三話「絵描きの性です」
大きな溜息を吐きながら、エリザは手を組んで机の上に肘を突く。じっと静かに壁を見つめながら、昼間の出来事を思い返した。
—お前は誰だ。
じっと睨みつけられる恐怖を初めて知った。きっと同性に睨まれるだけでも怖い筈なのに、生まれて初めて異性から睨みつけられたのだ。恐怖に震えて当然の筈。
突然何をするの、女性の顔を掴むなんて!と怒鳴って振り払って逃げたは良いが、ジョージが納得する筈がない。暫くの間じっとこちらを睨みつけていたが、馬たちに飼葉を与えているうちに、気が付いたらいなくなっていた。手伝えと言ったのに薄情な男だ。
「失敗した……」
ゲームの中で見ていたエリザは、アイラが孤児院出身という理由で格下扱いをしていた。公爵家の令嬢であり、身分も高いエリザは、男爵令嬢子爵令嬢相手にはかなりきつい物言いをする。
そんなエリザが、突然生まれ育った環境を理由に馬鹿にするなと怒ったのだ。
「怪しまれて当然だろ私の馬鹿……!」
うおおお……と小さく声を漏らして頭を掻き回す姿は、実家の自室で一人きりの為誰にも見られる事はない。広すぎる自室は少々落ち着かないが、元々生きていた世界で暮らしていた自分の部屋と似たような規模の部屋は、この屋敷では風呂場くらいのものだ。
「駄目だ、一旦落ち着こうそうしよう」
うんうんと独り言を呟いて、エリザは腕を組んで目を閉じる。
まず、エリザは本来悪役令嬢として立ち回るキャラクター。ジョージという婚約者がありながら、王妃になりたいが為にルイスに付きまとう。主人公であるアイラがルイスルートに入った場合、様々な嫌がらせ、妨害行為をしてアイラとルイスが結ばれないように邪魔をしてくるキャラクターだ。
つまり、エリザがアイラを庇うのは、あまりに不自然。
そこまで考え、エリザはゴンと音を立てて額を机に打ち付けた。
「そりゃ疑われるって……お前は誰だとか言われるって超怖かったって……なんだあの男マジ怖いんだけど……」
ブツブツ呟きながら、エリザは思い切り睨みつけてきたジョージを思い出す。
エリザの婚約者であり、ルイスの右腕となるべく邁進しているキャラクターだ。そして、攻略キャラクターの一人でもある。アイラがジョージのルートに入った場合、婚約者であるエリザが邪魔になる為、容赦なく暗躍し、エリザを追放エンドへと導く。初めてこのエンディングを見た時には「コイツが一番怖い人間じゃないの……」と震えた。
この容赦のなさが一部のファンに突き刺さるらしいのだが、エリザは王道王子様のルイスの方が好きだ。
「……できるだけ接触を避けて、何かこう……良い感じに!」
怖いのなら近付かなければ良い。そうだそうだそうしようと一人で納得したエリザは、ふふふと声を漏らして笑う。窓の外に昇った月はとうに高くまで上がり、そろそろ落ち着けと冷たく見下ろしているようだった。
◆◆◆
避けて行動しようと決めて眠った筈。だというのに、どうして今隣で座って絵を描いているのだろう。学園のイベント、写生大会の真っ最中だからです。声には出さず、胸の内だけで自分に突っ込みを入れながら、エリザは黙々と手を動かした。
「いやあ……良い天気だ」
「ええ、そうですね」
ニコニコと嬉しそうな顔をして、芝生の上に座りながら空を見上げているのはルイスだ。どうしてこの地獄のような配置で座らなければならないの!と胸倉を掴みたいが、顔が綺麗な推しにそのような事は出来ないし、そもそもジョージが目の前にいるので近寄る事も許されないだろう。
現に、座る位置はルイス、ジョージ、エリザの順となっており、体を使って物理的にガードされている。
「それにしても、結局同じ学年で固まってしまうのだから、新入生と親睦を深めるきっかけに……というのは無理があると思わないかい、バートレイ嬢?」
「伝統ですから」
ふふ、と小さく笑って返事をするが、推しと会話が出来るというだけで正直血圧が急上昇している。笑顔に違和感が無いか、返事はきちんと出来ているか不安だが、今は普段よりも近くで見られる推しの顔を網膜に焼き付ける事に集中していたい。
「そういえば、編入生に意地悪をしたんだって?」
「それは……誤解、と申しましょうか」
「ふふ、君は言葉を選ぶのが苦手だからね。誤解されたのだろう?ジョージから聞いたよ」
婚約者の悪い噂を払拭しようとしてくれるなんて、良い所があるではないか。そんな感動を薄ら覚えたのだが……ルイスが続けた言葉でその感動は一気に霧散した。
「厩で罰則だったんだろう?大変だったね」
クスクスと笑うルイスの顔は美しい。金色の髪に太陽の光をキラキラと反射して、真っ白な肌はきめ細やか。頬は健康的にうっすらと赤みが差しており、見ているだけで溜息が漏れる。もしこの場に画家がいたら、一心不乱に筆を走らせるだろう。
「あ……」
「おや」
三人で座っていた木陰に、一人の女子生徒が顔を出す。エリザを見て表情が固まった、アイラだった。
「やあ、ハボット嬢。もう絵は描き終えたのかい?」
「はい……小さな花を描いただけですが」
チラチラとエリザの表情を伺いながら、アイラはルイスと会話を続ける。先日よりも超至近距離で推しカプが会話をしているこの光景に、涙を流さないでいられる事を誰かに褒めてほしい。
「ちょ、ジョージ様!貴方こちらに!ほらアイラさんこちらへ!足がまだ痛むのではなくて?」
座る位置をずれ、ジョージの服を引っ張りながらアイラに座るよう声を掛ける。頼むからもう少しだけでも良いから、二人で会話しているところを観察していたかった。
「引っ張るな」
「あら、怪我をしている女性を立たせたままにするおつもりですか?」
「あの……何故私が怪我をしている事をご存知なのですか?」
不安そうな顔をしているアイラにそう問われ、まだ昨日の事を謝っていない事を思い出した。
「昨日、薬草の匂いがしたわ。それに、歩く時に少し足を引き摺っているようでしたから……違った?」
「いえ、合っています」
「早く座れ。殿下を見下ろすな」
ジョージに低く唸るように言われ、アイラは恐る恐るといった様子でルイスの隣へ腰かける。
「あのう……昨日はありがとうございました」
「おや、ジョージが何かしたのかい?」
「昨日階段を踏み外してしまいまして……足を痛めて動けずにいたところを、ジョージ様が医務室まで運んでくださったのです」
恥ずかしそうにはにかみながらそう言ったアイラは、チラチラとジョージの方を見て頬を染めている。
何も知らなければ可愛らしい女子生徒の顔なのだが、エリザは違う。
何故、そのイベントが今起きている。
本来まだ起きない筈の出来事が既に起きている。どうして。
「……何故昨日それを私に言わなかったのですか?」
「は?」
「随分とお優しいではありませんか。貴方が女子生徒を助けるなんて」
「おや、珍しくヤキモチかい?」
ニヤニヤしながら此方を見ているルイスの顔は麗しいが、今はそれどころではない。
元のゲームでジョージルートに入って少しした頃、季節としては冬になった頃にフラグ回収できていれば発生するイベントが、どうしてまだゲームスタートして数日で起きているのか分からない。
「やきもち……」
「ああ、この二人は婚約者同士なんだよ」
「え?!」
エリザとジョージの関係を知らなかったアイラは、ルイスの言葉に慌てふためきながら違うんです!を繰り返した。
「た、たまたま!本当に偶然ジョージ様がそこにいらして……!」
「ハボット嬢、そこで慌てると怪しく見えるよ」
「ええ……!違うんです、本当に、何も……!」
ごめんなさい!と涙目になっているアイラと、それを宥めるルイスの二人が並んでいるだけで、この世の全てが美しく見える。何故この光景を写真に撮る事が出来ないのだろう。カメラの構造が理解出来ていれば今すぐこの世界の発明品として作り出して連写するだろうに。
「ああ……その辺りの事情はどうぞお気になさらず。婚約者が怪我をして困っている女性を放っておくような薄情な男でなかった事に安堵しておりますから」
それより今は持っているペンと紙でどこまでこの素晴らしい光景を描けるかだ。瞬きをする事すら惜しくてたまらず、エリザはカッと目を見開いたまま手を動かし続けた。
「……怒って、ないんですか?」
「怒る?何故私が怒るのですか?」
まだ怯えたような顔をしてエリザの顔色を伺うアイラに、手を動かしたまま答える。アイラはぱちくりと目を瞬かせ、視線をうろうろさせながら気まずそうに言った。
「だって、婚約者が別の女に親切にしていたら、嫌なものではありませんか?」
「そこまで心の狭い女ではありませんわ」
にこっと優しく微笑んだつもりだが、アイラはひくりと口角を引き攣らせる。悪役顔が微笑んだ所で、優しい笑顔ではなく、相手を威圧する笑みになってしまうものなのだろうか。
困ったなと頬をむにむにと揉み、アイラから視線を逸らしてジョージの方を見る。黙っていないで助けろと言いたかったのだが、ジョージは真面目な顔をして、手元と少し離れたところにいる小鳥を交互に見ているようだ。
「……ねえ、それは何?おまんじゅう?」
「……小鳥だ」
ぶすっとした声でそう言って、ジョージは恥ずかしそうに紙を胸に抱え、エリザに見られないように隠す。その仕草が何となく可愛らしく思えて、つい笑ってしまった。
「貴方にも苦手な事があるのね。笑ってごめんなさい」
口元を抑えても、込み上げてくる笑いは止まってくれない。笑われた事が恥ずかしいのか悔しいのか、ジョージは耳を赤くしながらふいとそっぽを向いた。
「照れてるな」
「殿下!そのような……!」
「何だ?私に嘘を言うつもりか」
「いえ……そのような、ことは」
もごもごと口を動かして、反論する事を諦めたジョージは、絵を描く事を諦めたのか、自分が持っていた紙を芝生の上に置き、エリザが持っている紙をひょいと取り上げる。
「……お前、何を描いていたんだ」
「素晴らしき未来の光景ですわ!まだ出来ていませんから返してくださいまし!」
腕を高く伸ばし、まじまじとエリザの絵を見ているジョージは、信じられないと言いたげな目をエリザに向ける。
描かれていたのは、ルイスとアイラが微笑みながら手を取り合っている光景を描いたものだった。
「か、え、し、て!」
許可なく描いたのだから、本人に見られるわけにはいかない。ジョージから絵を奪い返そうと腕を伸ばしてみたが、リーチの差は残酷で、なかなか奪う事が出来ない。ジョージの腕を掴んで引っ張ってみても、鍛えている男の力には勝てなかった。
「二人とも、じゃれ合うのなら他所でやってくれないか?婚約者同士仲が良いのは良い事だけれど」
ルイスの揶揄うような言葉に、エリザははたと自分の状況に気付く。まるで、ジョージに抱き付いているような恰好になっている。
「ひぇ……!」
「ほら、ハボット嬢も気まずいって。ね?」
「い、いえ!あの……」
「殿下、彼女が正直に答える事は出来ないかと」
飛び退くように慌ててジョージから離れると、ルイスはアイラに優しく微笑みかけている。その光景が美しく、心の中で「てぇてぇ!」と叫びながら、現実では「失礼いたしました」と小声で謝る。声が震えていない事を願うばかりだが、それよりも今はジョージから紙を取り返し、この光景を絵に残したい。
「あ、アイラいた!探した……失礼いたしました、殿下」
走ってきた女子生徒、キャリーがアイラに声を掛ける。ルイスが一緒である事に気が付き、慌てて頭を下げているが、この場にエリザもいる事が嫌なのか、気に入らないのか、静かに睨む目は鋭い。
「……ジョージ様、返してくださる?提出する絵を描いてきますから」
「これは……誰にも見せるなよ」
「分かっています。ジョージ様も、胸の内に秘めておいてくださいな。というか、記憶を消し去ってください」
ジョージから紙を受け取り、エリザはルイスとアイラに軽く頭を下げてからその場を去る。
四人から見えないエリザの顔は、とても冷たく、怒っているように見える。
何故、イベントが早まっているのか分からない。
本来まだ起きる筈の無い、ジョージルートのイベントが起きた理由は?この世界の正ルートはジョージルート?もしそうなら、上手く立ち回らなければアイラとルイスが結ばれる未来はない。二人の結婚式が見たい、推しカプを目の前で拝みたいという望みが叶わない。
それどころか、ジョージがアイラと結ばれるのなら、婚約者であるエリザは邪魔になる。ゲーム内ではジョージによって陥れられ、国外追放されるのがエリザの結末。
この世界でアイラがジョージルートに入るという事は、どう足掻いてもエリザにとってのバッドエンド。最悪だ。
「どうにかしないと……」
小さく呟いた独り言は、誰にも聞こえる事はなかった。
「ジョージ、耳が赤いぞ」
「……気のせいです」
ルイスとジョージのやり取りが、エリザの耳に届かないように。