二十二話「口付け」
ソワソワと落ち着きなく何度も座り直す事を繰り返すアイラの隣で、エリザはのんびりとティーカップを傾けながら競技場を見下ろす。
剣術大会当日となり、アイラは朝から落ち着きがない。エリザは何度も落ち着けと言っているのだが、どうしても落ち着けないようだ。
「貴方には何も出来ないのだから、大人しくお茶とお菓子を楽しみなさいな」
「どうしてエリザさんはそんなに落ち着いていられるんですか?」
「だって彼強いもの」
あっさりとそう言うと、エリザは用意されている一口サイズのケーキを口に放り込んだ。
トーナメント式で行われる試合は順調に進んでおり、ジョージは既に最初の出番を終えている。
男子生徒の多くが出場しており、全ての試合が終わるのは夕方になるだろう。まだ始まったばかりの今から落ち着きなく観戦していては、夕方になる前に疲れてしまうだろう。
「あ……殿下!」
「もっと声を張りなさいな」
「そんな、恥ずかしい事出来ません!」
「皆やってるわ。こうやるのよ」
にんまりと笑ったエリザは立ち上がると、胸を張って思い切り息を吸い込んだ。
「殿下―――!!!!」
「ちょっ……!」
「ほら貴方も。一緒なら恥ずかしくないわ」
早くとアイラの手を引いて立ち上がらせると、アイラは覚悟を決めたのか顔を真っ赤にしながら息を吸い込んだ。
「殿下―!頑張ってー!」
「薔薇の乙女が応援しておりますわよー!」
二人の声は他の女子生徒たちの歓声に紛れて聞こえないだろうが、ルイスはアイラの姿を見つけたのか、恥ずかしそうにはにかみながら小さく手を振った。
「ほら!ほらアイラさん見ましたか!ファンサよ!」
「ふぁんさ……?で、殿下が手を振ってくださいました!」
「ええ、これがファンサよ!貴方も手を振って!」
ぶんぶんと二人で大きく手を振る姿は、貴族令嬢としては褒められた事ではない。だが、周りの女子生徒たちも同じように声を張り上げ、大きく手を振っている。教員たちも普段は煩いが、今日は目を瞑ってくれていた。
試合開始の合図と共に、ルイスは対戦相手の懐に飛び込む。息もつかせぬ勢いで剣を振り、相手は何も出来ないまま地面に倒れ込んだ。
「殿下の……」
「勝ちね」
「凄い!殿下!かっこいいです!」
きゃあきゃあと目を潤ませながら興奮しているアイラは、エリザの手を取りながらその場でぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「かっこいい……かっこいい……」
「はいはい、分かったから落ち着いてお茶でも飲んで」
漸く椅子に座り直した二人は、揃ってお茶を飲んで一息つく。たった一戦勝っただけでこれだけ大騒ぎ出来るのだから、恋する乙女というものは面白い。
次にジョージとルイスが出てくるまでには時間がある。それまで退屈だが、折角良い観戦場所を陣取ったのだから、移動して席が無くなってしまうのは困る。暫くは二人で雑談でも楽しむ事にして、エリザはもう一つケーキを口に放り込んだ。
◆◆◆
「エリザさん、ジョージ様ですよ!」
「んえ」
いつの間にかうつらうつらとしていたエリザは、アイラに揺すられて目を覚ます。会場に目をやれば、不機嫌そうな顔をしているジョージが出てきたところだった。
「ほら、エリザさん声を!」
「ええ?良いわよ別に……」
「駄目です!ふぁんさ?をいただかなくては!」
覚えたての言葉を使うアイラは面白いが、腕を引っ張るのはやめてほしい。勢いに負けて立ち上がると、こちらを見ていたジョージと目が合ってしまった。
仕方なくひらひらと手を振ったが、隣のアイラは早く何か言えと脇腹を小突いてくる。
「ジョージ!負けたら承知しないわよ!」
思い切り声を張り上げたが、きっと何を言っているかまでは聞こえていないだろうに、ジョージはうっすらと口元を緩めてエリザに向けて手を上げた。
「ファンサ!ファンサですよエリザさん!」
「うう……恥ずかしいわねこれ」
アイラに肩を揺すられ、がくがくと首を揺らしながら、エリザは競技場の中心で剣を構えるジョージを見つめる。
見慣れた顔の筈なのに、絶対に負けられないとでも思っているのか、普段よりも真面目な顔をしているように見える。
思わず、ぎゅっと拳を握りしめた。
ゲームシナリオ中でも、ジョージはとても強いと描かれていた。誰よりも強い男として、ルイスを守れる男になれるように、幼い頃から努力してきたのだと、ヒロインであるアイラに語っているシーンを思い出す。
あのシーンで、ジョージはどんな顔をしていたのだろう。スチルは無く、立ち絵が表示されているだけのあのシーンで、ジョージは昔を思い出して微笑んでいたのだろうか。それとも、じっと自分の手を見つめながら息を詰めていたのだろうか。
「始め!」
試合開始の合図と共に、相手の生徒が雄叫びを上げながらジョージに斬りかかる。ジョージはそれを剣で受け止め、一歩後退する。
どうか、どうか勝ちますように。
ぎゅっと握りしめた拳は白くなり、息をする事も忘れていた。
勝てる。あの人は強いから、きっと大丈夫。そう信じていた筈なのに、いざ試合が始まり見守っていると、胸が締め付けられる思いだった。
「あ……!」
表現し難い、鈍い音が響いた。
驚いて目を見開いたジョージの動きが、どういうわけだか酷くゆっくりとして見えた。
ジョージの剣が、折れた。ジョージの視線が、折れた剣が飛んでいくのを追いかける。相手の剣が、ジョージの胸を突いた。
「ジョージ様!」
エリザの隣でアイラが叫ぶ。
胸が痛い。息が苦しい。
ジョージの胸を突いた剣が、ジョージの顎を叩く。ぐらりと傾いだジョージの体が、競技場の地面に叩きつけられた。
「ジョージ!」
会場中が悲鳴に包まれる。
何が起きたのか分かっていない生徒が殆どのようで、ジョージを案じる声が多いように思えた。
「嘘……剣が折れるなんて」
心臓が早鐘を打つ。
ゲームシナリオにそんなシーンは無かった。ジョージルートに入っていれば、ジョージが優勝して薔薇の花をヒロインに渡す。
ルイスルートならば、決勝戦でルイスがジョージに勝って終わるが、ジョージの剣が折れるような事は無い。
無かった筈の出来事が起きた。地面に倒れたジョージが痛みに顔を歪めながら腕を動かしているが、起き上がる事は出来ないようで、何度か足を動かしてそのうちにやめた。
「何てこと……」
「あ……エリザさん待って!」
救護係がジョージの元へ駆け寄るのと同時に、エリザも観覧席を駆け下りた。観覧席から競技場に入る事が出来ないように柵が作られているが、エリザは制服のスカートが翻る事も気にせずに柵を乗り越え、倒れているジョージに縋りつく。
「ジョージ!」
「う……」
「レディ、離れてください」
救護班に止められ、無理矢理引き剥がされながら、エリザは倒れて動かないジョージを見つめる。どうやら、意識が無いらしい。ぐったりと目を閉じているジョージの顔は、死んでしまったのではないかと不安になる程血の気が引いているように見えた。
「医務室へ運びます。レディ、お戻りを」
「私も行きます」
「……では、こちらへ」
競技場に女子生徒が飛び込んだ事で、会場は更に大きく騒めいている。誰が何を言っているかは分からないが、あまり良い事は言われていないだろう。
担架に乗せられたジョージは苦悶の表情を浮かべており、普段見る事の無い表情にエリザの鼻の奥がツンと痛んだような気がした。
◆◆◆
包帯まみれでベッドに寝かされているジョージの顔を見つめながら、エリザはカリカリと爪を噛む。
左手はジョージの手を握っているが、その視線は酷く冷たい。
この世界のシナリオは、最初に用意されていた筈のシナリオは、既に破綻している。
だが、いくらシナリオが破綻しているとはいえ、元のシナリオで用意されていなかった「模擬剣が折れる」というアクシデントが起きるなんてあり得ない。
何故、そのようなアクシデントが起きたのだろう。ゲームシナリオ中で誰かの剣が折れるという描写はあっただろうか。いや、そのような描写は無い。
「う……」
「ジョージ……?」
「……いたのか」
目を覚ましたジョージは、心配そうな顔で覗き込んでくるエリザに掠れた声で言った。
模擬剣で殴られた顎が痛むのか、一言発しただけで顔を顰めて口を閉じるが、自分の手が握られている事に気が付くと、そっとその手を握り返す。
「先生を呼んでくるわ。待っていてね」
立ち上がろうとした瞬間、ジョージの手がぐっと力を籠める。まるで、行くなとでも言うように。
「……負けたのか」
「仕方ないわ、剣が折れたんだもの」
痛みを堪えながら何とか喋ろうとするジョージの顔は見ていられないが、ゆっくりと言葉を紡ぐ邪魔をする気にはなれない。正直無理をせず黙っていてほしいのだが、きっと黙っていられない程悔しいのだろうと思った。
「何故、折れた」
「分からないわ。もしかしたら当たり所が悪かったのかも……不幸な事故よ」
悔しそうに小さく唸るジョージは、細く息を吐きながら静かに目を閉じた。
エリザの手を握る手はそのままで、血の通った温かさを感じているうちに、ジョージが生きている事に安堵した。
「お、おい……何を泣いている?」
「だ、だって……死んじゃったかと」
ボロボロと流れる涙は止まらず、エリザの制服のスカートに小さな染みを幾つも作る。どうにかして泣き止みたいのに、競技場で倒れて動かないジョージの姿を思い出して怖くなってしまった。それと同時に、今こうして生きていて、会話出来ている事に安堵した。
「試合とはいえ模擬剣だ。木製の剣で死ぬ筈がないだろう」
「殴られて死ぬ人はいるわ。それに、貴方胸を突かれてた。心臓に衝撃を与えるとね、死んでしまう事だってあるんだから!」
目を覚ましたばかりの怪我人相手に声を荒げ、エリザはきつくジョージを睨みつける。
死んでしまったかもしれないと恐ろしい思いをしたというのに、何故怪我をした本人はけろりとした顔をしているのだろう。それがとても腹立たしくて、エリザは更に涙を零す。
「……すまない」
「本当よ!貴方強いのに剣の手入れくらいきちんとしなさいよ!」
私物の模擬剣を使っていた筈なのに、どうして自分の剣が折れるなんて事が起きるのだ。手入れをきちんとしていれば、試合の前に確認をしていれば、試合中に剣が折れるなんて事は無かったのではないか。
そうまくし立てると、ジョージはゆっくりと起き上がり、エリザの頭をそっと撫でた。
「心配、してくれるんだな」
「当たり前でしょう!貴方私の婚約者なのよ?婚約者の心配くらい……」
「お前は、誰だ」
ジョージの緑色の瞳が、じっとエリザの水色の瞳を見つめる。まっすぐに見つめるその目は、心の奥底まで覗き込んでいるように見えた。
「エリザは、俺の心配なんてしない。いっそ死ねばいいとさえ思っている筈だ。だがお前は、俺の心配をする。誰だ?」
「私、は……」
逃げられない。
この視線から、この男から、逃げられない。
「いや……良い。お前が誰だろうと、お前は俺の妻になる女だ。俺はこの先も傷を負うだろう。その度に、お前は俺を案じてくれるか?」
優しく微笑みながら、ジョージの手がそっとエリザの頬に触れる。涙で濡れた頬を拭うように、そっと、優しく。
「当たり前じゃない。いつも、何度でも、貴方を心配するわ」
頬に触れるジョージの手に触れながら、エリザは静かに目を閉じる。
出来れば二度と怪我などしてほしくないが、ルイスを守る為日々鍛錬を重ねているジョージが全く怪我をしないなんて事は無理な話だろう。
それは、剣を捨てろと言うのと同じ。
それは、言ってはいけないこと。
それは、望んではいけないこと。
「薔薇の乙女になり損ねたな」
「本当にね」
「……キスを貰い損ねた」
冗談を言うところかと言いたくて、エリザが目を開いた瞬間、ジョージの顔が眼前に迫る。じっと、何かを探る様な視線から逃れられない。
どうしたら良いのかわからず、エリザは体を動かさないまま目を伏せた。誰だという問いに、答える事は出来ない。だが、逃げたくないと思った。
開いたばかりの目を閉じ、頬に触れるジョージの体温だけを感じる。
ほんの一瞬、ゆっくりと唇に触れた柔らかいものは、温度を感じる間もなかった。
「……何だ、その顔は」
顔を真っ赤にして固まっているエリザの反応が不服なのか、ジョージは眉間に皺を寄せて不機嫌そうだ。だが。包帯の隙間から見える耳は真っ赤に染まっており、羞恥に耐えている事は見て分かった。
「強制わいせつ罪!」
「何だそれは」
「初めてだったのに!包帯まみれなんて!」
「結婚式まで取っておくつもりだったのか?」
フッと鼻で笑ったジョージを今すぐ張り倒しても許されるだろうか。ぷるぷると震えているうちに、コンコンと控えめなノックの音がした。
「そろそろ良いかな?」
扉を既に開け放ち、寄りかかりながら笑いを堪えているルイスがそこにいた。傍らには、顔を真っ赤にしているアイラも立っている。
「殿下……!」
「神父を呼ぼうか?」
「見て……?」
「ふふ」
パクパクと口を動かし、エリザはジョージの顔を見る。ジョージも気まずそうな顔をしてはいるが、どう返せば良いのか分からないようで、きゅっと唇を引き結んでいた。
「全く、お前が負けたりするから試合がつまらん」
「殿下の出番は終えたのですか?」
「棄権した」
しれっとした顔で言ったルイスの顔を、エリザとジョージが凝視する。普段ニコニコと微笑んでいるのに、今のルイスはとても不機嫌そうだ。
「申し訳ございません」
「誰かがお前の剣で遊んだようだ」
そう言うと、ルイスは手にしていた折れた剣をベッドに放り投げる。ジョージの足元に落ちたそれは、エリザが見るに剣の柄と僅かに残った刃部分のように見える。
投げられた剣を手に取り、まじまじと見つめるジョージの表情が、どんどん険しくなった。
「傷……」
「え?」
「木目に沿って傷が入れられている。衝撃に負けて折れたんだ」
エリザに剣を見せながら、ジョージは傷が付いている箇所を指先で突く。
「どこ?」
「ここだ。これも」
きゅっと目を細め、よくわからないなりにジョージの指先を辿ると、確かにジョージの言う通り木目に沿って小さな傷が幾つも入っていた。普段の鍛練で出来た傷に紛れてよく分からないが、ジョージは見ればすぐに分かるらしい。
「でも、一回戦では何ともなかったじゃない」
「相手の剣を二度受けただけだ。だが、それで剣の傷が深くなり、二回戦目で耐え切れずに折れたんだろう」
「そんな……仕組まれたって事?」
信じられないと言葉を失ったエリザは、ゆっくりとルイスを見る。誰が?どうやって?そう問いたいのに、声が出なかった。
「お前、昨日は剣を置いて帰ったな?」
「はい。手元にあると帰宅後も振るってしまうので……」
「温存する為か」
小さく舌打ちをして、ルイスはガシガシと後頭部を掻き回す。普段の麗しい王子様とは全く異なる姿に、アイラは気まずそうに視線をうろつかせた。
「誰かが、ジョージ様に怪我をさせて退場させる為に仕組んだのでしょうか」
震える声でそう言ったアイラに答える者は、誰もいない。
優勝最有力候補のジョージを蹴落としたいと考える出場者がいても、不自然ではない。だが、学園のイベントでそこまでする者がいるだろうか。優勝して得られるのは、賞賛と愛しい人からのキスだけ。
騎士道に反する卑怯な真似をしてまで、勝ちたいと思うのだろうか。
「ふむ。考えても分からない。一先ずお前が無事である事は分かったから、私は帰るよ。ハボット嬢、送って行くよ」
「え?あ、はい!ジョージ様、お大事に。お先に失礼いたします」
ぺこりと頭を下げ、アイラはルイスと共に医務室を後にする。
残されたエリザは、悔しそうな顔で折れた剣を握りしめるジョージの横顔を、そっと盗み見る事しか出来なかった。




