罪海に呑まれて
軽やかな足取りで木製の渡り廊下を5歩歩き、6歩目で足音が消える。
潮で傷んだ木の板が軋む音に紛れ、はぁ、と溜息を吐いた。
「そう考えられりゃ、楽なんだろうがな」
一種の諦めと開き直りも必要だと言っておいてなんだが。
気にするなと言うほうが無理だ。この平穏で平坦な神域で、罪だ罪人だと考えないでいることは不可能である。共同体を維持する程度の仕事しかなく、娯楽も少なく、そのうえ半端といえ不老不死。余るばかりの時間はどうしても思考をそこに帰結させてしまう。
何かをしていても、ふと後ろめたさがよぎる。首筋に刃を突きつけられたかのように身は縮まり、否応なく罪を思い出す。不老不死なんて欲望を抱いて求めた分相応さへの。
そうして罪の意識や良心の呵責で責めてくるくせに、罰は与えられない。ただこの平穏で平坦な神域に居ることだけを求められる。
鯨神の力は眷属の多さに比例するらしく、その力の維持のためだけに生かされる。祝祭の時に遍羅が駆り出される以外は何もない。
いっそ鞭で打ち石を投げ、過酷な労役を課し、拷問でもって苦しめてくれればよかったものを。苦痛は何よりの暇潰しになったろう。
擁しておいて何もしないことが罰とは、まったく鯨神も趣味が悪い。
嘆息しながら小屋の戸を開ける。この小屋はシノノメが自身の住まいとしてあてがわれたものだ。眷属として何百年住んでいるが、構造自体はノシロのものと同じ。
出入り口の扉の横に小窓があり、そこに飯の膳が届けられている。湯気を出していないが冷めてもいない微妙な温度の膳を持ち上げ、草履を脱ぎ捨てながら板間へあがる。膳を起き、やかんに汲み置きしていた水を湯呑みに注いでから座布団に座った。
「はぁ? 今回は汁物ね。厨番がサボったか?」
膳には具材がたっぷり入った汁物が丼いっぱいに。それと箸と匙。
材料を鍋に入れて煮込めば完成のお手軽料理に文句を言いつつ、シノノメは食事に手を伸ばした。
具材は野菜か肉か判然としない。地上のどの食べ物でもない。神域でしか採れないもので構成されている。
形を残したまま煮込まれた具材を箸で崩しつつ、ずず、と啜る。魚でも貝でもない、ぶよぶよの肉を咀嚼する。
食事そのものはそれほど美味しくない。むしろ、肉に限って言えばものすごく不味い。潮臭く、汁の味でどうにか食えるようにしているだけだ。
肉体の維持だけしか考えられていない献立と食材と調理法と味に本当に気が滅入る。これもまた罰の一種なのだろうか。悪趣味な。
できるだけ味のことは考えないようにしつつ、無心で咀嚼して飲み込む。
水が無味無臭で本当によかったと思うような食事を終え、味へのやるせなさを込めてやや乱暴に膳を小窓から外に押しやる。こうすると配膳当番が回収してくれるのだ。
「シノノメ、いるか?」
「あん? 浅葱の坊主がどうした?」
不意に扉が開き、浅葱色の着物を着た若者が顔を覗かせる。彼もまたそれなりに新参者で、まだまだ半人前といったところだ。シノノメがつきっきりで世話をしなくてもいいが、時折様子は見てやったほうがいい、くらいの。
そんな彼が訪ねてくるなんて。生活のあれこれは教えたし、仕事でわからないことがあったら仕事場の上司に訊ねればいいはず。いったい何の用だ。
「その……ニナとコマイの姿が見えなくて……」
「へぇ?」
曰く。機織り小屋で働くニナとコマイの夫婦の姿がこのところ見えないらしい。
目撃情報を追ってみると、どうやら2人は自宅である小屋に引きこもったまま。この神域に昼夜はないが、主観的な感覚でいうと数日ほど。
差し入れられる食事もまったく手を付けていないようだ。ひたすら2人で引きこもっている。
とてもとても心配だ。なので様子を見てやってはくれないか。
「なんで俺が? それって馬に蹴られやしないだろな?」
あの夫婦は仲睦まじいことで知られている。皆が呆れるほど。ナギサだって苦笑するくらいだ。
それが家にこもりきり。寝食を忘れて睦み合っているだけだったら、気まずいってものじゃない。様子を窺いに向かったら喘ぎ声が聞こえてきたとあったらもう、それ以降どう接すればいいのか。熱い男女の仲に割り込む者は馬に蹴られるのが定石だ。
茶化す。が、彼の表情は冗談にも緩まなかった。その様子を見てシノノメもまたおちゃらけた笑顔を引っ込める。
「……成程。俺が要る話なんだな?」
シノノメの平時の仕事は新入りの世話以外にもある。どうやら今回はそれに関わるもののようだ。
表情を引き締め、わかった、と立ち上がる。壁に立てかけてあった銛をひょいと担ぎ上げ、ニナとコマイの小屋へと足を向けた。2人の小屋は集落の一番外だ。睦み合う2人の夜半の声に配慮して。
2人の声と音を隔離するため、ぽつんと離れて建った小屋。しかしそこからは何の声も音も聞こえない。ただ静かな潮騒が聞こえるだけだ。
こりゃぁマズいかな、と内心で呟き、開けるぞ、と小屋の扉を開く。木の板を開けた瞬間、強い潮の匂いがした。
「あー……あいつら、褪せちまったか」
呟いたシノノメの声は、波の音に掻き消されて消えた。




