15. 到着
まだ空が薄墨色を残しているころ、馬車が石畳を鳴らしながら伯爵家の正門へと滑り込んだ。朝焼けの朱色が地平を染め始める頃合いだ。
後部座席に身体を預けていたユイスは、ノートを抱えたままうたた寝寸前になっていたが、ふいに馬車が止まる衝撃で目を開けた。窓の外には高く伸びた門柱がそびえ、屋敷の向こうに大きな樹影が見える。
「着いたか…」
自身も眠気をこらえていたレオンが低くつぶやく。ノートを抱え込んだままのユイスにちらりと視線を送り、馬車の外へ先に足を下ろした。残っていたトール、エリアーヌ、ミレーヌも続く。みな徹夜の連続で顔色は冴えないが、どこか張り詰めた気配がある。
「止まれ! こんな朝早く何の用だ!」
門番が駆け寄り、まだ小走りのまま敬礼をするような、しないような中途半端な態度を取った。よほど驚いているのか、扉を開く手もぎこちない。
「イヴァロール伯爵家に、緊急で来た。奥方のエリス夫人はどんな様子だ」
先頭に立ったユイスの声に混じる焦りを感じ取ったのか、門番の視線が戸惑いながら揺れる。だが奥に通すか迷うより早く、屋敷内から走り寄ってきた使用人が「案内いたします」と頭を下げてきた。
伯爵家の広い敷地に、夜明けの涼しい風が入りこむ。庭先には朝露を含んだ芝が一面に広がり、まだ薄明かりの中で眠っているようにも見えた。だが静かとはいえない空気だ。奥のほうで慌ただしい足音が響いている。
使用人に導かれるまま玄関ホールへ入ると、待っていたのはリュディアの父、イヴァロール伯爵本人だった。昨夜から動き回っていたのか目の下がやつれている。
「…なんだ君たちは。一体どういうつもりだ。学園からすぐに駆けつけたと聞いたが…」
その問いに、ユイスは大きく息をついてから口を開く。
「リュディアの母上…エリスさんを救う術式が、ほぼ完成しそうなんです。急いで来たのはそのためです」
伯爵は一瞬驚いたようにまばたきしたが、すぐに険しい表情に戻った。
「血統魔法とは違う…あの“数式魔法”とやらで、ということか」
「はい。まだ最終調整は必要ですが、奥様の命を危険にさらすことなく、刻印を再構築できる可能性があります」
レオンも脇で頷き、手元の古文書の写しを示した。伯爵はそれに目を落とし、複雑な面持ちで視線を左右に走らせる。
そんなとき、廊下の奥から急ぎ足で歩いてきた人影があった。淡い金色の髪が乱れ、いつもの凛とした印象とは全く異なる姿だ。
「ユイス、レオン…みんな」
呼吸を切らしながらこちらへ駆け寄ってきたのはリュディアだ。夜通し母のそばを離れずにつき添っていたのだろう、目元に暗い影がある。だがその瞳には、わずかな安堵の光も混じっていた。
「来てくれたのね。父や医師たちに何度言っても、なかなか取り合ってくれなくて…」
ユイスの手元にあるノートをじっと見つめるリュディア。すぐにも内容を確かめたいという思いが伝わってくる。
「伯爵様には、ぼくたちに準備の時間を与えてほしいんです。エリスさんの刻印を再構築するために必要な工程があります。もちろん、成功の保証はまだ完全ではありません。でもやらなければ状況は変わらない」
リュディアが一瞬こちらを見る。言葉こそ飲み込んでいるが、“どうか力になって”という強い気持ちが痛いほど伝わってきた。伯爵は渋い表情を浮かべ、しばし考え込む。
「正直、保守派の医師たちからは“余計な魔法実験をして伯爵家の名誉を傷つけるな”と、ずっと言われている。妻が平民の血を持つせいで、これ以上変な噂が立てば……」
「そんなことで……お母さまを見殺しにするつもり?」
リュディアがかすかに声を震わせる。伯爵は苦しげに唇を引き結んだ。
そこへ控えめな咳払いが響いた。振り返ると、保守派とつながりが深いとされるデイムローズ子爵の配下らしき人物が立っている。
「お取り込み中失礼いたします。伯爵様、学園の生徒たちが騒ぎ立てるのはご家門の品位にも関わるかと。夫人の容体に関しては、我々が呼んだ医師が診断を続けておりますので…」
その口調には、見下すような響きが隠しきれない。実際、リュディアの存在をちらと見るだけで、あからさまに軽んじているのが分かった。
ユイスは悔しさを覚えつつ、伯爵に向き直る。
「ぼくらは騒ぎ立てるために来たんじゃありません。原因が何であれ、エリスさんを救う方法を試したいんです。お願いです、協力させてください」
伯爵の視線は行ったり来たりを繰り返す。デイムローズの配下とユイスたちの間で逡巡している様子だ。
そのとき背後から優しい声がした。
「お父様…もういいの。わたしから話すわ」
リュディアが前に出た。自分の家のことなのに、伯爵が明確な答えを出せない。それならばと意を決したのだろう。
「父も何もわからないまま母を放っておきたくないのよ。あの医師たちは“平民の血が身体に悪影響を及ぼしている”と言うけれど、具体的な治療策を示してくれたわけじゃない。数式魔法が危険だと言うのなら、その根拠を出してほしい。ユイスたちが一番熱心に母の治療法を考えてくれているのに、それを止められる理由があるの?」
配下の男は明らかに不快そうな表情を浮かべたが、伯爵は苦しげに息を吐いた。そして疲れ切った声でぽつりと言う。
「……分かった。これ以上妻が衰えていくのも見ていられん。どのみち打つ手がないのだ。お前たちが試す価値を見いだせるなら、もはや止めはしない。ただし、もし万が一のことがあれば…」
その言葉を聞いて、リュディアが小さく肩を震わせた。それが喜びなのか恐れなのかは判然としない。ユイスは彼女の横顔を一瞬見つめると、決意を込めた視線で伯爵に向き直った。
「ありがとうございます。レオンや仲間たちと一緒に最善を尽くします」
◇◇◇
リュディアに案内されるまま廊下を抜け、エリス夫人の寝室に近づくたび、空気がひんやりと重く感じられた。扉の外では看病用の湯と薬が置かれているが、整然としているはずの道具が何となく雑然としているようにも見える。多くの人が出入りした名残かもしれない。
寝室の中は思ったより静かだった。ベッドの上にはエリス夫人が薄い毛布をかけられて横たわり、奥の窓から差し込む朝の淡い光が彼女の頬を照らしていた。呼吸はかすかに聞こえるものの、時折痛みに耐えるように顔をしかめている。
傍らに控えていた看護係らしき老女が、小声でエリス夫人の様子を説明する。高熱はひとまず下がったが意識が混濁し、眠りも浅く深くを繰り返す。保守派の医師は「彼女の身体はすでに回復困難」と言い残したきり、まともな治療をせずに立ち去ってしまったらしい。
「ひどい…」
つぶやいたのはエリアーヌだ。彼女は差し入れに、と軽い菓子の包みを抱えていたが、エリス夫人の顔を見ると足がすくんだように動けなくなる。
リュディアはそっとベッド脇に腰を下ろし、毛布の上から母の手を包んだ。母が微かに瞼を開き、意識の朧な状態で娘を見つめる。言葉は出せないのか、小さく唇が震えるだけだった。
ユイスはその様子を見て、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われる。フィオナを救えなかったときの、あの喪失感がかすかに胸を刺した。もう二度と、こんな光景は見たくない。
「必ず助ける。だから、あと少しだけ待っててほしい」
ユイス自身に言い聞かせるように、夫人の寝顔を見つめながらつぶやいた。
◇◇◇
しばらくして、伯爵家の控え室に場所を移すと、レオンが古文書の写しを広げた。隣ではトールがくたびれた様子で身体を伸ばし、ミレーヌが慌てて空の給水ボトルを探している。エリアーヌは持ってきた菓子を並べようとするが、どれも作業に没頭するユイスとレオンには届いていないようだった。
「母上を救うために、血統が絡んだ呪縛を再構築するって……どういう仕組みなの?」
リュディアの問いに、レオンは面倒くさそうに眉をひそめるが、少しだけ神経を集中させて口を開く。
「イヴァロール家固有の刻印が、平民の血との不整合を起こしているんじゃないかと俺は見てる。その根本が分かれば、ユイスの数式魔法で式を組み直せるかもしれない」
「ただ……危険はあるんだ。下手をすれば既存の魔力が暴走して、エリスさん自身を傷つける可能性もある」
ユイスがそう付け足すと、リュディアの表情が強張った。
そこへドア越しに鋭い視線を感じる。保守派の監視役なのだろう、控え室の前をわざとらしく行き来している足音が響いていた。
ユイスは一瞬そちらを見やり、声を潜める。
「でも、やるしかない。リュディア……最後まで協力してくれるか?」
リュディアは視線を落とし、震えそうな手をぎゅっと握りしめた。そして小さく、しかし確かに首を縦に振る。
「わたしもずっと傍にいる。母を助けたい。その思いだけは絶対に揺らがない」
皆の視線が交差する。寝不足で瞼の重い仲間たちも、「やるしかないんだな」と腹をくくったようだ。遠くから保守派の重々しい足音が近づきかけては離れていく。
朝の冷たい光が控え室の窓から差し込み、外はようやく完全に夜明けを迎えていた。
ユイスはノートをぱらぱらとめくり、複雑な数式が並んだページに指先を走らせる。その先にあるのは未知の術式。それが確実にリュディアの母を救う一筋の光になるかは誰にも分からない。
薄明かりから朝の陽射しへ。刻一刻と変わる光の中、ユイスとレオン、そして問題児クラスの仲間たちは、急ぎ術式準備に取りかかろうとしていた。
控え室の外では、保守派の男がそれを傍受するように耳を澄ませている。その気配を感じながらも、ユイスたちは互いの決意だけを頼りに、エリス夫人を救う手立てを形にするべく動き始めるのだった。




