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進退を決めた小魚

シノノメの意識が戻ったのはそれからしばらくしてのこと。


「あー……」


どうやらいつの間にか気を失っていたらしい。

怒涛のように押し寄せる精神的な動揺により意識を落とすことがあるのだと初めて知った。あまり知りたくはなかったが。

まだぼんやりする意識で身体を動かす。床の吐瀉物を片付けて、重い気分のまま水を口にする。口の中の苦みをゆすいでから外へ。誰でもいいから話して気晴らしがしたかった。

さて誰に絡むか。こういう時の宛にはキンカが一番なのだが、遠くから様子を見るにどうやら手が離せないようだ。じゃぁ仕方ない、と特に宛もなく適当に散歩することにした。誰か暇そうな奴がいたらそいつに絡むとしよう。誰であっても、部屋でひとりいるよりはましだ。


集落の中央の小屋からは潮の香りが強く漂っている。その中にいる少女の姿を思い、また自己嫌悪で吐きそうになる。行きたいと思う衝動と、どの面下げて行くのだという自罰感情と、そうして板挟みになる自分のことをせせら笑う己と。

誰でもいいから話したいという割に、その対象にナギサを選ばない。選ぼうとしない臆病な愚者め。どの面下げて行くんだという言葉で自分を正当化している卑怯者。守っているのは自分の心だけ。自分可愛さの身勝手な罪人め。こうして責めて可哀想な自分に酔って、また己を守ろうとする。そうやって自分を殴りつけて罰された気になっている。本当にするべきことを疎かにして。


桟橋から見下ろした海面に映る自分の顔は真っ青で、見るからに具合が悪そうな顔色だ。半端とはいえ不老不死、病には無縁のはずだが体調が悪くなることはあるらしい。そこまで心労が募っているのか、こんなことで。こんなことだから。

自嘲しながら散歩を続ける。ふと、あるものが視界に止まった。


「…………うん?」


ノシロだ。集落から少し離れた桟橋の上にぽつんと立っている。

仕事ではないだろう。ノシロの仕事内容の詳細を把握しているわけではないが、あんな集落の端っこに用事があるような作業ではないはず。それに仕事道具らしきものを何も持っていない。

散歩ついでに風景でも眺めているのか。いや、代わり映えのしない風景など眺めていても仕方ないだろう。どこを見ても果てのない大海原だ。空に雲はなく、また太陽も月も星もない。風も吹かなければ波がうねることもない。こんなもの眺めたってつまらないだろう。


「ノシロ? 何してるんだ?」


海面を見つめての考え事が一番妥当だろうか。さて、この頃くらいの新参者が思い悩む内容は、と世話役の経験から推測しながらノシロのほうへと歩いていく。

声をかけても彼はこちらを振り返らなかった。桟橋の先端に立ち、海に向かい合ったままだ。


「ノシロ?」

「……俺、決めました」


シノノメの呼びかけに応じず、不意にノシロが口を開く。何かの決意を秘めた声だった。

その声音は前向きさを含んでいない。ひとつの可能性をシノノメが浮かべる前に、ノシロは次の言葉を紡ぐ。


「どうしても考えてしまうんです、色々なことを」


罪のこと、自分の立場、身食いしなければ維持できない生命、したところで待っている末路。

どれだけ仕事に打ち込んでいても、いつしか思考はそちらに寄ってしまう。目を逸らそうとしても視界に飛び込んできてしまう。

もう逃げられないのだと、ずっと首筋に刃物を当てられているかのような感覚がする。どんなに楽しいことを演出しようとしても、後ろめたさがすぐに心に入り込んできてしまう。せっかく無理にでもあげた笑いは引っ込み、乾いた笑いすら出なくなって俯いてしまう。


「シノノメさん、言ってましたよね?」


そうして煩悶するたびに思い出す。シノノメがいつも言っていたことを。

言ったろ、と説明の締めに口にする言葉を。嫌なら身投げしろ、と。耐えられないならそのへんの桟橋から飛び込めと。そうすれば鯨神が喰ってくれて、その生命を終えることができると。


「じゃぁ、します。ここで生きていくことは、俺には無理でした」


どぼん。


そう言って、ノシロは桟橋から海へと飛び込んだ。すぐに暗い影が海中に見え、それきり、海面に浮かぶ泡が途切れた。


「…………」


嘘だろ、とも。冗談だろ、とも。

シノノメは何も言えず、その様子を、ただ呆然と見ていた。


呆然としてしまったのはその身投げについてではない。

絶望して身投げする新入りというのは今更見慣れている。シノノメが過去に世話した新入りの何割かはそういう末路を選んだ。

だから今更それには驚かない。あぁまたか、と思うくらいだ。さらに付け足すことがあるとすれば、いずれ瓶覗になった時に討つ手間が減ったなと考える程度。

馴染んだ者の死に思うことはなくもないが、必要以上に悲しいと思うこともない。これまでの何百年の間に何度も見たものだ。


立ち尽くしてしまったのは、ノシロを羨ましいと思ってしまったからだ。

ノシロはきちんと自分なりに考えて結論を出し、実行した。たとえそれが自らの幕引きでもだ。

決断して実行してみせた。それを目の当たりにして意識を奪われてしまった。そうして自己決定できるのが羨ましいとすら思うほどに。


対する自分はどうなのだ。

顔を上げず何も言えず手を伸ばさず、そしてその結果生まれた苦痛も直視できず、半端なままだ。

この状況に自己嫌悪し、自らを罵倒し、己を殴りつけてはその悲劇性に酔って正当化してばかりの。

そうやって自分が半端だからあの悲しみは生まれたというのに。


それでいいのか。いいわけがあるまい。

ノシロは選んだ。たかが鮗のように頼りない若造だって自らの道を決めたのだ。何百年も生きた自分が半端なままでいていいわけがない。


「…………よし」


ノシロの決意に背中を押され、覚悟を決めた。

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