そして思い出して思い知らされる
そんな和やかなやり取りをしてから自分の住まいに戻る。扉の横の小窓から食事が差し入れられていた。
小さな膳には丼ひとつ。丼には粥のようなものが盛られていた。米ではない。だが米に似た何かだ。しかし見た目も食感も米と変わりないので、とりあえず米と呼んでいる。
粥を炊いただけ。副菜も何も無い。手抜きしやがったなと思いつつ、膳を持って板間にあがる。
座布団にどっかりと座って匙で掬って食べ始めつつ、シノノメは自身の感情について整理することにした。
眷属である以上、敵対しないよう一定の好感度を強制的に刷り込まれている。ナギサにも、一族の者同士でも。
仲間割れしないようにという措置だ。どんなに性格が合わなくても嫌いあわない。『苦手意識はあるが、業務上どうしても会話しなければならないのなら仕方なく耐えられる』という程度に調整される。殴り合いの喧嘩になったとしても恨みの気持ちは尾を引かない。引き合いに出す時はあってもそれは冗談や軽口の範疇。恨みをもって蒸し返すことはしない。
そういうふうに『なって』いる。
何もかも、仕立てられているのだ。
祝祭の狂乱はナギサによって仕向けられたもの。眷属同士が敵意を持たないのは鯨神によって調整されたもの。
この安穏とした神域は鯨神が用意した環境で、共同体を維持するだけの最低限しかないゆえに罪の意識が浮かんで嫌な気分になりがちなのもそう。
生け簀に囲われた魚と変わらない。自分たちは養殖されている。罪の意識に耐えられず身投げした時が収穫時の哀れな魚だ。
だが。
贈った髪紐をいそいそと結いつけたナギサの笑顔を見た時に感じた『可愛い』という思い。ナギサとのささやかな贈り物のやりとりを楽しいと思う気持ち。ナギサの笑顔がもっと見たいという欲。
あれらは調整され、仕組まれたものゆえに感じたものではないだろう。確かにナギサへの好感度は一定以上存在するように調整されている。皆がナギサを妹や娘のように扱うのがそれだ。だが自分の心にあるそれはその調整の範疇とはまた違う。
ということは、この胸の感情は自分自身のものなのだろうか。そうなのだろう。別に自由意志を持つことは制限されていないのだし。
で、あるなら。この胸の感情はなんだろう、と、思いを馳せるまでもなく感情の分類は終わっている。
恋慕だ。男が惚れた女に抱く感情と同義。そのくらいの恋愛経験くらい眷属になる前に経験している。
じゃぁつまり自分はナギサに惚れているのか。うん、まぁ、そういうことになるのだろう。少なくとも、あの孤独を知った以上、放っておけないとは思うし寄り添ってやりたいとは思う。そこは間違いない。それを惚れているのかと言われると、まだそこまで育ってないと返すしかないが。
そんなことをぐるぐると考えながら粥を掬って口に入れる。ぶよぶよとした肉の食感がして、思考が現実に引き戻される。
「…………あぁ」
この舌触りの肉が『誰』のものかを思い出す。変質してる、もう人肉じゃないと言われても感覚的には『そう』だ。
思い出した。自分は罪人なのだ。裂いて喰い、身食いによって体を維持する罪深い罪人。たとえ理性が緩められ、そうなるよう仕向けられようとも、実際にその引き金を引いたのは自分。ならこれは自分自身の罪業なのだ。
「……そうだ。そうだったな」
口の中の肉の食感と味に自分の立場を思い知らされた。そうだ、自分は罪人だ。
ナギサを欲しいと思うのは男の欲じゃなく、眷属の本能だ。肉体を維持するのに必要な緋岩肉、ひいてはナギサの魔力だか霊力だかを欲するから、彼女を手に入れたいと思うのだ。
成程、それじゃ惚れたという段階にいかないのもわかる。孤独に寄り添ってやりたいと思うのはどの面下げての同情。贈り物のやりとりを楽しいと思うのは課題に挑戦するやりがいの錯誤。惚れた女に抱く恋慕などではないのだ、これは。
あの時、卑しくも何度も列に並び直した時と同じ動機だ。皆に平均的に分け与える量よりも、自分にだけはひとつ多く欲しいという欲深さ。強欲な罪人の過ぎた貪欲。
そう感情を分類して、あっという間に心が冷めていく。浮かれていた心は奈落に突き落とされて底に叩きつけられる。
はん、とシノノメは自嘲を漏らす。まったく、自分は何を夢見ていたのだろう。
馬鹿な思いはやめよう。一時の気の迷いだ。これを恋慕と錯覚して追いかけるなどしてはならない。夢や恋慕に縋るな。
――そうでなければ、きっと、今以上に痛い目を見る。




