十二話「浸食」
利き手ではないとはいえ、片腕が使えないというのは、本当に不便な事であるという事を初めて知った。
「エリザさん、お待ちになって」
授業の為に教室を移動しようと立ち上がったエリザに、アリスが声を掛ける。さっと荷物を持ち、当たり前のように隣を歩く。それは、エリザが怪我をした翌日から続いている事で、既に一週間以上行動を共にしていた。
「荷物くらい持てるわ」
「いいえ、ご無理なさらず」
にっこりと微笑み、アリスは二人分の荷物を持って軽やかな足取りで歩く。
移動先の教室までは少しある。今日は温室で植物に関する授業をするのだが、温室に行く為には一度外に出て、校庭を通り抜けなければならない。
移動するだけで休憩時間が終わる為、生徒たちは急ぎ足で校庭を通り抜ける。エリザとアリスも同じように急いで歩いていたのだが、ふと、視線の端に人だかりが見えた。
「あら……クレムセン様ではありませんか?」
アリスも気付いたのか、人だかりの中心にいる男子生徒がジョージなのではないかと目を細めて睨みつける。目が悪いのだろう。
「ああ……本当だわ。何をしているのかしら」
沢山の女子生徒に囲まれているジョージは困っているようだが、エリザが見ている事に気付いていないらしい。
「嫌だわ、女子生徒に囲まれているなんて……ふしだらな」
フンと不機嫌そうに鼻を鳴らしたアリスは、声を掛けるか問いかけてくる。だが、エリザは静かに首を横に振った。
「構わないわ。ただお話しているだけですもの」
「よろしいのですか?婚約者がいる身で……」
そこまで言って、アリスは口を噤む。
「あら、私はもっと酷い事をしていたわ」
婚約者の目の前で、ルイスを追いかけていた事を覚えているアリスは、気まずそうに目を逸らす。それを見て、エリザはふっと口元を緩めた。
「良いのよ。彼、ちゃんと私を気にしてくれるもの」
怪我をした日、ジョージはエリザを抱えて医務室まで運んでくれた。迎えの馬車が来るまで一緒にいてくれた。
その後も、こまめに様子を見に来ては、手助けしてくれる。昼休みには一緒に食事をして、片手が使えず困っていればそれとなく助けてくれる。それだけで、充分。
たとえ、今女子生徒たちに囲まれていたとしても。
「……アイラさんとキャリーさんも混じっていたようですね。走っていらっしゃるのがそうですわ」
「そのようね」
心底気に入らないのか、アリスは走ってくるアイラとキャリーを睨みつけた。
「あ……お二人も移動の途中ですか?」
「ええ。そう急がなくてもまだ間に合うわ」
アイラがにこやかに声をかけてくるが、一緒に走って来ていたキャリーは何も言わない。ただじっと、エリザを見つめるだけだ。
「クレムセン様と何をお話されていましたの?」
にっこりと微笑むアリスがそう問うと、アイラはきょとんとした顔で何もと答える。
アイラが言うに、人だかりになっていて抜けられなかっただけとの事だ。
それを聞いて、ほんの少しだけエリザの胸がほっとする。何故安堵したのかは、分からなかった。
「何故囲まれていたのかは分かりませんが……」
「ジョージ様は女子生徒からの人気が高いですから」
漸く口を開いたキャリーは、いつものように「ジョージ様」と彼を呼ぶ。
「……随分と、仲が宜しいのね」
「え?」
「軽率ではありませんか?馴れ馴れしくもファーストネームで呼ぶなんて」
冷たい声でそう言うアリスに怯えたのか、アイラはびくりと肩を震わせる。ぴりりと空気が張り詰めたような感覚が、エリザの背中を痺れさせる。
「時々お話する機会がございまして」
うふふと小さく笑ったキャリーは、左腕を吊ったままのエリザを見てにんまりと口元を緩ませた。
「お怪我、早く良くなると良いですね」
行きましょうと続け、キャリーはアイラの手を取って走り出す。まだ慌てる程時間が無いわけではない。それなのに、二人はまるで、逃げるかのように急いでいるように見えた。
◆◆◆
片腕が使えないからと、エリザは授業中の作業を免除され、片腕でも出来る記録係をする事になった。肘で紙を抑え、自由な右手で文字を書き続けているのだが、やや無理な体勢を続けているせいで背中が痛む。
「ふう……庭師の仕事でしょうに」
ブツブツと文句を言いながら、エリザは体を起こして周囲を見回す。男子生徒は植え替えの手伝いをさせられ、女子生徒は痛んだ葉や枯れた花を摘む作業をさせられる。貴族令息や貴族令嬢が庭仕事をするのはきっと、卒業後には無い事だろう。
「エリザさん、こちらも記録していただけますか?」
「ええ、勿論」
キャリーが一つの鉢をエリザの元へ運んで来る。鉢には一つ一つに記録番号が付けられており、手入れが終わった鉢を記録するのがエリザの仕事なのだ。
「ええと……Aの36……良いわ、持って行って」
「ありがとう」
残りは幾つだろうと数え始めたエリザは視線を手元に落としており、キャリーの表情には気付かない。じっと、怪我をしているエリザの肩を見つめるその目は、酷く冷たい。
「ジョージ様、お優しいですね」
「え?」
パッと顔を上げた瞬間、エリザの喉がごくりと鳴った。キャリーの顔が、目の前にあるからだ。
「どうして、そんなに仲良くなったんですか?あんなにも、いがみ合っていらしたのに」
鼻先がくっ付いてしまいそうな程の距離。どう答えるか考えるより先に、思わず距離を取るように背中を逸らせた。
「婚約者と仲良くなって、何かいけない事があるのかしら」
「いいえ?とても良い事かと。でも……ジョージ様と貴方が仲良くなるなんて、絶対にダメ」
ずい、とキャリーが距離を詰める。椅子に座っている事が災いし、エリザはそれ以上距離を取れない。これ以上のけ反れば、椅子ごと地面に倒れてしまうだろう。
「何故、いけないの?」
「何故?だって、貴方はヒロインじゃないもの」
「何を、言っているの?」
「ヒロインは、アイラ・ハボット。そうでしょう?」
スッと首を傾げ、キャリーは無表情のままじっとエリザを見つめ続ける。
ヒロインはアイラ。キャリーは確かにそう言った。この世界にも物語はあって、ヒロインという言葉は存在する。だが、アイラがヒロインという事実は、この世界の誰も知らない筈。
知っているのは、灰被りのお星さまを知っている人間だけ。
「貴方……誰?」
目を細めたキャリーは、ジョージと似たような事を問う。
誰?
そんなもの、私が知りたい。悪役令嬢としての役目を全う出来ていない悪役令嬢。私は一体、何故この世界に来てしまったの。
「私は、エリザ・バートレイ。ドーラム公爵家の娘よ。いい加減その顔を遠ざけてくださる?キャリー・ホップス」
格下のくせにと小さく付け足し、エリザは出来る限りしっかりと背中を伸ばしてキャリーを睨みつけた。
悪役令嬢、エリザ・バートレイらしく。
「貴方が何故私とジョージの仲を気にするのかは知らないし興味も無いけれど……口出しされる謂れは無いわ」
「……突然仲睦まじいお姿を見かけるようになりましたから、気になりまして」
姿勢を正したキャリーは、鉢を持ったままにこりと笑う。口元はゆったりと微笑んでいるが、目は温度を感じない。
「さあね。どうでも良いでしょう?貴方には関係無いわ」
「関係あるわ。何で、アンタが」
「はあ……何か思い違いをしているようね?貴方は伯爵令嬢、私は公爵令嬢。学園の中では等しく学生とは言われますが……実際はきちんと貴族社会の階級が貴ばれています。貴方は今、ドーラム公爵令嬢をアンタと呼んだの?聞き間違いかしら」
下から睨みつけるように、キャリーの顔を覗き込む。売られた喧嘩は買ってやるのがエリザの本来の性格。今自分がエリザではないと疑われているのなら、本物らしく振舞った方が良いだろう。
「鉢を持って持ち場に戻りなさい。今の発言は聞かなかった事にしてあげるわ」
「何を……」
「聞こえなかった?戻れと言っているの。他にも記録しなければならない鉢が残っているのよ」
トン、トン、と指先で机を叩く。
これ以上同じ事を言わせるなと威嚇している事に気付いたキャリーは、ぐっと唇を噛みしめて静かに踵を返した。
「フン」
小さく鼻を鳴らし、エリザはじっとキャリーの背中を見つめる。掌は、じっとりと汗で濡れていた。
◆◆◆
邪魔だ。
じっと静かに一点を見つめるエリザの視線の先には、楽しそうに微笑んでいるキャリーの姿があった。
冬休み休暇前まで、ルイスとジョージ、アイラを交えた四人で過ごす事はあった。だがそこに、キャリーの姿は無かった。
「ふふ、殿下はとても面白い方ですね」
上品に笑っているつもりなのだろう。キャリーは口元を隠してクスクスと笑っている。
何故、彼女がここにいる?
どういうわけだか、温室で詰め寄られて以来、四人で過ごしていた筈の時間は五人の時間になっていた。当たり前のようにアイラと共にやってきて、一緒に過ごす。会話にも上手に入り込み、エリザがキャリーを追い出そうとするには、少々分が悪い空気になってしまう。
「ジョージ様もそう思いませんか?」
にっこりと微笑んだキャリーが、ジョージの腕に軽く触れながら問いかける。アイラは気まずそうな顔をするが、ジョージは嫌がる素振りすら見せずに「ああ」と答えるだけ。
「そうかな?私はあまり面白みのない男だよ」
「殿下と過ごす時間、とても楽しいです」
気まずい光景から目を逸らす様に、アイラはルイスに言葉を返す。それとなくエリザに話題を振ろうとしてくれたのか視線を此方に向けたが、すぐさまキャリーが言葉を挟む。
いつもこの流れで、エリザは完全にその場にいるだけで会話に入っていけない。
別にそれでも良い。適当な所で抜け出して、一人だけ先に帰る。四人で楽しく過ごしてくれれば、それで良い。ルイスとアイラが仲を深めてくれたらそれで良い。
「……そろそろ迎えが来ますので、失礼いたします」
「もうそんな時間かい?すまないね、長いこと捕まえてしまった」
「いえ、またお誘いください」
にっこりと微笑みながら頭を下げると、ジョージも立ち上がってエリザと共に歩き出そうとする。
「ジョージ様、少し聞きたい事がありまして!」
「え、あ……」
「お話したいんですって。私は良いから、残って」
それじゃあねとジョージに手を振った。ジョージの腕にはキャリーの手が乗せられ、勝ち誇ったような目を向けられる。
なんとも、気分が悪い。
エリザの知るゲームの中のキャリーはこんな女ではなかった。もっと控えめで、攻略キャラクターたちと接する事も無い。それがこれだけ関わってくるのなら、あのキャリーはエリザの知るキャリーでは無いと考える方が自然だろう。
「……まさかね」
ゲームの世界に転生するなどという、有り得ない事を経験した人間が二人もいてたまるものか。いくら自分が、経験している事だとしても、信じたくはなかった。




