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我らが魚群

長い桟橋を歩いていくにつれ、やがて視界が霧に覆われる。それでも足元の感触を頼りに進んでいく。

霧が晴れればそこは鯨神の神域である果てのない大海原だ。


その大海原に浮かぶ小屋の群れが我らが一族の住まいであり、海上に築かれた唯一の集落だ。

足場を組み、いかだ小屋を建てて互いを渡り廊下で繋ぐ。ただそれだけの簡素な建物群である。

そのうちのひとつ、新入りの彼の住居になるだろう小屋に新入りを放り込みに行く上司を見送り、シノノメは持っていた魚籠を担当者に引き渡した。あとは上手くやってくれるだろう。これで遍羅の仕事は終わりだ。さて次は新入りの世話という仕事が待っている。


めんどくさい。小屋に放り込んだ上司がそのままやればいいじゃないかと思いつつ、そうもいかないので溜息を吐いてそちらに向かう。

ちなみにまだ名前については決まっていない。何にするかなぁ、と何度目かの思考をめぐらせつつ、小屋の扉を開けた。途端、鋭い叫びが飛ぶ。


「来るな!」


小屋の隅に丸まるようにして縮こまり、鋭く叫ぶ黒髪黒目の青年。おー怖い怖いと茶化しつつ、シノノメは彼の前にしゃがむ。


「安心しな。もう怖いもんはいねぇよ」


ここは鯨神の神域だし、化け物もいない。鯨神もまぁ、おそらく牙を剥いてはこないだろう。

安心させるように肩をさすってやると、ようやく彼は警戒を少しだけ解いた。助かったのか、と疑心暗鬼の目を向けてくる。


「なぁ、あれはなんだったんだ? 俺は本当に助かったのか?」

「ま、その前に自己紹介でもしようや。俺はシノノメ。あんたは? ……覚えてないよな。当然だ」


名前を問われ、答えようとし、しかし回答が出てこず閉口する。そんな彼の様子にふっと微笑みつつ、記憶の剥落について簡単に説明してやる。緋砂姫の血を得たことで彼女の眷属となったことも含めて。

もはや自分は人ならざるもの。だから名前によって新しく存在を定義する。そう言い含めて理解させ、よし、と頷く。


「まぁ生まれ変わったってことで……あんた、好きな魚は? それを名前にしよう」


我らが一族は鯨神に付き従うことから、自らを魚群と例える。ならば魚の名前にしよう。

記憶が剥落しても好きな魚くらいは覚えているだろう。覚えてなかったらその時はその時だが。

シノノメが問えば、警戒しつつも彼はとりあえず答えた。


「……鮭」

「はぁ? 鮭? 鮭さんってツラじゃないな。せいぜい(このしろ)だ」


鮭なんて上等な魚に似合うような威厳は彼にない。小屋の隅に縮こまっていた姿からして、小魚がせいぜいだ。

よし、鮗からとってノシロにしよう。軽やかにそう言い、シノノメは彼を指した。お前、今日からノシロな。これにて名付けの儀式が終了したわけである。


「それで、だ」


お互いに名前を知り合ったところで話を戻そう。


「さっきも言ったが、ここは鯨神の神域だ。で、ここに住んでる俺たちは鯨神の魚群、つまり眷属だ」


正確には眷属の眷属。直接の『上』はナギサという少女だ。別名を緋砂姫という。

二度目の説明なので簡素に。しかし要点は押さえて。順を追った説明を聞き、最初は怯えていたノシロも少しずつ落ち着いていく。


「いやぁ、こうして理解してもらえると嬉しいね」


新人の世話役という都合、こういったことは何度もやってきた。素直に話を聞いてくれる奴もいれば、何度言っても警戒を解かずに威嚇する奴もいた。ノシロが前者であってくれてとても嬉しいし、何より楽だ。仕事は楽に限る。


「よし、お近づきのしるしに茶でも飲むか」


ノシロも落ち着いたようだし、説明も一区切り。とりあえず自分は無事であり、ここは安全だと理解したのなら安堵して喉も乾いてくるだろう。腹も減ったかもしれないが、あいにくこの小屋に食料はなさそうなので応えてやることはできない。


よいしょと立ち上がったシノノメは草履をつっかけて土間に降りる。土間というが固められた土ではなく板の床だが。

住まいとして使われる小屋の構造はどこも一緒だ。まず入口があり、その左か右かに簡素な台所がある。そして一段上がった板間があり、押し入れや行李といった収納、文机や食器などの最低限の家具や生活用品が揃っている。


「言い忘れていたがここはお前さんの家でな。中にあるもんは好きに使っていい。必要なものがあったら相談してくれ」


食事は厨小屋から配達される仕組みだ。出入り口の扉の横にある小窓から差し入れられる。

小屋の備え付けの台所でできるのは茶を淹れる程度。食材が管理されているので、厨から食材を持ち出して本格的な料理をすることは難しい。どうしてもというなら食材を分けてくれるだろうが、料理が趣味でもない限りはそこまでしてやる必要性はあまりない。


そこまで言い、シノノメは吊り下げ棚から湯呑みを取り出す。生活用品は一通り揃っているので湯呑みくらいはある。しかも来客用の予備まで。

いったい誰が生活用品一式を用意したのだろう。そもそも都合よく小屋が空いているのが不思議だ。そう思うだろうが、答えはひとつ。ここが神域だから。鯨神の力によって構築されている世界なのだから、鯨神がそうあれと思えば小屋などいつの間にかできてるし、生活用品だって揃う。


調子よく説明しつつ、シノノメが戸棚を開ける。数秒の沈黙。


「……すまん、白湯でいいか?」


鯨神は茶葉までは用意してくれなかったらしい。

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