16. 刻印再構築の準備
ユイスとレオンが詰め込んだ資料や小さな魔道具類を控え室のテーブルいっぱいに並べ始めたのは、まだ朝の光が廊下を照らしはじめたばかりの時刻だった。前夜の徹夜の疲労が抜けきらない様子だが、彼らの動きに迷いは見えない。かすかに聞こえるエリス夫人の寝息を意識しているのか、言葉数こそ少ないものの、二人ともその指先だけは休むことなく術式の確認を続けている。
部屋の中央には、伯爵家の使用人が慌てて持ち込んだ魔力干渉計や、状態を把握するための古い術式陣が敷かれていた。レオンが古文書を片手に、何度もその陣とノートを行き来している。
「古代儀式の記述からすると……婚姻時の儀式によって付与された刻印が変質しているのは間違いない。だけど、これは本来貴族同士の間でしか発生しない前提で書かれている。平民の血が混ざっているケースは想定外なんだな」
「つまり、このままだと伯爵家の血統魔法が暴走しかけてる状態かもしれないってことか」
ユイスはノートのページをめくりながら小さく唸る。何枚もの紙に走り書きされた数式や魔法式の断片を、慎重に繋ぎ合わせていく。まるで複雑なパズルのようだ。
トールとエリアーヌ、ミレーヌの三人も控え室の隅で、次々と運び込まれる道具や資材の整理を手伝っていた。
「俺、こっちの魔道具を並べておくぞ! 火とか出さないから安心しろよ」
トールが木箱を抱え込んで苦笑する。昔の彼なら何かと勢いで動き回っていたが、今日はさすがに声を落として静かに作業に集中している。
エリアーヌは急いで花瓶と菓子の包みを片付けながら、ちらちらとノートを覗き込んでいる。
「ごめん、わたしには文字だらけで何が何やら。でも、何か手伝えることがあれば言ってね。ユイスもレオンも、まずは一口何か食べたほうがいいかも」
一方、ミレーヌは紙やインクの管理、そして時折のコスト計算に追われていた。魔道具の資材やら薬草やら、会計簿らしきものを見比べ、額にしわを寄せている。
◇◇◇
控え室の外、長い廊下では声を押し殺したような低いやり取りが続いていた。
廊下側の窓から朝の日差しが差し込む中、イヴァロール伯爵が保守派の数名と対峙している。保守派のひとりが伯爵に詰め寄るように一歩踏み出すと、やや硬い声が響いた。
「伯爵様、あのような異端の魔法研究を、しかもご自宅で行わせるなど、あまりに軽率ではありませんか。もし失敗して夫人の容体が急変するようなことがあれば、イヴァロール家はどう責任を取るおつもりで?」
伯爵は辛そうに眉をひそめ、かすかに頭を下げるように目線を落とす。
「しかし……ほかに方法がない。医師たちは一様に絶望的だと言って、何ら治療策を示してくれないではないか」
「奥方の平民の血が魔力の循環を阻害しているのは明らか。いわば手の施しようがありません。だからこそ“しかたない”のです」
別の保守派が口を挟むように口角を上げる。どこか勝ち誇っている風にも見える態度に、伯爵は小さく息をのむ。
廊下の隅でそれを見ていたリュディアが、一歩踏み出した。
「お言葉ですが、わたしの母は、いまこの瞬間にも高熱で苦しんでいます。皆さんがいくら血統の整合を語ろうとも、誰一人として母を助けられないのなら、わたしはユイスやレオンに賭けるしかない。ほかに道があるというなら教えてください」
保守派の一人が、リュディアを値踏みするような目つきで見返す。
「お嬢様、たとえ運よく一時的に病が緩和したとしても、平民の血が混じった刻印に安定は期待できません。無謀な数式魔法を試すほうが、かえって家の名誉を傷つける可能性が高い。そんなことも分からないと?」
「名誉を守るために母を捨てるなんて、おかしいと思いませんか。お父様だって、そのためにここまで悩んでいるのでは?」
リュディアが鋭い口調で言い切ると、伯爵はうなだれたままだが、小さく頷くようにも見えた。
「娘の言う通りだ。わたしにも妻を見殺しにするなど…やはり考えられない。伯爵家の正統性云々は……そのあとでいくらでも対策を立てよう」
伯爵の消え入りそうな声を聞いた保守派たちは、明らかに不満げな顔を見合わせる。だが強引に止めれば、リュディアと伯爵が完全に改革派へ靡くかもしれないと考えたのか、やがて渋々と口を閉ざした。
「……よろしい。どうせ失敗すれば、それがあの“異端研究”の危険性の証拠になるだけですから。わたしどもは、一応黙って見届けることにしましょう」
最後にそう捨て台詞を残すと、数人は低い笑いをこぼして廊下を去っていく。
リュディアはぎゅっと拳を握りしめたまま立ち尽くした。近づいてきた伯爵が、小さく娘の背に手を置く。
「リュディア……すまない。結局、父親として、わたしが断固とした態度を示せないばかりに……」
「父様が悪いわけではありません。でも、一度始めた以上、わたしは母を絶対に助ける。伯爵家の名誉がどうとか言っていられない」
視線を伏せる伯爵に、リュディアははっきりとそう告げた。どこか吹っ切れたような横顔に、伯爵は複雑そうなまなざしを落とす。
◇◇◇
一方、控え室。
レオンは最後の一枚になった古代文字の資料を閉じると、息を吐いた。
「……今のところ、理論上は刻印の暴走を抑えて、再構築する方法が見えてきた。小さな魔道具に分割して管理すれば、一気に母君の身体を危険にさらすこともないはずだ」
ユイスは頷きながら、自分が書いた数式演算のメモと照合している。
「刻印から溢れた魔力をどう封じ込めるかが問題だ。安全策として、儀式陣の周囲に遮断壁を展開する必要がある。ここまで準備するとなると、いまの狭い寝室じゃ難しい」
「どこか広めの空間が欲しいな。伯爵家内で儀式を行うなら、大きな広間かホールのような部屋があるのでは?」
レオンの提案に、トールが声をあげる。
「そんな広い部屋なら、でっかいテーブルとかソファとか置いてあるだろ? あれも全部片付けなきゃじゃないか。結構手間になるぞ」
「でも、ここで失敗するよりはマシだよ。わたしたち、やるしかないんだもの」
エリアーヌがそう返して、手近な道具を片づけ始める。
そこへ、廊下で保守派を追い払ってきたリュディアと伯爵が顔を見せた。リュディアはすぐに控え室の窓辺まで来ると、ずらりと並んだノートや道具を視線で追いかける。
「みんな、忙しそうね。……ごめんなさい、わたしは父との話に時間を取られて、何もできなくて」
ユイスが肩をすくめるように笑う。
「大丈夫。それより、エリスさんを移せる広い場所があると助かるんだけど。ここじゃ狭すぎるし、何かあった時に逃げ道も確保したい」
伯爵が記憶を探るように少し首をかしげる。
「……一階に広間がある。客を招く大きな場がな。そこなら家具をどかせば結構なスペースが空くだろう。痛まないよう指示を出しておく」
決まりだ、とユイスは気合いを入れ直すように短く息をついた。
「じゃあ、これから広間のセッティングに入ろう。エリスさんの身体を動かすのは危険だけど、もうそれしかない。トール、手伝ってもらっていいか?」
「任せとけ。いまこそ俺の体力を生かす時だな」
トールが腕まくりをして笑う。ミレーヌやエリアーヌも小走りで一階へ向かい、家具を隅に寄せる作業やら床の掃除やらを始めようとする。
リュディアは一度だけ病室へ向かった。母を少しでも安定した状態で移せるよう、使用人たちに指示を出すためだ。伯爵は廊下を急ぎ足で進んでいく保守派の人影を見やりながら、何度も「娘の決心が揺らがぬように」と念じているのが分かるような表情をしていた。
◇◇◇
夕刻に近い時間、伯爵家の広間はすでに応接用の家具がすべて取り払われていた。壁際に使用人たちがバタバタと移動させたソファやテーブルが積み上げられ、閑散とした真ん中に魔法陣を展開するスペースがぽっかり生まれている。
床にはユイスとレオンが二人がかりで描き込んだ数式陣が繋がり、周囲には封印を補助するための魔道具がいくつも設置されていた。
ミレーヌが先ほど点検をしていた魔道具をそっと置き直し、埃を払いながら「これで大丈夫だよね…?」と小さく呟くと、エリアーヌが「うん、たぶん」と微かな笑みで返す。
そこへ扉から、エリス夫人を乗せた小さな寝台が動かされてきた。リュディアと使用人が慎重に運び込み、広間の中央までゆっくり進む。夫人の呼吸は浅く、顔色は白く冷たい。時折うわ言のように声を立てるが、その言葉をはっきりと聞き取ることはできない。
「……お母さま、大丈夫だから。少しがんばって」
リュディアが母の枕元で囁くと、夫人のまぶたが一瞬だけ薄く開いた気がする。でもすぐにまた閉じてしまう。
ユイスとレオンが陣の点検を終え、伯爵が心配そうに娘と視線を交わした。廊下の向こうには、先ほどまで不満を述べていた保守派の配下が複数人、じっと様子を見張っている。何かあればすぐに口を挟むつもりらしい。
広間の中は静寂に包まれた。誰も声を上げない。だがその静けさこそ、これから始まる行為の重みを物語っていた。
ユイスはごくりと唾を飲み下す。そして小さく背伸びをしてから仲間たちを見回す。
「……今夜、この陣を使って本格的に儀式を行う。エリスさまの体調と、こちらの準備を万全に整えたうえで始めよう。トール、もし何かあって暴走したら封鎖壁の補助頼む。エリアーヌとミレーヌはサポートを。レオン、最終確認を頼むよ」
一人ひとりがうなずく。その目にはいろんな思いが混ざっている——緊張、決意、そしてわずかながらの希望。
リュディアは伏せていた視線を上げて、父とユイスへ向き直った。
「わたしも協力させて。母を救えるなら、危険でもやるしかない。……ありがとう。あなたたちがいてくれて、本当に」
伯爵は苦い顔のまま肩を震わせる。屋敷内に充満した保守派の視線から逃げたいわけではないが、それをどう抑え込めばいいか分からないのだろう。
しかしもう迷う猶予はない。ユイスはそんな伯爵の様子を横目に見ながら、再びノートを開いて夕陽を受ける数式陣へ視線を落とす。
日が沈めば照明は魔導灯だけになる。限られた明かりの中で、この儀式を敢行するしかなかった。
「さて……準備を急ごう。絶対に成功させる。エリスさんを救うために」
その小さな呟きを聞きとめたリュディアが、軽く目を伏せて何かに耐えるように息を吐いた。
広間の窓の外、空はゆっくりと赤紫色に染まっていく。伯爵家の中には静かなざわめきと、保守派の厳しい目線が漂っている。だがユイスたちは迷わない。時間との勝負だ。
今はただ、数時間後に始まる儀式を無事に成功させるため、それぞれが動き出す。少しでもエリス夫人の容体を安定させ、数式魔法が正しく刻印を再構築できるように。
日没が近づくにつれ、彼らの決意もまた、より濃い闇を切り裂いていこうとしていた。




