緋色の岩の肉
どんな風に思おうとも仕事はやらねばならぬし、やる以上はこうしなければならないのだ。
はぁ、と重苦しい息を吐き、後始末を終えたシノノメは神域に帰還する。
ナギサだったものの肉片が詰まった魚籠を担当者に引き渡し、銛を片付けるべく自分の小屋へと戻っていく。
ナギサ予定のものが入った駕籠がナギサの住まいに到着するのを遠くで見ながら、木製の渡り廊下を歩く。ぺたり、ぺたりとやる気のない草履の音と波の音だけがする。おかげで考えが先程の震えに向かってしまう。いいやあれは再生に伴う痙攣だと思い込もうとし、いやでも、と直感が否を告げる。
その思考を破ったのは、どたばたと走る乱暴な足音だった。見れば、顔が真っ青なノシロがこちらに走ってくる。
何か決定的なものを見て驚愕と混乱に包まれたところ、シノノメの顔を見て縋るように飛びついてくるところなのだろう。
新入りがこうなる時はだいたいこうだ。世話役の経験でその動揺に見当をつけながら、ノシロに軽く手を挙げた。
「よっ。どうした?」
気軽に声をかける。が、ノシロの表情は一切和らがなかった。いやむしろ、シノノメがいつも通りであるからこそさらに揺らいでいるようだった。
これは相当な動揺があるようだ。そして経験から、その動揺の正体も目星がついていた。
「厨小屋で何か見たかい?」
試しに聞いてみれば、びくりとノシロの全身が跳ねた。
成程、やっぱりそうか。新入りがこの時期に行き当たる衝撃の事態とはだいたいあれだ。予想通りでいっそ面白いなと内心で思いつつ、ノシロの次の言葉を待つ。
「お、俺……見たんです……厨で、ヒトの手を切って……女の子の白い腕が……切り刻まれて、鍋に……」
いつも食べているこの不味くてぶよぶよした肉はなんだろう、と思って。
厨小屋では交代制で常に食事が作られ続けており、できたそばから配膳当番が一族の者たちに配る仕組みになっている。いったいどんな食材を使っているのだろうと好奇心が背中を押し、厨小屋を覗いた。
そこで見たものは衝撃的だった。どう見ても人体の部位としか思えない肉を切り、鍋に入れていたのだ。まったく平然とした顔で。
「まさか……『あれ』を食べてたんですか、俺たちは、ずっと」
「そうだよ。俺たちは『あれ』を食べてる」
混乱するノシロへ、至極当然のように回答する。ノシロの顔色がより蒼白になった。
『あれ』とは緋岩肉。
我らが一族の中で緋といえば緋砂姫、つまりその正体はナギサの肉である。砂が岩に変わるのと同様、元の形から大きく乖離したものであるが、あれは間違いなくそうだ。ちなみに名付けについては、彼岸ともかけている。
「遍羅が回収してる姫さんの肉片……あれの行き先が『あれ』さ」
シノノメたち遍羅の者が祝祭の後始末の際に回収している『ナギサ本体でない肉片』は、回り回って一族の者の食事になるのだ。
あっさりと肯定してみると、ノシロは今にも気絶しそうなほどに動揺していた。まぁそうだろう。食人行為だと解釈するのが当然出し、そう解釈したら誰でもそうなる。
だが、あれはそうではない。その仕組みを知ればそれが食人行為とは程遠いと理解するだろう。残念ながら、忌々しさについては食人行為と大して変わらないが。
「落ち着け。見た目も味も人肉とは程遠いんだぜ、緋岩肉は」
並べて比較してみると、緋岩肉と人肉は違う。違うからこそ緋岩肉なんて名前がつけられて差別化されているのだ。
確かに切り裂かれた直後は当然、人肉そのものだ。だが、時間が経つと変質する。人肉の部分が喪失され、ナギサの力だけが形として残る。
「力……?」
「魔力とか霊力とか、まぁそういった言葉の類だ」
瓶覗に変異させるのも不老不死をもたらすのも、それの干渉によるものだ。魔力だか霊力だか、そういったものが作用して体を変化させるから、脆弱な人間が化け物になったり不老不死になったりする。
話が逸れた。元に戻そう。つまりそうしてナギサの肉片に宿っていた魔力だか霊力だかのみが残って固体化したものが緋岩肉の正体だ。
仕組みでいえば、海水を干上がらせて塩を採るのと変わらない。海水が肉片であるというだけで。
だから緋岩肉は人肉とは程遠い。だから『食人』にはならない。
とはいえ精神的な抵抗があるのはわかる。変質しようとそれはナギサだったものであることは変わらないのだから。
「あ、あんなもの食べたくない!」
「つってもなぁ。食べないともたないんだよ」
仕方ないのだ、これは。一度、底を覗いて底に引き込まれた者ゆえに。
自分たちは中途半端で不完全でも不老不死だから、本来食事は不要だ。だがあれだけは食べなければならない。
食べなければ身体を維持できない。ナギサの魔力だか霊力だかによって、自分たちは彼女の眷属として在れる。
「た、食べなかったらどうなるんですか?」
「あぁ、劣化して死ぬ」
びくびく震えるノシロの問いに、少しうんざりしながら答える。
新入りの世話役として説明せねばならないことだから仕方ないとはいえ、事実を自分の口で言うことで再確認させないでほしい。毎度嫌になる。
「劣化って……?」
「色褪せる、っていうと詩的だが、まぁ、簡単に言うと瓶覗になる」
水浅葱から留紺まで、藍色に染まりゆく我らだが、それが劣化して色褪せる。水浅葱よりも薄い藍、つまり瓶覗色へ。
あぁならないためにナギサの魔力だか霊力だかを取り込む必要がある。それによって『瓶覗落ち』を防ぐのだ。
つまり、死なないためにまた罪を犯さねばならない。彼女の血肉を取り込まないといけない。
しかしナギサが一人ひとり順番に回って血を与えていくには一族の人数が多すぎる。
先頭に対応している間に最後尾が色褪せ、瓶覗の化け物になってしまう。だから効率良く行き渡らせるために取った手段がこれだ。遍羅の時に回収した肉を食材に混ぜるのだ。
いつかの祝祭で欲深い自分がそうしたように。かつて自分が行った罪を噛み締めながらあのぶよぶよの肉を咀嚼するのだ。
「そういうもんだって諦めな。できなきゃ、今すぐ入水すればいい。鯨神が食ってくれる」
俺達は罪人で、身食いしなければならないもの。そういうものだと受け入れるしかない。
これをおぞましいと思うなら、早いうちにこの海に身を投げた方が良い。いつか心身が耐えられなくなって発狂する前に。
「し……シノノメさんはそれでいいんですか?」
「いいも何も、それ以外ないんだよ」
言わせるな。うんざり自嘲しながら肩を竦める。いいも何も、そうしなければならないのだから受け入れるしかない。罪人に選択権なんてないのだ。
顔面は蒼白、呆然としたままのノシロへ、一言。
「右往左往できるって羨ましいねぇ」
もう自分にはできなくなったことだ。




