次の祝祭まで、ごきげんよう
法螺貝にも似た音が響き渡る。これは、鯨神の咆哮だ。
「来るぞ、来るぞ! 祝祭が来るぞ!」
「いさなさまの力を貰って不老不死になるんだ!」
欲深い人間たちは色めき立つ。
前回の祝祭は86年も前。今か今かと待ち続け、ようやくやってきたのだ。この機会を逃すわけにはいかない。なんとしても不老不死になり、神の世界で永遠を生きるのだ。
祝祭の場、神の領域へとつながるという防砂林へと人々は殺到する。若人も老人も子供も、男も女も、悪人も善人も。
おかあさんどうしたの、と問う幼子に、いいから来なさい、と女が叱りつける。これは夫婦が末永くいられる祈願の儀式だと嘘をつく男が妻の手を引いていく。紗綾形の中に十字が組み込まれた家紋を身に着けた青年が迷いなく進んでいく。
我先にと走る壮年の男が腰骨が曲がった老爺を突き飛ばす。咳き込む少女がよろけながら、これで病弱な体とはおさらばだと歓喜の涙を浮かべる。永遠に若いままの姿を思い描く女が恍惚と笑う。
誰も彼も穢らわしい。祝祭の座で彼らを待ち受けながら、シノノメは心底そう思った。
防砂林を経て祝祭の座に入ってくる様子はここからでも感じ取ることができた。視覚や聴覚は経ていないはずなのに、まるで映像を見ているかのように把握できる。そのおかげで、穢らわしい人間どもの醜態がよくわかる。
前回の祝祭は地上では86年も前らしい。神域との時間の流れの違いを感じつつ肩を竦める。穢らわしい人間どもへの憎悪だとか、あぁして色めき立つ人間どもが裏切られて喰われる絶望の瞬間が楽しみだとか、自分もかつてはそうだったという自嘲だとか、色々なものを含めて。
「シノノメ。大丈夫ですか?」
シノノメの横に立つナギサが彼を見上げた。釣り餌になって初めての祝祭だ。今から、言葉にできないほど壮絶な目に遭うことになる。
その覚悟はできているのだろうか。怖いなら引き返したっていい。釣り餌はひとりでいいのだから、何度も経験している自分がその役を完遂しよう。
そう言うと、まさか、と軽妙な声が返ってきた。
「おいおい、覚悟を見せる機会を奪うなよ。姫さんこそ、神域に戻ったっていいんだぜ?」
釣り餌の役がひとりで十分だというなら、ナギサこそ引き返していいじゃないか。
言い返すが、ナギサの返事は苦笑だけだった。わかっている。鯨神はふたりとも釣り餌になることを望んでいる。片方だけ逃れるなど許さない。引き返そうものなら、上位者の権限で強制召喚だ。
そんなことわかっている。だが、そうわかっていても言いたい軽口だ。提案ではなく相手を思いやる感情の表現としての。
「ねぇ、シノノメ。髪紐、ちぎれたらごめんなさい」
端切れを編んだだけの簡素なものだ。どんなに思いが込められていようとも、壊れるのは簡単だろう。
きっと狂乱の中でちぎれてしまうだろう。そして遍羅の者たちはそれを回収してくれないだろう。
結った髪に手を添えて、申し訳無さそうに言う。添えた手に重ねるようにして手が添えられた。
「その時はまた作ってやるさ。次は何色がいい?」
好きな色で作ってやろう。飾り玉を編み込んでもいいかもしれない。
そんな会話を交わしながら、祝祭の時を待ち受ける。もうじき防砂林とここは接続され、穢らわしい人間どもが押し寄せてくるはずだ。そして欲深い人間どもの手によって、血肉をよこせと引き裂かれるのだ。
「あれはとても痛いから……気をつけてね」
「好いた女が独りで苦痛を受けるのを見るしかない痛みよりはマシさ」
一緒だ。だからどんなに痛くても苦しくはないだろう。
シノノメが手を握る。柔らかく握り返された。
やがて、欲深い人間が祝祭の座になだれ込んでくる。いつものように祝祭が始まる。
人間の叫びと足音が押し寄せる中、シノノメは隣の女を見た。ナギサもまた、静かに彼を見返す。
そうして――鯨神がすべてを丸呑みにした。




