約束
人がごった返す週末の駅前広場。石畳から立ち昇る陽炎が、世界から容赦なく水分を奪っていた。
選挙演説に救急車のサイレン。騒ぐ子供の声も相まって、一瞬の静寂すらなかった。
麦わら帽子を目深に被った女の子が母親に手を引かれるのを横目で眺め、夏彦は目を細めた。
こんなことなら、帽子の一つでも被ってくるんだったな。
夏彦の立っている場所は、かろうじて彫刻のモニュメントで影になっていた。それでも、Tシャツは動くたびにペタペタと体にまとわりつく。財布には、帰りの電車賃しか入っていなかった。このままでは倒れるのも時間の問題だ、と心の中で愚痴った。
霞む視界を手で覆うと、微かに時計台が見えた。夏彦は小さく舌打ちし、周りを見回した。
既に約束の時間を二十分過ぎていた。松永が遅刻するのは珍しくない。だが、未だ連絡の一つも入っていないことに夏彦は不信感を感じずにはいられなかった。
携帯に指が走る。トントンと画面の淵を叩きながら、耳に響く呼び出し音が途切れるのを待った。
呼び出し音が響くたび、松永がどこでこの音を無視しているのか想像した。おそらくベッドで寝転がり、スマホの画面を見て「あ、夏彦か」と呟いてからわざと応答しないのだろう。あるいは友達と遊んでいて、「うるさいな」と電話を切っているのかもしれない。
シルバーカーを押す老人が噴水前を横切り、姿が見えなくなったところで、夏彦は首を振った。
地団太を抑え、再び電話をかけると、今度は数コールで繋がった。
胸に溜まっていた熱気が、ため息と共に解き放たれた。
「松永が何してるか知らない?」
感情を抑えた夏彦の声に、電話の向こうから、木村の笑い声が響いた。
「なに。また何かやらかしたの?」
ゴシップでも楽しんでいるかのような調子に、携帯を握り締めた。
「あいつ、約束すっぽかしたんだよ。金返す約束だったのに連絡すらない」
「馬鹿だなー。松永に金貸したら返ってくる訳ないだろ」
他人事だと思いやがって。怒りの矛先が木村に向きかけるのを、噴水から流れる水を見て堪えた。
「生活に困ってるって相談されたんだよ。実家を無一文で追い出されて一人暮らしで厳しいから、って」
サイレンの音が、少し遠ざかる。夏彦は猛暑の中、再び時計を見た。
松永から電話があったのは、丁度一カ月前の今日。生温い風の吹く夜のことだった。
「金を貸して欲しいんだ」
開口一番告げられた言葉には、冗談と笑い飛ばせない圧があった。詳しく事情を訊くと、今月は支払いが立て込んでいるらしく、このままでは消費者金融を頼らねばならないことを告げられた。
夏彦は、ベットに深く腰掛け、口元に手を当てた。
消費者金融に金を借りる。まだ大学生の夏彦にとって、それは大罪であるかのように感じられた。とは言え、夏彦自身も貯金に余裕がある訳ではない。金銭の貸し借りに関する不安もあった。
「頼む。夏彦しか頼れる友達がいないんだよ」
中学の頃からの友達。彼がこんなに弱った声を出すのが、哀れで仕方なかった。
中学の頃、財布を落として困っていた時、松永は質問もせずに千円札を差し出してくれた。あの時の恩を今こそ返せると思った。
「それ、信じて十万貸したの?」
呆れたような木村の声に、夏彦は唇を噛んだ。
「松永が、ちゃんと返すって言ったんだよ。振込でいいって言ったのに、わざわざお礼を言いたいからって直接会う約束までして」
携帯を確認するが、相変わらず松永からの連絡は来ていない。舌が乾くのを、唾液で潤わせた。
「無一文で家から追い出すような親、普通いないだろ」
夏彦は、家で待つ母親と、サラリーマンの父を思い浮かべた。確かに、両親から突然絶縁を言い渡される想像は微塵も湧かなかった。
「調子のいいこと言うのは昔からそうじゃん。ちょっと盛るとこあるだろ」
思い返せば、松永の遅刻に謝罪はなく、いつも奇妙な言い訳ばかり。信号が十連続で赤だったとか、留学生の道案内など真実とも分からない冗句。そんな嘘にも愛嬌があるから、みんな許してしまうのだ。突飛な行動力と、人を引き込む話術。それも含めて松永の味なのだが、飲み代は催促しなければ返ってこない。
金を貸す相手としては落第もいいところだった。
麦わら帽子の女の子が、噴水の縁に腰掛けていた。陽炎の中、サンドイッチを頬張る姿が、まるで別世界の出来事のように遠く感じられた。
いつまでも鳴りやまないサイレンが、嫌に耳障りだった。ため息に舌打ちをつく。
「おれが馬鹿だったよ。松永から何か連絡あったら、折り返すよう言っといて」
「了解。災難だったな」
電話を切った瞬間、頭の片隅で不安がよぎった。あいつが無断でドタキャンするのは珍しくないが、連絡すら寄越さないのは初めてだ。何か深刻な事情があるのではないか。
しかし、すぐにそんな甘い考えは消え、澄み渡る青い空を見上げた。どこまでも広がる青は、あまりにも無関心で、それがかえって苛立たしかった。
信頼を裏切られるってこんな気持ちなのか。友達だから。助けてあげたい、どうにかしてあげたいという善意だった。
これ以上、炎天下に立っている理由もない。冷房の利いた構内に向かって、夏彦は歩き始めた。
視界の端で、道の脇にフロントガラスが大破した一台の車が見えた。警察に救急車と、人だかりができている。
他にそれらしき車はないので、ガードレールにでも突っ込んだのだろう。一瞬、松永の顔が脳裏をよぎったが、すぐに打ち消した。
手の中の携帯が震える。
『今度、久しぶりに飯でも行こうぜ』
木村からだ。十万の出費は痛かったが、これも社会勉強代だ、と夏彦は割り切ることにした。
ただ、大破した車の前を通り過ぎながら、かすかな罪悪感と共に、もう一つの可能性が頭をよぎる。もし松永が本当に事故に遭っていたとしたら。
疑うことと信じることの間で、夏彦の心は揺れ続けた。人は都合の良い解釈を選びがちだ。自分もまた例外ではない。信頼と疑いは、硬貨の裏表のように隣り合わせだった。松永を思い浮かべるたび、その硬貨はまだ宙で回り続けている気がした。