東雲が呑まれて
よし、とシノノメは覚悟を決めた。しかしその覚悟を実行するには鯨神の力が必要になる。奴に会わなければ。
通常、眷属の眷属である一族の者たちが鯨神と直接相まみえることはできない。
鯨神に用があるならば、鯨神の直接眷属であるナギサへ申し出て橋渡ししてもらう必要がある。
だが、シノノメが今からやろうとしていることにナギサは巻き込めない。この決意を実行する前に、その中身を彼女に知られるわけにはいかなかった。ナギサに知られずに完遂しないといけない。
そのためには、彼女の中継を挟まず、鯨神に直接接触しないと。そしてその唯一の方法が存在することをシノノメは知っていた。
それを実行すべく、シノノメはどぼんと桟橋から海へと身を躍らせた。
ノシロと違って身投げではない。だが、この飛び込みに反応して、海に落ちた者を食うべく鯨神が現れるはずだ。それが唯一の抜け道、ナギサ抜きでの接触方法である。
シノノメの予想通り、すぐに鯨神が現れた。
最初は、真っ暗な海の底が迫ってきたと思った。しかしその暗闇の中に深淵の目を見つけ、その黒いものが暗闇ではなく鯨神の体だと気がついた。
巨大。あまりにも巨大。我らが一族の集落ごと丸呑みできそうなほどに。果てのない大海原でなければ収容できないほどの巨大な体躯。視界を埋め尽くすこの黒は鯨の体のいったいどこなのか。シノノメの身長をゆうに5倍は超える目がなければ頭部と認知できなかったろう。いや、本当にこれは目なのだろうかと、そう疑いたくなるほどの壁、もとい眼球だ。
音や光のない深海ですらこんな深淵ではないだろう。何よりも黒く、何よりも深く、何よりも大きく、果ても終わりもない深淵の中に憎悪の色だけが輝いている。
これが、鯨神。我らが一族の頂点に立つ、人間を憎悪する大鯨。不老不死に釣られた欲深く穢らわしい人間に罰を与え、永遠の苦痛を強いるもの。人間ごときでは及ばない『おおきなもの』。
海溝のように深い口を開いた鯨神は、しかしシノノメが自死を選んで飛び込んだわけではないと悟ってその口を閉じた。
なんだ、餌じゃないのか。そんな失望が一瞬浮かび、しかしそれが逆に興味を引いたらしい。飛び込んだのは餌になるためでないのなら何なのだ、と。人間の眷属ごときが何の目的があって飛び込み、我を誘い出したのだと。
「何用か」
水中なのでその発話は声ではない。シノノメの頭に直接声を投げ込んでくる。シノノメがこれはなんだと戸惑いを浮かべれば、念話の一種だと答えを添えるおまけつきで。
重厚な声だ。深海の水圧よりも重く、誰何のたった一言でも潰れそうなほど。この世すべての海水を集め、針の先の一点に集中させたかのような圧力を感じる。
だが、圧に屈してなどいられない。わざわざ飛び込んだ本懐を遂げないと。
「……頼みがある」
どうやら魔法だとかそういったものの一種なのだろう。念じれば鯨神が読み取ってくれるようだ。
そう理解し、前置きもそこそこに本題を切り出す。要求は非常に短く、簡潔に。
少しでも鯨神の機嫌を損ねれば丸呑みにされてしまうだろう。奴はただでさえ人間を憎悪しているのだ。こうして話を聞いてもらえるだけでも奇跡のようなもの。
わざわざ自死の真似までして誘い出すほどの用事とはなんだと気まぐれに興味を持ったから聞いているだけだ。その興味が失せれば殺されるか、あるいは無視されるか。
鯨神の眷属の眷属だからか、常人と違って水中でも息は長く続く。だがずっと続くわけでもない。
息が続かなくなるか、鯨神の興味が失せるか。その前に要求を通さないと。
願う気持ちで要求を告げ、その回答を待つ。鯨神の目は愉悦をたたえていた。
「いいだろう」
人間ごときが面白いことを言う。そう言いたげだった。
穢らわしい人間ごときの頼みを聞く不快さよりも、その話に乗る楽しみが勝ったらしい。ほっとするシノノメの前で、鯨神が身を揺らす。鯨神にとってはわずかな身動きだが、体躯が違いすぎるシノノメにとっては天変地異が起きたも同然。余波で押し流されないように目の前の壁にしがみつく。
胸か腹か、おそらくそんなような場所だ。拍動もなく呼吸もなく、上下しない肉には無惨な切り傷の痕があった。原罪の時、かつて人間に捕らえられて切り刻まれた痕だろう。
「せいぜい楽しませてみろ」
「上等だ」




