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17. リュディアの決断

 夜が深まるほどに、伯爵家の広間に漂う空気は重みを増していた。壁際に押しやられた家具の山と、中央に整えられた魔法陣。寝台の上、エリス夫人はかすかな寝息を立てているように見えるが、その表情は苦痛を押し殺すかのように強張っている。

 灯りは魔導灯を数か所に置いただけ。ゆらりと揺れる光の中、ユイスとレオンが最後の確認を済ませる。トール、エリアーヌ、ミレーヌは広間の隅に集まり、それぞれ隣を見つめながらひそひそと会話していた。


 やや離れた入り口付近に立つリュディアは、母を見つめながら眉を寄せている。張り詰めた面持ちだが、その内側にある焦燥までは隠し切れない。そこへ低い足音が近づいた。大柄な男たち——保守派の手の者らしい数名が、吐き捨てるように言葉を発する。


「刻印再編とは異端もいいところだ。…まぁ成功などしないだろうがな」

「貴族社会に長く伝わる血統魔法を捨てるような真似をして、ただで済むと思うなよ。伯爵家と我々との関係を断ってもよい、というなら別だが」


 その響きに、広間の奥で控えていたイヴァロール伯爵の家臣が青ざめた表情を浮かべる。伯爵自身も、隣に駆け寄ってきた家臣に小声で何やら聞かされ、顔をしかめたまま答えに詰まっているようだ。

 保守派の一人が深く息をつき、今度はリュディアに視線を向けた。

「あと少し考え直す時間はあるぞ。伯爵家の後継が潰れてもいいというのなら、好きにするが……お前の母上を見殺しにしたほうが、結果的に家名は守られるんじゃないか?」


 その言葉にリュディアは喉を詰まらせ、すぐに激しい視線を返す。だが、言い返そうにも言葉が出てこない。目線は母へ、そして保守派の男へと行ったり来たりを繰り返す。

 傍らからトールが一歩前に出ようとしたが、エリアーヌが小声で袖を掴んで止めた。彼らがここで無闇に口を挟めば、リュディアの立場がさらに厳しくなる。それは分かっている。トールは悔しそうに唇を噛む。


 ◇◇◇


 広間の一角に組まれた簡易作業台にノートを広げ、ユイスは密かに息を吐く。手元にあるのはレオンが解読した古文書の写しと、今しがた完成させた新たな数式。

「ほとんど形にはなったよ。あとは実行に移すだけだ」

 レオンがノートに視線を落としたまま呟く。少し血色の悪い頬に、薄い汗が滲んでいた。

「結局、暴走した刻印の力を封じ込める仕組みが鍵だった。数式魔法なら、一時的に力を分割して抑え込めるはずだ。もっとも……コントロールを誤れば危ないがね」


 ユイスは頷きながら指先でノートを叩く。

「でも、これならエリスさんを助けられる。……この機会を逃したら、たぶんもう間に合わない」

 その言葉にレオンはちらりとリュディアの横顔を見やった。広間の真ん中で母のそばに立つ彼女は、今にも悲鳴を上げそうな表情で固まっている。


 ◇◇◇


 保守派がリュディアへ詰め寄ろうとしたとき、ふいに伯爵の家臣が間に入った。

「失礼ですが、イヴァロール伯爵はすでに“やるしかない”とお考えです。ここでの口出しは……」

「黙れ。伯爵など、後ろ盾を失えば領民の管理すらままならなくなる。まして家臣はもっと生活が苦しくなるぞ?」

 男は冷ややかな笑みを浮かべる。どこか楽しんでいるかのようでもある。その視線が再びリュディアをなぞった。

「娘君よ、母君を切り捨てれば丸く収まるというのは、もう説明したはずだ。“平民の血”など気に病むことはない。代わりに我々が支援してやろう。伯爵家の繁栄こそが重要なのだから」


 リュディアは思わず目を閉じる。胸の奥で熱いものが湧き上がり、顔に血が上るのを感じる。母を切り捨てろと言われ続ける苦しさ。家の名誉か、母の命か——なぜこんな選択を迫られるのか。


「あの……」

 声をかけたのはエリアーヌだった。まるで臆するように後ろへ下がったまま、か細く言葉を紡ぐ。

「ごめんなさい、でも……その、伯爵家を守るために、お母様を捨てるなんて……」

 言葉に詰まった彼女を見やって、保守派の男は鼻で笑う。

「勘違いするな。貴族家というものは血統が最優先。“余計な要素”が混入するからこそ病が起きる。娘の地位を守りたいなら、邪魔な存在は排除すべきだろう」


 ◇◇◇


 そのとき、ユイスがノートを閉じて立ち上がった。彼はテーブルを離れ、そっとリュディアの肩越しに声をかける。

「刻印再編の準備はほぼ完了だ。エリスさんを救える確率は高い。……ここで逃げたら、リュディアは一生後悔すると思う」


 リュディアが小さく息を呑む。

「だって、あなたはフィオナの——あのとき救えなかった人を重ねているんでしょう? わたしの母に」

 ユイスは眉を寄せるが否定しない。その表情からは、かつての忌まわしい記憶が脳裏にちらついているのが分かるようだった。

「ああ…だから、もう後悔させたくない。あなたにも、俺自身にも」


 レオンも隣に進み出る。

「俺が解読した限り、暴走の根源は平民の血が理由じゃない。古い血統呪縛の儀式手順に問題があって、それが平民出身者には適合していないだけだ。やり方を変えれば、理論上は正常化が可能だ」


「でも理論で助かるかどうかなんて、まだ分からないじゃない……」

 リュディアが微かに声を震わせる。成功したいという思いと、失敗への恐怖がせめぎ合っているのが痛いほど伝わる。ユイスは小さく息を吐き、目を合わせた。

「正直、約束はできない。でも、成功すれば確実に母を救える。保守派が平民血を否定する根拠だって崩せるはずだ。伯爵家が“古い常識”から解放されるかもしれない。……リュディア。君はどうしたい?」


 問いかけられたリュディアの瞳が揺れる。背後の保守派が苛立ちと不安を交えた足音で床を鳴らす。

「もし実行したら、伯爵家は確実に破滅するぞ。こっちから手を引けば、領民に対する保護も予算も、一瞬で崩れる。むろん令嬢の学園生活も無に帰すだろう」

 嫌味たっぷりのその声に、リュディアは思わず唇を噛んだ。刻一刻と過ぎる沈黙。トールは落ち着かない様子でかかとを上下させ、エリアーヌやミレーヌもリュディアに視線を集中させている。


「あの……もう時間がないんだ。エリスさんの容体は、いつ急変してもおかしくない。ぼくたちは待ち続けることしかできないよ」

 ユイスの静かな声に、リュディアが強くまぶたを閉じる。何秒かの呼吸のあと、彼女は一気に目を開けた。


「……わたし、もう迷いたくない。母を見捨てるなんて絶対にできない。母を救うために、ここまで必死になってきたのに、最後で背を向けるわけにはいかないわ」

 保守派が口を開きかけるが、リュディアは先に言葉を紡ぐ。

「たとえ伯爵家を失ったとしても、母を失うよりはまし……これはわたしのわがままなんでしょうか。でも、わたしはもう後悔しない」


 声が震え、視線も涙で潤む。それでも彼女は口を閉じず、胸の奥にある思いを吐き出すように叫んだ。

「あなたたちが脅してくる“家名”なんて、わたしにとっては母ほど大事じゃない。……そうでしょう? 父だって、本当はそう思ってるはずよ!」


 伯爵はその言葉を耳にしても、一言も発しなかった。壁際でうつむいているが、その背中には大きく揺れる迷いの影が映っている。保守派の男たちは勝ち誇ったかのような苦笑を浮かべ、肩をすくめてみせた。

「愚かな……後で泣きを見ることになるぞ。まあいい、どうせ失敗するだろうからな」


 そう捨て台詞を残して保守派たちは背を向け、足音荒く広間を出ていく。残されたのは、リュディアが必死に抑える息と、寝台に伏したエリス夫人の浅い呼吸音。トール、エリアーヌ、ミレーヌが「大丈夫?」と心配げに駆け寄ると、リュディアは震える声で「ありがとう、大丈夫……」とこぼす。


 ユイスは一歩リュディアに近づき、そっと視線を合わせる。

「踏み切るんだね。大丈夫、ぼくらが絶対に成功させるから」

 リュディアの唇が震える。だがその瞳には、確かな覚悟の色が灯っていた。涙が零れ落ちそうになるのを、必死に食いしばってこらえている。


 広間に張り詰めた空気の中、レオンが淡々とノートを閉じる。

「……それなら準備を急ごう。母上を救い、そして伯爵家にも新しい道を示すために」


 リュディアが小さく何度も頷く。そして寝台で苦しむ母へ向け、震えながらかすれた声を送った。

「もう少し、頑張って。……わたしも、お母様を捨てたりしないから。絶対に救ってみせる」


 そう言ったきり彼女は目を伏せる。父も家臣も、すべての言葉を飲み込んだかのように沈黙していた。だがユイスとレオン、そして仲間たちがそばにいる。それぞれが心の中で固めた決意は、保守派の脅しを打ち消すだけの重さを帯びている。


 ──もう、戻れない。

 リュディアが最後に震える拳を握りしめ、堅く意志を固めたその瞬間、屋敷の外からかすかな風が窓のすきまを抜け、陣の上をそっと揺るがした。

 エリス夫人が微かに声を漏らす。まるで「ありがとう」と呟いたかのようにも、あるいはただ呻いただけなのか、はっきりとは聞き取れない。


 しかし、もう彼女を孤独にさせるわけにはいかなかった。

 リュディアが涙を拭い、うなずき合うユイスたち。静寂の中で、全員の視線がひとつの方向を見据えている。

 平民出身の母を切り捨てるか、それとも伯爵家を捨てるか。そんな無情な二択など、彼らは受け入れない。


 不穏な沈黙が落ちた広間の空気を切り裂くように、リュディアは再び視線を上げる。

「母を助けるためなら……どんな未来が来ても、わたしは戦う。ユイス、レオン……みんな、力を貸して」

 誰も答えなかったが、その瞳には覚悟の光が宿っていた。部屋の隅の父も、かすかに目をそらしながら頭を垂れている。否定はしない。

 次なる試練はすぐそこまで迫っていたが、後悔を残す道など選ばないために。

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