幕間小話 東雲が流れ始めた頃
それはいつか、数えるのも億劫なはるか昔のこと。
「罪人?」
当時新入りだったシノノメは世話役の男にそう訊ね返した。
あぁそうさ、と痩せぎすの壮年の男性は少し疲れたように頷く。
「そりゃそうさ。俺たちは不老不死なんてものに釣られて、神ならざるものに手を出した」
不老不死を求め、鯨神に欲望を向けた。それは罪だ。
神やら何やら、一言でまとめるならば『おおきなもの』に手を出した。矮小な人間ごときが、身の程知らずに。
大いなるものに噛みついた罪人だ。故にその罪を贖わなければならない。
『許された』から生き残ったんじゃない。生き残ったからこそ『許されない』のだ。
「お情けや幸運で生き残ったと思うなよ。あそこで死んだほうが『良かった』んだ」
何回もこうして新参者に説明してきたからだろう。世話役の声はどこか疲れているような響きがあった。
それでもその諦観を振り切るように、まぁ、とつとめて明るい声で世話役が続ける。
「罪人だ何だからって大したことは求められねぇ。この神域で暮らしてりゃいい」
神ならざるものに手を出した罪人といったが、だからといって刑罰を与えられるわけではない。
実際にやることは、一族の生活基盤を支えて働いているだけだ。時々、自分のやったことを自覚して嫌な気分になる程度。
「それだけか?」
胡乱な声をあげ、シノノメは首を傾げた。見るからに平和そうな神域内で暮らすだけって、罪人の処遇にしては甘くないか。そう問うシノノメに、まぁそう思っとけと世話役の男は意味深に笑う。何にもない平和がずっと続くってそれはそれで退屈で苦痛だぞ、と。
「ま、遍羅……祝祭の後片付け役に任命されるとキツいけどな」
鯨神の食べ残しを始末し、瓶覗を処分して、ナギサだったものを回収する。
その作業はとても精神的な負担になるだろう。おぞましくてしょうがない。こうして飽きて疲れるほど説明役を担わされているが、じゃぁ遍羅の隊に転属するかと聞かれたら、いいえ喜んで説明役をやらせていただきますと即答するくらいには。
「あんなもの、毎回やるんだからさ」
「毎回って……」
ということはつまり、あの少女は毎度『あぁ』なっているのか。
血を求める欲深い人間どもに群がられ、無惨に引き裂かれ、不老不死の再生能力も追いつかないくらいに。
祝祭の間隔は地上では数十年単位。しかし時間の流れが違う神域では数日ごと。
鯨神が食事を所望するそのたびに彼女はその華奢な体を下卑た欲望に晒すのだ。
「そうだな。姫さんは大罪人だから、俺たちと違って『居る』だけじゃだめなんだとよ」
自分たちのような中途半端な不老不死とは違い、正真正銘の不老不死。その由来は鯨神本人の肉を喰ったこと。
我らが一族はナギサの血肉を通して不老不死を得ようとした故に罪とされるが、ナギサは鯨神そのものの血肉を喰って不老不死となった。
その罪は許されるものじゃない。鯨神は怒り、その行為を原罪と定めた。だから苦痛を受けるように強いられている。
不老不死という釣り餌となり、欲深い人間どもの手によって裂かれ、遍羅の者たちに後始末のついでに回収される。不老不死なので傷はいずれ癒えて、そうしてまた鯨神の食事のための釣り餌になる。
それが彼女に与えられた罪であり罰なのだ。大鯨の肉を食ったことへの。
「そんな……それってあまりにも……」
それはあまりにも酷くないか。鯨神の肉を直接口にしたという罪だけで大罪人扱いだなんて。
大罪人だからといって、そんなむごい目に遭わなくてはならないのか。それほどまでに鯨神の怒りは大きかったのだろうが、だけど、それにしたってあんなか弱い少女に背負わせるなんて。
「言ってる場合か?」
愕然とする新入りへ、世話役の男は肩を竦めた。
なんて可哀想なんだと、ナギサのことを同情できる立場じゃない。完全な不老不死の代償がそんなものなんてと憐れみを垂れていい身分じゃない。
だって、お前もそうだったじゃないか。突き放すように、罪を自覚させるように、世話役の男は続ける。
「何回列に並び直した? もっともっとと何度裂いた? どれだけ啜った? 肌を流れる血の味はどうだった?」
お前だって、喰ったのだ。
祝祭のたびに毎回裂かれて可哀想だなんてどの口が言う。まさにお前は、祝祭に参加して裂いた側じゃないか。傍観者じゃない、加害者だ。
覚えているだろう。まだ血を受けていないふりをして列に並び直したことを。もっとよこせと痩躯を裂いたことを。むしゃぶりつき、啜ったことを。その血の味を。満足感を。充足感を。周囲が瓶覗になる混乱も、最後に総ざらいする鯨神の口も。
***
いつかのあの日、世話係の男に言われたこと。あの時をなぞるように、シノノメはノシロへそのまま投げかけた。
「な? だから俺たちは『罪人』なんだ」