って、額に浮かぶレンに牙をぶち当てた。
軽く牙を振り回しただけでレンはふっ飛ばされて、横の土壁にぶち当たってしまった。
イノコへの警戒と視線は絶対にずらさず、レンを一瞥して意識が暗転していることを理解する。
まずい。恐らく今は少女に意識が向いているが、レンに向けば一撃で命が絶たれることは想像に難くない。
ならば少女と合流して二人で時間を稼ぐことが最善手になるが、少女は今にも追いつかれそうだ。
少女の命が奪われることとレンの命が奪われることがイコールになり、シュウはレンの死体を幻視する。
「――あぁ、くそっ!」
意地でも、あの少女をまずは守らなければならなくなった。
悪態を吐いてシュウは『挫けぬ盾』を生成。小枝のように小さいが、幸いなことにシュウの『挫けぬ盾』は小さければ小さいほど密度が上がる。つまり固く、強くなるのだ。使いようによってはイノコの意識を逸らすに十分な得物となる。
小枝のように小さく先の尖った『挫けぬ盾』を投擲する。矢のように早く飛ぶ得物は一直線に目標物の、目標の部位へ迫っていく。
「僕がイノコを怯ませる! そしたら全力でここまで来て!」
既に呼吸困難直前とも取れる少女に対して全力を求めるのは難儀かもしれないが、こちらとしても長々と時間を稼げるわけではないのだ。
「……っ、わか……った!」
少女が声を絞り出して、こちらの意が届いたことをシュウに伝えきる。
それと同時に投擲した『挫けぬ盾』がイノコへ着弾する。その汚い毛並みは並大抵の攻撃を通さない硬い鎧だが、着弾した『挫けぬ盾』によってイノコは唸り声を上げた。威嚇や興奮故の声とはまた違う、痛みによる鳴き声だ。
鎧をつけている相手に攻撃を食らわすにはどうすればいいのか。身を守り、一切の攻撃を防ぐ体を持つ相手に有効打を与えるには何を行えばいいのか。
――簡単なことだ。鎧のない部分を抉れば良い。
「今!!」
イノコの目に突き刺さった『神格』をすぐさま解除して、再発動できるように体勢を整える。
同時に叫んだ言葉を信じて、少女が命の蝋燭を燃やし尽くす勢いでシュウの足元まで崩れ去るように走り込んできた。
ぼろぼろの革装備に身を包んでいる少女だ。青の髪を肩程まで伸ばしており、その双眸は髪色と同じく青色。顔は整っているが、飛び抜けた美貌というわけでもない。なんなら今この瞬間に限っては必死の逃走劇のせいで顔が泥と土にまみれており、薄汚い印象を与えてくる。
だが、逃げてと連呼するその性格からいい人であるのは間違いないだろう。
「どうせまたすぐこっちに突っ込んでくる。名前とできる事二秒で言って」
「はぁ、はぁ……名前は、ティルア。できるのは、回復、くらい」
――正直にいって絶望的。回りくどく言えば回復役ができて自分が攻撃を頑張ればいいという到底不可能なプランができた。
「回復ね、最高」
皮肉が思わず口から漏れるが、疲れている少女――ティルアにはわからない。賛辞を素直に受け取って、「もうぼろぼろだし魔力もスカスカだけどね」と更にシュウを絶望させる情報を追加してくる。
「……やるしかないか、しょうがない」
「ねえ、ボクに何かできる?」
「端に居て巻き込まれないようにしてて」
半ば諦めのような決意をして、再び雄叫びをあげるイノコに向き直る。
そもそもイノコは一人二人で攻略する相手ではないというのに。
直後、四つのうち一つの目を失った痛みから回帰したイノコが後ろ足を地面に擦って、今にも突進をしてきそうな程に雄々しく叫ぶ。
鼓膜どころかダンジョンが丸ごと揺れそうな程に叫ぶイノコに対して、二本の中剣を腰からすらりと抜き去るシュウはどこまでも冷静だ。
「いつまでも叫んでて、みっともないね」
冷たい眼差しでイノコを射抜くシュウは、既に手を――『神格』をノールックで射出している。
大体、半径五メートル程だろうか。その範囲であれば生み出した挫けぬ盾をシュウは手に触れずとも自由に扱える。
最初に自ら投げたのは、たとえ知能が無いだろう異形に対してもブラフを張るためだ。
故に、予備動作なしに射出された『神格』はイノコに認識されず口内に突き刺さる。
「――ッ!?」
「じっくり味わってよ、自分の血の味」
再び嗚咽を漏らすイノコ。当然の話だが、わざわざ硬い部分を狙うことは非効率であり、柔らかい部分ならば攻撃も通りやすい。
獲物が抵抗してくるという意識を植え付けてしまった以上、ここから先、簡単には隙を晒してくれないだろうと、悪態をつきながらシュウは思考を纏めていく。
悪態をつくのは少しでも此方に気を引くためと、こうすると思考が纏まってくるからだ。
――今、最優先するべき目標はレンとシュウと、たった今追加された少女であるティルアの三人が生きて地上に戻ること。撃破殺害など今この状況では不可能だ。
たしか以前接敵した際は、
「六級五人だったっけ」
内一人は回復、二人は盾役、二人は攻撃役を担っていた。
だがその五人だけでは撃破に至らなかった。
――シュウが『神格』で盾役のサポートをして、『神格』で攻撃役のサポートをして、イノコからの攻撃を死に物狂いで回避して回復役の負担を減らした。
そこまでしてようやく倒れたイノコを、しかしシュウ達は仕留めきれなかった。
獲物が抵抗してくる場合、イノコに限らずどんな生き物も戦闘態勢に入る。
だがイノコの場合、戦闘態勢に入られるといくら攻撃を躱し、流し、受け続けても滅多に隙を晒さなくなってしまうのだ。シュウ達がイノコを倒れさせたのは、あくまで戦闘態勢に入る前だったからであり、戦闘態勢に入ったイノコを仕留めるなど考え無しの馬鹿がすることだ。
もし今この状況でイノコの気絶を狙うのなら、シュウがあと二人分の火力を叩き出さなければならず、シュウがあと二人分の守りを発揮しなければならず、そしてイノコからの攻撃は全て避けなければならない。
――控えめに言って不可能。いくら自分に『神格』があるといえど、その実力は上澄みには届かない。
「戦闘態勢になる前に、逃がす、逃げる」
改めて、シュウは目標を口に出して意識に強く刻み込む。
見れば先には口内の傷の痛みにより、隙を晒すことが悪手であると理解したイノコが鼻息だけを荒くして突進してきている。
土煙を立てて突っ込んでくるその行動が、しかし人を幾人も簡単に轢き殺すだけの威力を秘めている。
だからこそ、真正面からまともに受けるわけにはいかない。
あの牙は壊れない。固いから。
あの毛並みと皮膚は破れない。固いから。
ならば突進を食らわないためにどうするべきか。
「一回戦っといて良かった」
――シュウは地を蹴り、突貫してくる異形に迷いなど一切持たずに前進した。
一歩ごとに加速するシュウは、このままいけば数秒後にはイノコと正面衝突するだろう。肉の塊にぶつかられたとは思えないほどの音が響き渡り、ぐちゃぐちゃになってシュウは地に転がり果てる。
しかし、そんな未来は来ない。何故なら、加速するシュウがスライディングして、一般人の腕何本分かもわからないほど大きなイノコの足の間を滑り抜けたのだから。
獲物が姿を消したことで、イノコの警戒は引き上がり、全身に力が込められる。硬い硬いその皮膚は、力が入るだけで鋼鉄にも引けを取らない程の硬さへと変貌する。
故に腹を殴るなど無謀なことはできない。
イノコの後方から滑り出て、手に持つ双剣で尾を斬りつける。
――下手に『神格』で殴り、それを破壊されてはたまらない。
無言で苦しみ、突進を躱されたイノコは更に鼻息を荒くする。慣性の法則で急には止まれず、イノコが突進の勢いを殺し切る頃には、距離は再び元通り。位置関係が逆転したのみだ。
「ティルア! レン連れて逃げて! 僕は後から直ぐにいく!」
「あっ、わ、わかった!」
情報を簡潔に、手早く伝えて、シュウは双剣を構え直す。
ミスをしたら負ける。一手間違えれば詰む。正解にたどり着けなければ敗北する。
――その先にあるのは死、のみだ。
異形はいつでも人間を殺そうとし、知性なく襲いかかってくる。だからこそ取れる手段もあるが、知性の代わりを果たす本能が人の想像する異形の知性を遥かに凌駕することなどざらだ。
いくら考えても考え足らず、いくら警戒してもしたりない。
「あー! クソゲー!」
嘆きは現実を変える力を持たない。
叫びは敵を殺す力を持たない。
――さあ、攻略の時間だ。
■■■
――体が揺れる感覚が、意識の覚醒を促進させる。鼻を通る土と風の香りは、ここがどこかを意識朦朧の少年――レンに理解させる。
順々に思い出す。
自分が誰か。ここは何処か。何をして、どう生きるべきか。
『いいか? まず油断怠慢は以ての外だ。どんな敵でも自分を殺す可能性があると思って生きろ』
順々に思い出すということは、昔のことも思い出すということ。
どこか軽い声音の、レンがお父さんと慕う中年の男性の言葉。
それが投げかけられたのは、忘れたい奴隷の生活。世界への好奇心を満たすうえであまりに不要なもの。
――けれど、父親から教えられたことは忘れてはならない。
言葉は続く。
『――よく見ろ。見て、刻み込んで、理解しろ。そうして初めて、レン、お前は敵を殴る権利を手にする』
■■■
揺れる背中で意識を取り戻す。
「……起きた? 今、あの人が時間を稼いでくれているから、逃げてるんだよ」
「……お前は?」
「あ、ボクは、ルティア」
半ば引きずるようにレンを運ぶ少女――ルティアによって、レンは今がどのような状況かを大体理解する。
敵を見ることもしないで安易に突っ込んで、無様にやられたレンの尻拭いを、今シュウがしてくれているのだ。
――手助けをせずしてなんとする。
「もう大丈夫だ、俺残るよ」
「えっ、でも」
「――大丈夫」
無理やりルティアの支えを振り剥がして、レンは冷たく、小さく呟いた。
その声音がルティアは固い決意と受け取ったのか、それとも出会ったばかりで引き止める理由が無いからか、ルティアは食い下がってはこなかった。
その代わり――、
「ミドル・ヒール」
背中に触れる手から、レンの体にじんわりと熱が流れ込んでくる。
同時に、体が軽くなっていくのがわかった。
――重かった腕が軽くなり、怠かった体が回復していく。
原理はわからないし、今知る必要も無い。好奇心が唆られる技ではあるが、今はそれに従う状況では無い。
ただ、感謝をするだけだ。
「ありがとう、助かった!」
「あの……頑張って。死なないで!」
出会ったばかりの人間に声援を送る少女の人柄の良さに感謝をして。
拳を突き合わせて、レンはイノコに向き直る。
――さて、再攻略といこう。
執筆時間にあふれている。




