不老不死の緋砂姫
「緋砂姫の血肉を食べると、不老不死になるらしい」
この地には巨大な鯨の神がいて、その眷属である少女の血肉を喰らえば不老不死になれるという伝説がある。
人々はそれを求めて集まり、緋砂姫よりその加護を賜る。不老不死となり、海の果てにあるという神の国へと行くために。
***
果てのない海岸線。白い砂浜、青い海。防砂林を抜けた先にあったのは、あまりにも現実離れした空間だった。
不老不死の噂は嘘じゃないのかという疑いはこのただならぬ気配のする地に踏み入った時に消えた。間違いなくそうであると、誰もが本能で理解した。
異界とか神域とか。この果てのない白砂の海岸はまさにそういう場所だった。そういう場所に住まうものが力を与えてくれるなら、成程確かにそれは不老不死の力でもおかしくない。
「鯨の神が不老不死を与えるという噂は本当だったのか……」
人々の中で最も疑り深く、最後まで半信半疑だった男も、この光景を前にしてついに頷いた。
本当に、不老不死を与える鯨神はいるのだと。そのへんの漁村が作り出したでたらめな八百比丘尼伝説の類ではない。間違いなく本当にそうなのだ。
鯨神の訪れを祝い、祭りを開いていたのはただの村興しではない。鯨神の加護を望む者たちによる心からの祝祭なのだ。
「えぇ、そうですとも」
いつの間にか、人々の前に少女が立っていた。何もない白砂の海岸だったはずなのに、そこには赤い絨毯が一枚敷かれ、白い着物の少女がいた。
急に出現した絨毯とそこに立つ少女。これもまた鯨神の神ならざる力なのだろう。まさか人々の目を盗んで少女がせこせこと敷いたわけでもあるまい。だってここには何十人といる。敷物一枚といえど、その目をかいくぐる隙はないはずだ。
つまり人ならざる力で一瞬のうちに現れたというわけだ。
「私の名前は緋砂姫」
海の香りがするたおやかな少女はそう名乗った。ざざ、と波打ち際で波が爆ぜた。
証拠を、と呟いた彼女は、人知れず傍らにあった三方に置かれた小刀を手に取った。そして躊躇なく左の手のひらを自ら切りつけた。
赤く血が滲む左手を軽く挙げて皆に見せる。人々が注目するその目の前で、傷口はすっと消えた。
この通り、この身には無尽蔵の再生力があり、それが不老不死をもたらしている。それを示した彼女は改めて人々を見渡した。
「私の血肉を取り込めば、私と同じ力が得られるでしょう」
緋砂姫。不老不死を分け与えてくれるという神の巫女。神の座への到達に続いて神の眷属の出現に人々の期待は否応なしに高まっていく。
その期待の眼差しを受けても怯むことなく、彼女は淡々と続ける。
「では、ひとりずつ前へ」
多少順番は前後するが、皆に平等に血を分け与えよう。さっそく前に進み出た男に微笑み、たった今傷が塞がったばかりの左の手の平を再び切りつけた。血が滲む傷口を差し出し、男は恭しくそれを舐めた。
傷が塞がれば次。すぐに傷口が再生してしまうので、そのたびに手のひらを切りつけて。列を作る人々らに順番に血を与えていく。
「いさなさまの加護がありますように」
「ありがとうございます、緋砂姫さま、いさなさま」
慈愛の微笑みを浮かべる少女の左手へ、青年が頭を垂れた。ぺろりと傷口を舐めあげる。舌に染み込むような鉄の味がした。
しっかりと摂取できるよう、傷口に舌をねじ込んで血を啜る。緋砂姫は何も言わず、されるがままに左手を青年に委ねている。
やがて傷口が塞がり、青年は名残惜しそうに口を離した。
「これで俺も不老不死を……」
念願が叶った。青年は感慨に打ち震える。これで永遠を生き、平穏で争いのない神の国へと迎えられるのだ。もう二度と戦乱に焼け出されることはないだろう。
その喜びとは裏腹に、戸惑いがある。
血を舐める前と後で明確に『何か』が変わった感覚はある。だが、何が変わったのか具体的にわからない。
これだと言い切れる劇的な変化がないので、なんだか疑わしい。強いて言えば、潮の匂いが強く感じられる程度だ。
本当にこれで不老不死になったのだろうか。いや、現実離れしたこの空間も不老不死の巫女も本物なのだし、不老不死を与えるのも本当なはずだ。だが、本当に自分はそうなれたのだろうか。
釈然としきらない気持ちを前に、青年は列の先頭を次に譲った。
列は途切れない。すでに血を舐め終えた青年は遠巻きに列を眺めながら、長いなぁと心中で呟いた。ちょっと傷口を舐めるだけだ。時間にしたらそうかからない。ここに集まった人数はそれなりにいるが、いやしかしそれにしたって。
そうして、列を眺めてふと彼はあることに気がついた。あの萱草色の帯は間違いない。あいつ、また列に並び直してやがる。
「そういう手があったか……!!」
変化がないと感じたのは、摂取した量が少なかったから。たくさん飲めばより力を得られるはずだ。
その発想はなかった。萱草色の帯の男が、おう来いよと目配せしてきて、彼はたまらず駆け出すように最後尾に並び直した。
***
「……いさなさまの加護がありますように」
この鶯色の着物の女は6回目。緋砂姫は内心でそう呟いた。
列が終わらない。欲深い人々が何度も並び直しているせいだ。自分はまだのふりをして。
他の誰もがそれを止めない。むしろ気付いた者から真似しだす。この紫紺の髪飾りの少女は3回目。その黄土色の帯の女は7回目。あの青鈍色の着物の老人はなんと10回目だ。
指摘したところで、数の暴力で言いくるめられるだけ。誰に与えたかなど記録などしていないのだから証拠もない。
はぁ。そう思いつつ、緋砂姫は黙々と血を与えていく。次に来た蘇芳色の羽織の男は8回目だった。
ふと、その列が不意に乱れた。並び直しはあれど一列だった人の並びが崩れる。まるで躍り出るように、目だけぎらつかせた老婆が飛び出して――
「もっとよこせ!」
――小刀を奪い、緋砂姫を刺した。