エレナは分かっていた
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エレナには分かっていた。
自分が選ばれないことが。
「分かっていたわ。ドレスだって、届かなかった」
ワトー伯爵家宛に届いたのは、王太子殿下の婚約発表が行われるという噂のある夜会への招待状だけだった。それがすべての答えだ。
隠しきれないため息をつきつつ、父が用意してくれていた紅いドレスを撫で下ろす。
エレナの紅玉色の瞳と同じ色の絹は、自領の特産品だ。亡き母の瞳の色を出したくて苦労したのだと父ワトー伯爵から何度も聞かされてきた。
初めてこの絹のドレスを与えられた夜会が、失恋の場になるなんて。
分かっていたことだけれどやはり辛い。エレナは、会場の真ん中で喜びに声を弾ませている王太子殿下と、その横に立つ愛らしい令嬢からそっと視線を外した。
「今宵は集まってくれて嬉しく思う。この場にいる者たちへ慶事を伝えよう。私の婚約者となったイレーヌ・バクテル公爵令嬢だ。私達は共に協力し合い、この国の未来を築いていこうと約束した」
「ただいまご紹介に預かりました、バクテル公爵家が一女イレーヌでございます。デスノス王国の若き太陽エヴラール=ティアゴ王太子殿下を支え、共に国を導いていけるよう精進して参ります」
王族とそれに準ずる婚約者にしか許されないロイヤルブルーのドレスの裾を華やかに広げ、愛らしく公爵令嬢が婚約の口上を述べると、一斉に喝采が上がった。
王太子殿下とも幼馴染みであったという公爵令嬢。本命であるとずっと囁かれてきたイレーヌ様が未来の王太子妃として選ばれたことに周囲は納得し、祝福した。
エレナも、頭の出来は悪くないし、努力しただけあって見た目だってなかなかのものだ、と思う。それでもやはり身分は伯爵令嬢でしかないし、愛想も悪い。常にぎりぎりまで自分を高めようとしていて、心に余裕がなかったという自覚もあった。
一緒に王太子妃教育を受けている時など、よくイレーヌ様から眉間に皺ができていると揶揄われたものだ。
華やかな笑顔で堂々と指摘されるので嫌味っぽさはない。
むしろ「美しくあるためには笑顔でいた方がいいのよ」と、エレナの余裕のなさを気遣ってくれているのが毎回伝わってきて申し訳ないと思うほどだった。
そう。イレーヌ様は美しいだけではない。とてもお優しい方だ。未来の王妃に相応しい。
最初こそ計五人もいたエヴラール王太子殿下の婚約者候補は、エレナとイレーヌ様の二人だけになっていた。
もうイレーヌ公爵令嬢に決まったも同然なのに、なんで婚約者候補の地位にしがみついているのかと陰で笑われ後ろ指をさされていたことも知っている。
それでも王妃様から直接婚約者候補として選んでいただいたからには、エレナは最後の最後まで努力することをやめるつもりはなかった。
いいや。ただ単に、エレナ自身が諦められなかっただけだ。初恋だったから。
初めて参加した王宮のお茶会の席で、きらめく金髪の下で聡明そうに明るく輝く蒼玉の瞳を見た時から。ずっと恋い慕ってきた。だから、爵位が足りないと言われようとも、それを能力で埋めるべく勉学に励み、王族に匹敵する所作を身につけるべく努めた。地味なりに見目を整えようと大好きだったケーキだって諦めて、野菜にほんのちょっぴりの茹でた肉や卵で我慢してきたのだ。
それもこれも、すべて初恋のためだった。
けれど、届かなかった。
いつの間にか、オーケストラの演奏が始まっていた。
ファーストダンスが始まる。
王太子殿下がようやく得た婚約者と手を取り合い、踊る姿を見守るために、中央が開けていく。
その真ん中にいたはずの王太子殿下が、婚約者をエスコートしたままこちらに歩いて来て、エレナは眉を寄せた。
「こんばんは、エレナ嬢」
「王国の若き太陽、王太子殿下へご婚約のお祝いを申し上げます。おめでとうございます」
父ワトー伯爵の名前ではなくエレナの名前で話し掛けられ、エスコートされている手の下で、父の腕の筋肉が収縮したのが分かった。
慶事が告げられた祝いの席で、その王太子殿下により名誉を傷つけられたと怒る訳にはいかない。だがマナー違反であることは間違いない。それを、イレーヌ様までもが気にしていないことが、エレナには信じられなかった。
だが、父が黙っているのにエレナが怒ることはできない。
お祝いの定型文を述べ、王族に対する礼を取った。
「あぁ、ありがとう。エレナ嬢の今夜のエスコートは、御父上のワトー伯爵かな」
「はい。妻を亡くした身なれば、愛娘の手をとり夜会に参加できるようになったことは真に幸せなことだと思っております」
ようやく声を掛けられた父が頭を下げる。けれどどこか力が入ったままに感じる。緊張というよりどこか警戒しているような気がして、エレナも身構えることにした。
「それは僥倖。実はエレナ嬢に紹介したい男がいるんだ。いや、エレナ嬢もよく知っている者なのだが。どうだろう、エレナ嬢。アイクと踊ってやってくれないか」
「アイク様、ですか?」
「よろしくお願いします」
エヴラール王太子殿下の紹介もそこそこに、すっと横に進み出てきたのは殿下の専属護衛官だった。
背が高い。騎士なので当然かもしれないが、がっしりしていて身体の厚みが横にいる殿下とまるで違っていた。差し出された手も、節くれだっていて大きい。
確かに、エレナにも見覚えはあった。だが彼の名前を知っているかと言われれば、知らない。護衛官と近衛は着ている制服が違うので、これまで見分け方としてそれで十分だったのだ。
エレナは前に肩の飾り釦が外れかかっていることに気が付いた際にも「護衛官様」と声掛けしたような記憶がある。だが、釦の糸がほつれていることを告げれば頭を下げて殿下の後ろについて去っていってしまったので、それ以上の会話は記憶にない。
それ以外にも、いつも王太子殿下の後ろに立っていて、時折会話を交わしているのを見かけたことはあると思うが、実際に声を掛けられたのは今が初めてという程度の、知り合いというのも無理があるような相手だった。
「アイクは私が一番信頼している護衛官なんだ」
その説明を聞いた瞬間、父の身体に怒気が走った。
アイクとしか紹介されなかったことから分かるように、殿下の専属護衛官は元平民である。彼が幼い頃に見出したというのは有名だ。殿下の取り計らいで騎士見習いになった後に騎士爵を得たので今は平民ではない。
だが騎士爵というのは世襲ではない。あくまでも本人一代限りの爵位である。
つまり、伯爵令嬢の婚約者とするにはあまりにも身分に差があり過ぎるのだ。
エレナは、つい先ほどイレーヌ公爵令嬢との婚約が公表されるまで、王太子殿下の婚約者候補のひとりであった令嬢だ。その相手として、王太子自身が元平民を紹介する。つまりそれは、エレナの産んだ子供には爵位を継ぐ価値がないと言っているも同然。ワトー伯爵家に対して恥を掻かせる、顔に泥を塗る行為だ。
父の腕から伝わってくる怒気が膨れ上がって弾けそうになった瞬間、軽やかな声が上がった。
「まぁ! エレナ様は背がお高いのでアイクと並ぶと映えますわねぇ。うふふ。もし二人がこれで縁を育むようなことになったら、素敵ですわね。王太子殿下を守る専属護衛の妻に、私の側近として働いてもらう未来なんてどうかしら。ねぇ、エレナ様」
悪気など一切感じさせないイレーヌ様の無邪気な言葉に、ぞっとした。
初恋の王太子殿下の横で笑う美しくお優しいイレーヌ様のために、殿下から宛がわれた騎士爵の夫と共に働く未来が頭に浮かんできて、背筋に冷たいモノが走る。
「おぉ、それは素晴らしいな! どうだろう、いっそ一緒にファーストダンスを踊るのは」
「まぁ素敵ね。うふふ」
美しい二人が、笑顔で理想を語り合っていた。
その矛先がエレナに向けられてさえいなかったら、一緒に微笑むこともできたかもしれない。
だが、エレナには無理だった。
初恋の王子様であるエヴラール殿下の声を聞いていたくないと思ったのは、初めてのことだった。
ドレスの下で膝が震える。
嫌だ、と叫びたいほどなのに、咽喉が貼り付いたように声が出ない。
ただぎゅっと、父の腕につかまった。
「冗談だとしても、やめていただいていいですか、エヴラール殿下。あなた様の婚約者候補でなくなったその瞬間から、僕が、彼女の婚約者候補なので」
突然、割って入ってきた知らない男性が、とんでもないことを言い放って、思わず目を瞠る。
少し癖のある赤い髪に、シャンデリアの明かりが反射してきらめいて見えた。
鼻は高く、形のいいまっすぐな唇は薄い。少しだけ皮肉気な表情がよく似合う鋭い瞳は、殿下より少しだけ色が薄い藍晶石の色をしていた。
「お前は?」
「ミシェルと申します。クーレ伯爵家の三男で、ワトー伯爵家の嫡女であり未だ婚約者のいないエレナ様の婚約者候補、というか婚約する予定でいる男です」
名前を聞いて、エレナは驚いた。今の彼はよく知らないが、幼い頃の彼ならエレナもよく知っていた。王太子殿下の婚約者候補となってからは疎遠になっていたが、父の友人であるクーレ伯爵家にはよく遊びに連れて行ってもらっていたからだ。
「ミシェ」
思わず幼い頃のように愛称を口にすると、振り向きざまに微笑まれて胸がどきりと跳ねた。
我がワトー伯爵家には嫡男がいない。亡き母を今も愛している父は後妻の勧めに頷くことはなかった。嫡子であるエレナとその妹リーナがいるので十分だとしたのだ。
もしエレナが王太子妃として選ばれた時は妹が婿を取ることになっていた。
しかし、今のエレナは王太子の婚約者にはならなかったので、嫡女として婿を取ることになる。
その候補者を父が探していたことを知らなかったエレナは、表情にこそ出さなかったが内心で大きく驚いていた。
「なんだと? そのような相手がエレナ嬢にいるなんて聞いてないぞ」
それは当然だ。エレナ自身も自分に婚約者候補がいるなど知らなかったのだから。
エレナはちらりと先見の明を持っていた父へ尊敬の目を向けた。
しかし、ワトー伯爵の視線も戸惑いに揺れていた。
それに気が付いたエレナは、父の腕を掴んでいる手にぎゅっと力を込めた。
どうやらミシェは、困っている幼馴染のために一芝居打ってくれるつもりらしいと気が付いたからだ。
エレナのサインを正しく受け止めたワトー伯爵が、ハッとした様子で背筋を伸ばした。
「はっはっは。そりゃそうですよ。エレナ様は今しがたまでハッキリとされない誰かサンのせいで、ずーっと婚約者候補という鎖につながれてましたからね。その状態で勝手に婚約を交わす訳にはいかないでしょう? だからあくまで今の僕は候補です。でも、ようやく誰かサンがハッキリとエレナ嬢以外と婚約してくれたので! この夜会から帰ったら、すぐに手続きを進めることができるんです。ですよね、ワトー伯爵?」
パチンとウインクをされて、ワトー伯爵父娘は我に返った。そのままガクガクと首を縦に振る。
「そんな! まだ正式に婚約したというのでないならば、ワトー伯爵になるのは俺でもいいじゃないですか」
慌てたアレクが割って入ってきたが、それをワトー伯爵は目を細めて睨みつけた。
「口を慎め、護衛官どの。伯爵位は、騎士爵を持っている程度の元平民に務められるほど軽いものではありませんぞ」
ワトー伯爵が諭す。しかしその言葉は却って彼の自尊心、いや劣等感を刺激してしまったようだった。アレクはすっかり激昂していた。
「俺を馬鹿にしているのか!」
伯爵と騎士爵。爵位の差を考えたらあり得ない言葉だった。
王太子の専属であるという錦の御旗が、彼をここまで増長させたのだろうか。それとも、ここまで礼を失した態度の部下を諫めることすらしようとしない王太子殿下自身がそうさせたのかもしれない。
どちらにしろ先ほどまでは祝福だけであった周囲の視線が、段々と冷えたモノに変わっていっている。
そのことに、当人だけが気付いていなかった。
「いいえ、単なる事実ですわ、アレク様。広い領地を治めるためには、その土地の産業についてだけでなく、その風土や民の気性まで理解せねばなりません。それは一朝一夕にどうにかなるというものではありません。一年を通じて領民と寄り添い、民の暮らしを知ってこそです。またそれとは別として、伯爵としてのマナーや法律についても詳しくあらねばなりません。王宮へ納める税金の算出書類などを整えることもできねば。マナーだけはなく、領地について知っているだけではなく、近隣領主との付き合い方も、法律も、社交界でのやり取りもすべて熟せてこそ伯爵位です。アレク様に、それができますか?」
「それは……」
エレナの率直な指摘に、アレクがたじろいだ。完全に目が泳いでいる。あまりにも分かり易い狼狽えっぷりに、ハッタリのひとつもかませないのかと、エレナは胸の内でまた一つちいさなため息をついた。
そう。元平民の騎士爵が相手では身分にも差があるのだが、なによりも伯爵とするには圧倒的に教養が足りないのだ。伯爵というものは、貴族同士の付き合い方もあしらい方も知らない人間に務まるような地位ではない。
それにもかかわらず、王太子殿下が口を挟んだ。
「しかしそういったことは、家臣に任せればいいのではないか。優秀な貴女が肩代わりをすることだってできる筈だ、エレナ嬢」
「エヴラール殿下!」
王太子殿下の言葉にアレクが息を吹き返した。
それと反比例して、最悪の取りなしを口にした王太子殿下に、エレナの恋する気持ちが冷えていく。
幼い頃のひとめぼれをいつまでも引き摺っていた愚かさが、今更ながら胸に痛かった。
「王太子殿下、それは本気で仰っているのですか? 理解しないまま伯爵のサインをするだけが伯爵として正しき姿であるなど王太子殿下自らお認めになられるなんて。それで健全な領地経営ができると本気でお思いですか?」
理路整然とエレナが詰め寄る。
王太子殿下が面倒さそうな顔をしていた。
こういうところが可愛げがないと言われる所縁なのだろう。
エレナがどれほど自分を高めようと努力しようとも、婚約者として選ばれなかったその理由が、ようやく腑に落ちていった。選ばれるわけがなかった。そう自嘲しはしたが、元よりうやむやにできる性格ではない。勿論うやむやにさせるつもりもなかった。
目の前にいる御方はエレナの初恋の相手だ。
だがその前に、この国の未来の国王陛下となられる御方だ。この国の未来のためには間違いを糺さねばならない。それが臣下としての務めだ。うやむやにはさせないと、じっと見つめ返した。
「それは……しかし、そういう領地もあると、聞いている」
そう返された言葉尻は、迷いを感じさせるかなりちいさな擦れ声だった。
エレナは冷えていく心のままに、冷たく問い詰めた。
「ではその御方をお連れ下さい。是非父と一緒にお話をお伺いしとうございます。それで納得できたなら婚約者候補のひとりとしてお受けいたしましょう」
「いや、それは、その……」
「まぁ怖い! せっかく美人に生まれついたのに。そのようなお顔をされてはいけませんわ」
そう言って、イレーヌ様がエヴラール殿下の腕にしがみついた。
「イレーヌ」
庇われたのが分かったのだろう。それまで死んでしまうのではないかというほど土気色になっていたエヴラール王太子殿下の顔色は、一気に血色がよくなった。
笑顔で、腕に掛けられたイレーヌ様の手に手を重ねる。
「エレナ嬢は、真面目だから。そんな彼女が君のサポートについてくれたら私も安心だ」
「えぇ、そうね。私は、時には愉しむことも大切だってエレナ様に教えて差し上げられると思うわ」
うふふあははというお花畑な笑い声が聞こえた気がした。
王太子殿下から選ばれたならば、王太子妃としての仕事を熟せるようにならなければならない。王族のひとりとして背負う仕事は一貴族であるより膨大で多岐に渡る。それを熟せるようになるために、王太子妃教育を受けてきたのだから。
その面倒臭い裏方作業を押し付ける相手として、エレナは丁度いいと思われたのだとようやく理解した。
元平民のアレクを宛がうことでエレナ自身の身分も下げれば、反抗しにくくなるとでも考えたのだろう。
「ワトー伯爵家をなんだと思っているのかしら」
これ以上相手をして周囲に同類だと思われたくなかったエレナは、会話を終わらせることにした。
父の視線も「やっちまえ」と言っていた。多少怒らせたところで、周囲もどちらが悪いのか分かってくれることだろう。
むしろ怒らせたことを理由に、エレナは領地へと引き籠るべきかもしれない。
そう計算した上で、エレナは高圧的な態度で挑むことにした。
「私は伯爵夫人として領地経営を支える仕事をしますから、王太子妃殿下の側近にはなりません」
堂々と、王太子殿下とその婚約者の申し出を拒否した。
それまでずっと従順であったエレナの頑なな態度に、二人は驚き慌てふためいた。
「なぜ? そんなの困るわ!」
知るか、とエレナは反射的に返してしまいそうになった。だがぐっと堪えて、貴族令嬢らしい少しずらした返答をした。
「それに、私には私なりの愉しみがありますの。私は、領民の笑顔を見ていたいのです。それがエレナ・ワトーの望む幸せです」
それはエレナの本心だった。エヴラール王太子殿下の婚約者として選ばれていたなら、領民ではなく国民と答えただろう。けれどそれ以外は何の違いもない。
エレナは高位貴族の一員として生まれ育てられた。
貴族は平民を守り導く存在なのだから。
「そうそう。それに、お忙しい王太子妃殿下の手を煩わせなくとも、僕がエレナを笑顔にするので大丈夫です」
「え?」
「ちょっと黙ってて?」
ミシェに耳元で囁かれて頬が染まった。近い。近すぎる。ダンス以外で、体温を感じるほど男性とこんなにも近付いたのは初めてだ。
「野暮なことはお止めください、エヴラール王太子殿下。婚約者を得られて幸せを感じている分、自分に近しい者にもその幸せを分け与えたくなるお優しい気持ちは分かりますけど。だからといって僕からエレナ嬢を取り上げるのは困るんです。僕の、初恋なので。王妃様からの御下命で婚約者候補に指名された時には涙を呑んで諦めましたが、もう諦めなくていいんですよね?」
「ミシェったら」
エレナは、ミシェルにこれ以上嘘をつかせたくなかった。だが、ちょっと怖い笑顔を向けられて口を閉じる。目が笑っていなかった。黙っていろと言うサインだ。間違いない。
そうして、口を閉じたところを抱き寄せられて、息が止まる。
抱き寄せられた腕が、熱かった。
「えっ。あ、しかし、エレナ嬢は私のことを」
「なんでしょうか。婚約発表をされたばかりの、王太子殿下?」
ミシェルが視線で、エヴラール殿下の横で腕を絡ませているイレーヌ様を示すと、
そこでようやくイレーヌが拗ねていることに気が付いたようだ。愛らしい頬が膨れている。
「もしかして、エレナ様に傍にいて貰えばいいと言われたのは、私の仕事を手伝わせるためではなく、エヴ自身のためだったのですか?」
愛らしく唇を尖らせて紡がれた言葉は思いの外遠くまで響いてしまったようだ。
少し離れた所にいる貴族たちまでもが、目を剥いてこちらを注視した。
自分に恋していると思っている令嬢に、自分の専属護衛官を宛がい、妻の仕事を押し付けようというのだ。
あまりにも下賤で卑劣な考え。
御婦人方は厭そうに睨んでいるし、夫である貴族たちは自分の不倫がバレたかのように震えていた。
「ち、違うよ。私は君の仕事がスムーズに進むように、優秀な側近を用意して上げたかっただけだ」
言い訳をする王太子殿下へ向けるイレーヌの視線は疑いを持ったままだ。
疑われて焦る姿が、さらに疑わしさを生んでいるのだが、それにはまるで気が付いていないようだった。
これ以上は本当に付き合っていられないと、エレナは夜会から辞去することにした。
破れた初恋に、終わりを告げるのは自分でありたかった。
「大変申し訳ありませんが、そういうお話ならば尚のことご辞退を申し上げなければ。私にはワトー伯爵家の一女としての務めがありますので。王太子殿下の慶事のための宴ですもの。意向に反した私は、失礼いたしますね。どうぞお幸せに」
「ワトー伯爵家の当主としてもお断りを申し上げます。我が伯爵家の跡取りは私が決めます。たとえ王族であろうとも、他家への干渉はルール違反だと思召されよ。では御前、失礼する」
「僕からも。どうか僕の初恋の邪魔をしないでください、王太子殿下」
三人三様。其々がエヴラール王太子殿下の思惑へ断りの言葉を告げる。
「待ってくれ、エレナ嬢。俺の話を聞いてくれ! 殿下、なんとかしてください。エレナ嬢が帰ってしまいます! 俺に伯爵位をくれるっていう話はどうなるんですか? ねぇ!!」
当事者でありながら、蚊帳の外に追いやられていたアレクが騒ぎ出す。
しかし、エヴラールもイレーヌもそれどころではなかった。
もうエレナは振り返ることはしなかった。俯くこともなく顔を上げて会場を後にする。
それが、エレナなりの初恋の終わらせ方だった。
*****
「当然のように、同じ馬車に乗って来たわね」
「えー、僕にはその権利があると思うけど?」
「まぁ助かったよ、ミシェル君。既に婚約者候補がいると名乗り出てくれなければ、
かなり手こずった筈だ」
「いえいえ。僕としては役得でした」
にっこりと微笑まれた意味が分からないほど、エレナは察しが悪い訳ではなかった。
頬が熱くなる。
ミシェルに嘘をつかせたくないと思っていたけれど、最初から彼は嘘をついてはいなかった、ということかもしれない。そう考えただけで熱が上がった気がした。
勿論、エレナの勘違いの可能性もある。
そう考えることで、のぼせ上りそうな自分の心と頭を落ち着かせようとしたが、心が落ち着いてくれることはない。
今の自分は、普通ではない。エレナには、分かっていた。
当たり前だ。恋を失くしたばかりなのだ。
そうして初恋の相手が屑だったと知ったショックは、あまりにも大きい。
そこに突然現れて、エレナを初恋だと言って、守ってくれようとする幼馴染みが現れたのだ。
縋ってしまいそうになっても仕方がないのかもしれない、とも思う。
しかも今いるのは狭い馬車の中だ。ミシェルはエレナのすぐ目の前にいて、まっすぐにエレナの顔を見つめて微笑んでいる。
冷静にならなければと思っても、なれる訳がない。
「ふふ。いろいろ考えちゃってるエレナ、かわいい。でもね、ひとつだけ言っておくね。僕の想いは間違いなく君にある。でもね、無理に僕の手を取る必要はないんだ」
「それは、どういう意味かしら」
「僕は、ずっと君を見ていたってことさ。ずっと温めていた想いは、そう簡単に消えたりしないものだろう?」
ごとごとと、揺れる馬車の中で三人。
あまりにも近くに座っているところでサラリと告げられた言葉が胸に刺さった。
目の奥が、熱くなる。ちくちくと痛みを訴えてくる。
涙を溢してしまう前に、顔を窓の外へと向けた。
街灯で照らされた王都は、夜でも明るいけれど。涙で滲んできて、景色は分からなかった。
「でもね、失恋なんて誰だってするんですよ」
その声が、妙に明るく耳に響いた。
「そうね。誰でもする、ものよね。特に、初恋は叶わないものだと、聞いたことあるわ」
「まぁそうですね。僕も、初恋の人が王太子殿下の婚約者候補に選ばれたと知った時には死ぬしかないと思いましたもん。しかもですよ、彼女ってばめちゃくちゃ嬉しそうに僕に話して聞かせてくれるんですよ。王太子殿下がどれほど素敵な笑顔をしているか、とか。そのかわいい顔に僕はまた恋して、家に帰って死にそうになるんです。でも可愛くて。彼女が笑ってるだけで幸せな気がしたり。いやぁ心が乱高下して、本当に忙しかった」
「そ、そうなのね」
何を聞かされているのかと父であるワトー伯爵は思った。だが、今は黙って石の振りでもしているしかない。
ワトーにとって、娘エレナは努力家で、自慢の娘だ。顔だって亡き妻にそっくりで美しく育った。所作だって王族に引けを取らないほどのものを身につけた。それが初恋のためであったとしても、努力を重ねたのは娘本人だ。褒めて褒めて褒めまくってやりたい。
その愛娘を虚仮にされるところだったのを救ってくれたのは、この妙に口の巧い友人の息子に他ならない。
ワトーだけでも、助けられたとは思うが、自尊心という意味では、彼の貢献は計り知れない。多分、これから更にそうなる。
目に力を入れて、目の前の男を睨んだ。
娘を泣かせたら、ただでは済まんぞという想いを乗せて。
「辛くても、嬉しくて。結局諦めきれなくて。彼女が婚約者候補じゃなくて正式な婚約者として選ばれるまでは、と。自分で自分に言い訳して。ここまで引き摺ってきちゃいました。はは。みっともないですよね」
照れくさそうに笑うミシェルに、エレナは何度も強く首を横に振った。
「みっともなくなんか、ないわ。ミシェが、助けに入ってくれなかったら、私」
間違いなく、王太子殿下とイレーヌに言い包められてしまっていたに違いなかった。そうしてエレナの自尊心は惨めに踏みつけられていたに違いない。
「ありがとう、エレナ嬢。だからその。ゆっくりでいいから、ちゃんと待てと言われるまで待つから。だから、新しい恋を、僕としてくれませんか」
エレナは、自分の中にその答えをひとつしか見つけられなかった。
「いいえ」
「おい、エレナ! お前なんて酷いことを!!」
エレナのひと言で真っ青になったミシェルが哀れでならなくて、黙っているつもりだったワトーが慌てて娘の名前を叫んだ。
「待つ必要なんかないわ。ゆっくり待つなんて、しなくてもいいの。だってもう、私の心の真ん中に、ミシェが座っているのだもの!」
真っ青になる父がすぐ横にいることなど完全に頭の中から消し去っていたエレナは、この恋こそ逃さないとばかりに愛しい人の胸へと飛び込む。
「エレナ! 愛している。結婚してくれ」
「喜んで」
馬車は揺れに揺れ、馬は嘶き、御者も慌て、父親は娘の新しい恋を喜んだ。
勿論この後、王太子と公爵令嬢はめちゃくちゃ王と王妃から怒られます。
王太子を下ろして、妹王女に移すことも匂わされて、震えあがって心を入れ替えることを誓います。
でもいつか本当に王太子から下ろされちゃいそうだなーって思いますw
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お付き合いありがとうございましたー!