布を裂くように
まるで洗濯物のように、海草を広げて干していく。
干し場は海畑の横に組まれた足場の上に作られている。広々とした木組みの足場には干すための竿がかけられ、そこに海草をかけて乾燥させる。乾燥させれば絹とも麻ともつかぬ布の完成だ。これを干し場の隣の機織り小屋に運び、そちらで服に縫製する。
一連の作業に必要なものは神域から供給される。竹に似た竿に、鉄のような金属製の鋏と針。海布と似たような、しかし布海ではない糸。その他諸々。必要だと思った瞬間にいつの間にか机の上に出現していたり、あるいは自分たちで作ったりする。
「いい布ができるといいですね」
地上ならば、季節や天候で干した後の布の風合いは変わるだろう。だがここは何の変化もない神域。常に一定の温度と湿度は常に一定の乾燥になり、常に一定の風合いになる。
だからナギサのこの言葉もただの社交辞令以上の意味を持たない。だがそれを言ってしまっては台無しだ。結果はわかっていても言いたい言葉というのはある。
「もしダメだったら言ってください。私がいさなさまに言うので……」
神域の環境は鯨神次第。もし布の出来に難があった時は、鯨神の直接眷属である自分が鯨神に文句を言おう。
そう言うと、海草干しを手伝っていたキンカは目を見開くほど驚いた。
「いやいや! 恐れ多いって!」
鯨神に文句を言うなど恐れ多い。お前たちは罪人、文句を言える立場かと叩き返されるだけだろう。
それに、出来が悪くなるなんてことはないだろう。良くも悪くも、この神域は変化がないのだから。それはナギサもわかっている。だからこれも、結果はわかっていても言いたい言葉のひとつだ。
多少のわざとらしさはあれど、井戸端会議のような和やかな空気が確かにそこにはあった。
だが、その空気は次の瞬間、打ち破られる。
不意に、法螺貝を吹いたかのような大きな音が響いた。
果てのない神域の隅々まで響き渡るような低い音だ。法螺貝に似たそれは間違いなく、鯨神の咆哮である。
「いさなさまが……」
鯨神が吠えている。その咆哮は眷属であるナギサを呼ぶものだ。つまり、食事の時間であり、祝祭の時間。
和やかな空気は一転、緊張に包まれる。干し場も畑も、機織り小屋もどこもかしこも、糸のように空気が張り詰めている。
「……準備しなければなりませんね」
硬い面持ちでナギサが立ち上がった。この呼び出しを拒否することはできない。抵抗したところで、上位者の権限で強制召喚される。
今の咆哮は地上にも祝祭を告げる予兆として響き渡っただろう。つまり人々はあの咆哮を聞いて色めき立ち、集まってくるのだ。我らが一族がかつてそうだったように。
不老不死の祝祭。引き裂いた欲深き罪。鯨神の怒り。
いっとき忘れていたものを目の前に突きつけられ、重苦しい沈黙が空気を満たしていく。
気まずそうにナギサから目を逸らす者、うつむく者、海草採りの続きと言って海に潜る者、逃げるように手元の作業を再開する者。逆に、目が逸らせず見つめるしかない者。それぞれの反応を示す皆に何とも言えない顔をしながら、ナギサは手に持っていた海布を竿にかけてから踵を返す。
あとはお願いしますね、と言い残し、集落の中心にある自分の住まいへと向かっていく。
人々はただ、それを見送るしかない。重苦しい沈黙と波音に満ちた空気を破ったのはシノノメだった。
「やだねぇ。気に病むなよ、今更だろ」
今更じゃないか。祝祭だってこれが初めてじゃない。何十回、何百回、何千、何万、何億、何兆、それ以上の桁は学のないシノノメにはわからないが、まぁ無数にやってきたはずだ。昼夜がなく日付の概念がないのであれだが、この咆哮だって、主観的な日付感覚でいうと数日前には聞いたはず。
それなのに今更動揺することじゃない。いちいち暗くならなくたっていいじゃないか。
「それより俺たちを気にしてくれよ。遍羅の連中はこれから死体やら何やら見るんだぞ」
後片付けのため祝祭の場に入り、そこで瓶覗になった元人間やらナギサだったものを見ることになるのだ。
そんな遍羅の者たちのことも気にかけてほしい。
はぁ、やれやれ。心底うんざりした溜息をついたシノノメが畑を離れる。
その背中に、どこに行くんだ、とノシロが問いかけた。
「言った通りさ。後片付け係だからな」
遍羅の仕事には道具の準備やら色々あるのさ。
適当な軽口を言いながら、ひらり、とシノノメが手を振った。
***
干し場を離れ、自分の小屋へと向かう。
遠くには祝祭の場に続く長い長い渡り廊下が見える。長い廊下は蜃気楼に紛れ、終わりが見えない。
あの長い渡り廊下が現れるのもまた祝祭の予告だ。祝祭がある時のみあの廊下は現れる。釣り餌を通すために。
「よっ、姫さん」
偶然、そこを歩く背中を見つけた。狙ったわけでもなく、本当にシノノメにとっては偶然だった。だからナギサも驚いたのだろう。鯨神の巫女らしい厳かな衣装を着たナギサは目を見開いた。
「行ってきな。姫さんの残骸は回収してやるからさ」
気軽にそう言う。言うしかなかった。軽い調子で言うことで、大したことないと一瞬でも思わせて気を楽にさせることしかできなかったので。
シノノメの不器用な気遣いを理解したのだろう。ナギサも何とも言えない表情ながら頷いた。
「ありがとう。行ってきます」
潮の匂いがする彼女はそう頷き、祝祭の場につながる長い渡り廊下へと歩みを進める。シノノメが道を譲り、すれ違う。その刹那。
「……次は優しい人たちがいいな」
小さく小さく、呟いた。シノノメが何かを言うより先に蜃気楼の向こうへと消えていく。そして見えなくなった。
波の音をたっぷり5回聞いて、ようやくシノノメは笑いとも嘆息ともつかない息を吐いた。
「…………は。まさか、冗談だろ?」
呟きの内容を理解して、まさかと思う。まさか、祝祭に集まる欲深い人間どもの慈悲を期待しているのか。
そんなまさか。ありえない。そうだろう。きっとこちらの軽口に合わせ、らしくもない冗談を無理に言って滑っただけだ。
まさか切実な祈りのはずがない。そんなもの、時間の流れの中で褪せて失せたに決まってる。
「祈りであってたまるか」
だって祈りであるなら、それは、痛みを痛みとして感じてしまう者の台詞だ。




