海の残り香
右往左往できるって素晴らしい。皮肉でなく、心底そう思った。
もはや自分にはできなくなったことだ。羨ましい。あんなふうに、与えられた情報に狼狽していたのはいつだったか。いつしか、軽薄な笑顔を貼り付けて、のらりくらりとやり過ごすことに慣れてしまった。
軽妙なふりばかりが上手くなっていく。は、と自嘲と共に息を吐き出す。桟橋の欄干から覗き込んだ海面には、普段の軽さなど影もない冴えない顔が映っていた。伸びるままに、長めの前髪と襟足。整えれば端正なのだろうが頓着しないせいで並程度に見える顔つき。『昔』つまり我らが一族になる前は茶寄りだった髪は一族内の階級が上がるにつれて黒くなり、今ではまるで海の水底のような色をしている。その変化は毛先になるほど顕著で、長い襟足は染めてもいないのに紺色だ。
「……はん」
軽妙さを装う殻を剥がした素の顔はこんなもの。お前の本来の価値はこうだと突きつけられているようで鬱屈する。
あぁわかってるさ。誰にとも言わず海面に向けて呟く。シノノメの呟きは、海底に揺らぐ黒い影しか聞いていなかった。
「……あ。コガイの旦那」
留紺の着流しをまとった壮年の男性が向こうの桟橋に立っている。仕事ではない。彼の役目はシノノメと同じく遍羅で、そしてシノノメと違って新入りの世話はしない。遍羅だけだ。そして遍羅仕事が終わった今、シノノメ同様に神域に引き上げたばかりだ。
大硨磲貝から名前を取ったという彼は桟橋の先端に立ち、そして。
どぼん。
そして身投げのように飛び込んだ。ぶくぶくと泡が水面を波立たせる。それが止まり、しばしの沈黙。それから静寂を破るように水面が跳ね、もがくようにコガイが海面から顔を出す。大きく息を吸い、海水を掻き分けて、泳ぐというよりは足掻くといった風情で桟橋の足場を掴んで引き上がる。げほっと咳き込み、飲み込んだ海水を吐き出してうずくまり、息を整えてから立ち上がる。
シノノメが見ていることも気付いていただろうに視線を合わせず、何事もなかったかのように立ち去っていく。
あれは、コガイにとっての心の防衛に必要なことだという。シノノメが軽薄な笑顔でやり過ごすことで適応したように、彼もまたあの飛び込み行為で心を保つ。遍羅のあと、彼はいつもあぁしている。
まるで身投げのようにと言ったが、実質身投げだ。身投げし、最後の最後に覚醒した生存本能で海上に上がる。その生存本能の足掻きでもって、ようやく生の実感を得る。追い詰められた末の生存本能の爆発でなければ、彼はもう何も感じることができないのだ。
逆に言えば、その最後の最後の生存本能さえ働かなければ『もうだめ』ということ。死の予行練習は実践になってしまう。そうして生存本能さえ働かないほどの希死念慮に呑まれた瞬間、鯨神が喰らって引導を渡す。
引導を渡すというが慈悲ではない。怒りのままに食いちぎられ、憤怒に滾る胃の中で消化される。鯨神に生物と同じような内臓はないらしいが、比喩的にはそうだ。罪人は最期に鯨神に取り込まれることでようやく罪業の荷を下ろせる。食いちぎるという行為で罰を与えられ、その時ようやく『赦される』のだ。
自分たちはそうやって自分の終焉と引き換えに鯨神から赦されることができる。だが、ひとり、そうしても赦されない娘がいる。原罪などと背負わされ、永遠の責め苦を生きる少女が。その彼女は今、自分の住まいである小屋の中で体の再生を待っている。
引きちぎられた四肢を再生するのは不老不死でもそう簡単ではない。しばらく時間がかかる。だから治るまで安置される。安置といっても、ただ小屋に放り込んで放っておくだけだが。
「……あぁ、くそっ」
そこまで思考が泳いで、先程震えていた感触を思い出す。再生に伴う痙攣だと解釈して忘れ去ろうとしていたことが去来する。
深入りしたっていいことはない。わかっているが、どうしても気になってしまう。気になったら後先構わず首を突っ込んでしまうのは自分の悪い癖だが、今まさにその『悪い』状態だ。突っ込んだってろくなことにはならないと学習しているのに好奇心が逆らえない。
しばらく理性と好奇心の間で懊悩し、やがて本能に負けたように、足をナギサの小屋へ向けた。
時間的に再生はほぼ終わっただろう。引きちぎられた四肢は戻り、ヒトの輪郭は形作られたはず。内部の細かい部分を取りかかっている最中といったところか。それなら話くらいはできるだろう。
一言声をかけて、あの震えの理由を聞くだけ。それだけだ。それ以上は踏み込まない。踏み込んだら痛い目を見るに決まっている。自分に言い聞かせながら桟橋を歩く。
ナギサの小屋に近付くほどに潮の匂いが強くなる。鯨神の力が及ぶ時、譲渡された力の片鱗を行使する際にはこうして潮の匂いがする。
この神域は果てのない大海原で、周囲は海。潮の匂いなどとっくに慣れたはずなのに、こうして力が作用する時だけは鼻につく。鯨神の魔力だか霊力だかを潮の匂いとして感知しているせいだろう。
「姫さん、入るぜ」
一言声をかけてから、そっと扉を開けた。




