底を覗いて、海に呑まれる
湯を沸かして白湯にするのも面倒になって、水道から水を汲むだけになった。
まぁそれでも落ち着くものは落ち着く。すっかり平静を取り戻した様子のノシロを見、シノノメは内心安堵の息を吐いた。
茶葉のくだりなど最初から織り込み済み。新入りの緊張を解くためにわざと茶化したのだ。こうして道化を演じれば新入りは警戒を解くし親しみを持ってくれる。そのための一幕だ。
この所作は何度も説明役をやっているうちに身に着けたものだ。もはや手慣れたもの。脳内の台本を手繰りつつ、さて、と休憩を切り上げる。
「聞きたいことはまだあるだろ? たとえば、不老不死なんて嘘っぱちだったのか、とか」
祝祭のことは覚えているだろう。不老不死の噂、緋砂姫の血の譲渡、化け物になった人々、最後には鯨神がすべてを喰らう。
記憶に鮮明に焼き付いているはずだ。あんな光景の記憶など、名前と一緒に剥落すれば楽だったろうに。そう思いつつ、シノノメはノシロに告げる。
「あれは食事だよ」
鯨神の。正確には神ではない大鯨の。
不老不死の噂に釣られた欲深い人間を喰らうための食事。それが『祝祭』の正体だ。
では不老不死とは大嘘だったのかと、そう思うだろう。半分は正解だ。
人々に不老不死を与えるというのは嘘だ。そう言えば、欲深い人間が集まってくるから。釣りをする時に餌を撒くのと同じだ。
そうして集まったものを鯨神が総ざらいというわけだ。緋砂姫はその釣り餌である。
かといって、不老不死はまるっきり大嘘でもない。見ただろう、緋砂姫、もといナギサの力を。手を切った傷がたちどころに治癒した光景を。
鯨神の血肉によって不老不死になるということだけは本当だ。ナギサがそうであるように。
そして、正真正銘の不老不死であるナギサの血肉を食ったことで自分たちもまた及ばずながらその力がある。腕を切り落としたくらいならすぐに再生する程度には。さすがに頭を潰したら死ぬが。
試してみるかいと腕を指して軽妙に笑いつつ、シノノメは次の説明に移る。気になっているだろう。あの化け物どもについてだ。
「あれは瓶覗さ」
身の丈を越えた欲を抱え、底を覗いたもの。藍染めの色とかけてそう呼ばれている。
まぁつまりは、血によって変異した化け物である。緋砂姫という人ならざるものの血に宿る力に耐えきれず、異形の化け物になってしまったもの。
と、言うと新入りはたいてい顔色を変える。自分もまた緋砂姫の血を飲んだということは、あぁなってしまうのではと考える。
それを知っているシノノメはすぐさま言い添えた。
「安心しな。お前さんはあぁならないさ。今だって元気だろ?」
そう言うと、ノシロの顔色が蒼白から戻った。よしよし。
ノシロの反応が想定の範疇すぎて面白い。これまで数々の新入りの世話をしてきたが、こんなわかりやすく想定内の反応をしてくれる相手は初めてだ。
笑うと悪いので表には出さず、内心で腹を抱えて笑い転げながら続ける。
「体質みたいなもんさ。たまたまお前さんは耐性があった」
同じ環境で暮らしていても流行り病にかかったり、かからなかったりするように。同じ鍋の飯を食ったのに腹が痛くなったり痛くならなかったりするように。
このあたりの詳しい仕組みについてはシノノメも知らない。気になるなら緋砂姫もといナギサ本人に聞いてみればいいだろう。本人も説明できるとは限らないが。
まぁとにかく、ノシロには耐性があったということだ。だから変異を免れた。
そして、瓶覗に変異せず、たまたま鯨神に喰われなかったものを拾って一族に迎え入れている。今ノシロにしているように、名付けの儀式をして説明を含ませて。
ちなみに、変異しなくても喰われてしまった場合は諦めている。どうしようもないので。
「…………つまり、生き残ったんだよな? 助かったんだよな?」
「さぁ? 幸運とも限らねぇぜ?」
運良く生き延びられたと思わないほうがいい。いや、幸運かどうかでいえば、むしろあの祝祭で死んだほうがはるかに『運が良い』。
救われたわけでも選ばれたわけでもない。自嘲も含め、どこか疲れた顔でシノノメはそう言った。
「だって、罪人なんだから。お前も、俺も」
底を覗いた者は底に引き込まれるのだから。