海に堕ちた水魚
しばらく、やいのやいのと騒ぐ2人を眺めていたナギサだったが、不意に顔を上げる。
とて、とて、と桟橋の木の板を裸足で踏みながら、シイラとモロコが歩いてくる。お互いを支えるように寄り添い、まるで二人三脚のように。
寄り添いながら歩いてくる2人はナギサに用があるのだろう。騒ぐシノノメとノシロに構わず、ナギサに向かって真っ直ぐ歩みを進める。
「……ふたりとも、どうかしました?」
「だめだ、姫さん」
用事を問うナギサの前にシノノメが一歩出る。少しずつ近寄ってくる2人とナギサの間に割り込むように立った。
「あれは、もうだめだ」
シイラとモロコ、熱愛夫婦の足元はおぼつかない。表情はなく、虚ろに目が濁っている。
あれはナギサに近付けてはならない。さり気なく背中に庇い、シノノメは緊張感を滲ませて呟く。
「……色褪せてる」
あの2人はもうだめだ。手遅れだ。瓶覗の化け物になりかけている。
シノノメがそう言い、ナギサが息を呑む。ノシロが驚愕と動揺で目を見開くと同時、ばき、と2人のどちらかから人体からしてはならない異音がした。
ばき、めき。まるで蝉の羽化のように背中が割れるようにして巨大な藤壷が生える。びちゃり、と血液ではない液体が滴る。
歩くというよりは、前傾姿勢になっているせいで前に倒れそうになるのを咄嗟に足を突き出して支えているような動きだ。左足、右足、やがて足ではない足の形をしたものが桟橋の木の板を踏みしめる。
「最期に来たのは本能か」
おそらく最期にナギサの元に来たのは眷属としての本能だろう。あるいは罪人の欲深さか。
救済を求め、血肉を啜ろうとしにきたに違いない。遍羅の際に瓶覗がたまにそういう動きをするのでよく知っている。
だがやらせない。庇うようにナギサを引っ張り左腕だけで抱く。さり気なく目を手のひらで覆ってやり、ナギサの視界を塞ぐ。
これ以上の変異を見せないようにして、シノノメは右手を振りかぶった。海草を叩くための棒で思いっきりモロコだったものの頭部を叩く。返す手でシイラだった瓶覗の頭も。人間外れた膂力に物を言わせ、ぐちゃ、びちゃ、と潰し、頭部を失ってよろめいたところで胴を打って桟橋から叩き落とす。珊瑚のように変質した足は簡単に折れ、そのまま、どぼんと海へと沈む。
水底に影が揺らぐ。それきり、静寂。
「いさなさまが」
「あぁ、喰ってくれたな」
よし、もう大丈夫。鯨神が喰ったのならもうあがってこないだろう。
乱暴にして悪かったな、とナギサを解放する。大丈夫です、と答えたナギサは硬い面持ちで海面を見つめていた。
「……ふたりとも、もうだめだったんですね」
「みたいだな」
哀れなものだ。いや、ある意味幸福だったか。あの2人はもう罪業に苦しむことはないのだから。虚しい恋人ごっこをする必要もなくなった。
淡々と頷くシノノメと、黙祷のように海面を見つめるナギサと。その傍らで、ノシロは愕然としていた。
「……シノノメさん……」
「ん? あぁ。気にするな。俺の仕事だ」
あれも遍羅の仕事だ。ノシロの出番ではない。
急な事態にノシロが対応できなかったのは仕方ない。咄嗟に体が動くものでもないだろう。
気にするなとシノノメが首を振る。ノシロが気にするべきはこの瓶覗をぶん殴った棒が折れたり曲がったりしていないかくらいだ。
「そうじゃなくて! ……今のは何だったんですか?」
「言ったろ。劣化だ」
色褪せる。眷属から劣化して瓶覗になる。
すでにそのことについては説明したはずだ。平然と答えるシノノメに、でも、とノシロが言い縋る。
「でも、でも……あの2人は、ちゃんと食べてたじゃないですか」
劣化は緋岩肉を食べないことで引き起こされるというのは聞いた。そうならないために身食いせねばならないのだと。
だが、あの2人はそうではないはずだ。2人で、あーんと食べさせ合っているのを見たばかり。あの粥にも緋岩肉は入っていたはず。
だったらきちんとナギサの力を摂取したはずだ。なら、劣化なんてしないはず。瓶覗の化け物になるのはおかしい。
「あぁ、そうだな」
必死に言い募るノシロに頷く。このことをナギサの前で言うのは心苦しいなと思っていると、説明役を引き受けるようにナギサがノシロに向き直った。
「……食べても、なるんです」
緋岩肉を食べないと劣化して瓶覗の化け物になる。そして、摂取量がある程度を超えると、やはり劣化する。
器に水があふれるように、限界を越えて変異してしまう。鯨神の力に耐性があったことで眷属となった我らだが、たとえ耐性があっても重ね続ければ侵食される。潮の満ち引きによって岩が削れてなくなってしまうように。
「……そんな……」
食べないと瓶覗になる。だが、食べても瓶覗になる。じゃぁ、どう向かっても結末は変わらないじゃないか。
早いか遅いかだ。『いつ』が違うだけ。過程と時間が違うだけで末路は同じ。その時が来るまで、この神域で暮らし続けるのだ。
まるでそれは収穫時を待つかのように。この安穏とした地獄で飼育され続けている。
「だから言ったろ。俺たちは罪人なんだって」
シノノメが何度目かわからない言葉を吐いた。




