縹色の槿花
ここでは誰も彼もが罪人だ。その事実を前に、室内に沈黙が降りる。
その重苦しい空気を破ったのは、きっぷの良い女性の声だった。
「こらぁ! シノノメ! この坊主、あんたまた新入りイビってんのかい!」
「うげっ!」
縹色の着物をたすき掛けした女性が割り込んできた。
見るからに肝っ玉母ちゃんといった風体だ。口ぶりからするに、おかみさんというか何というか、そういった役回りなのだろう。
そう把握するノシロをよそに、彼女は悪戯坊主を叱る母親のようにシノノメを咎めだす。
「飯を届けに来てみりゃ、あんたまた……」
「悪かったって、キンカ! あー! 急用思い出した! じゃ!」
「嘘おっしゃい! こら!」
どたばたと逃げ出すようにシノノメがその場から駆け出した。まるで説教から逃げる悪童のようだ。
はぁ、と息を吐いた彼女はシノノメへの追撃を諦めて、それからノシロへ視線を移した。
「はぁ……あぁ。あたしはキンカ」
悪童を叱ろうとして自己紹介が遅れてしまった。軽く名乗った彼女は話を取り繕うように続けた。
「まぁ、気にするこたぁないよ。罪なんてさ」
シノノメは不老不死を求めた分相応な欲望なんて言って脅しつけたが、一族の中にはそれに当てはまらない者だっている。そうしたくてやったわけじゃない、知らずに祝祭に巻き込まれただけの人間だっているのだ。
不老不死を求めてナギサを裂いた加害者ではなく、不老不死を求める者の欲望に巻き込まれただけの被害者が。
「あたしもね、ダンナに誘われたのさ」
それはいつだったか。地上では300年くらい前だった気がする。
名前も顔も忘れたが、その頃、自分は村で有名な熱愛夫婦だった。水魚の交わりとか比翼連理とか、琴瑟、貝の口合わせ、仲睦まじさを表すあらゆる語彙を使っても表現しきれないほどの熱愛っぷりだった。
そんなある日、夫に小旅行に誘われた。夫婦仲を長く保つための儀式があり、その儀式の日を祝う祝祭があるのだという。行ってみないかと、提案の形をしながらほぼ強制的に。
今にして思えば、夫婦揃って不老不死になり、永遠に一緒に添い遂げようという考えだったのだろう。
「どころがどうだい、現実はこうじゃないか」
不老不死を狙って画策した夫は瓶覗の化け物になって、知らずに巻き込まれた自分は罪人としてここにいる。
そんな理不尽な運命の末に一族に組み込まれた者だっている。我らが一族の全員が全員、自業自得で身の程知らずの欲深い罪人というわけでもない。
「おひいさんだってそうさ」
おひいさん、つまりナギサだってそうだ、とキンカは告げた。
あの子は最も罪深い者として、大罪人だと定義されている。だが、その罪の実際のところは、なんとも理不尽なものなのだ。
これは我らが一族の始まりだ、と前置きしてからキンカが続ける。
かつて鯨神は神域も眷属も持たず、孤独に海を漂う大鯨だった。
その大鯨を捕らえようとした人間たちがいた。この神ならざるものの血肉は不老不死の霊薬だと言って。
彼らは大鯨を捕らえ、裂き、肉を口にした。そして神ならざる力に耐えかね、今では瓶覗と呼ばれている異形の怪物へ。たまたま耐性があったナギサだけが唯一生き残り、そして力と迎合して不老不死となってしまった。
大鯨を獲って捌いたのは当時の大人たち。ナギサはただ大人たちのやることを眺めていただけの子供だった。もちろんその肉の力についても知らなかっただろう。
それなのに大罪人だ。直接口にした連中の中で、唯一生き残ったがゆえに。
そこに情状酌量は存在しない。知らなかった、巻き込まれたなど斟酌されない。『食ったのは彼女』だから、『生き残ったのは彼女』だから、鯨神の怒りの矛先は彼女に集まる。
それ以来、彼女は大罪人として我らが一族の頂点にいる。釣り餌として存在し、裂かれて殺され、そして生き返ってはまた裂かれる。そうあれと鯨神が望むままに。
「ま、諦めも肝心ってことさ」
ひょい、と軽い調子でシノノメが窓から身を乗り出して会話に割り込んできた。逃げたんじゃなかったのかい、いや言い忘れがあってさ、とキンカと話したシノノメはノシロへ顔を向けた。
「神ってのはそういうもんさって諦めたほうがいいぜ。小さな人間は『おおきなもの』に振り回されるしかないってね」
罪どうこうと脅しつけはしたが、キンカが話した通りまったく謂れもなく罪人になった者だっている。
そうなるかどうかは神ならざるものの機嫌次第。諦めと開き直りも肝心だ。
「つまり罪だなんだと気に病む必要はないってことさ」
もちろん、神ならざるものに手を出したという恐れと畏れは抱くべきだが。
祝祭のたびに裂かれるナギサを憐れめる立場か、お前だって加害者だと突きつけた部分については、過剰に気にしすぎることはない。やってしまったことについてはどうしようもないので。ナギサ自身も、それでどうこう言う気はないようだし。
どうしても気になるならナギサに優しくしてやればいい。少しは罪滅ぼしにはなるだろう。
からりと笑ったシノノメはそれだけ言って、軽い調子で手を振って立ち去った。




