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14. レオンの小さな一歩

 夜の静寂が深まる学園の書庫で、レオン・バナードは埃をかぶった古い文献をかき分けていた。両手には数冊の分厚い書物。時々、本の端に張り付いた紙片がはらりと落ちるが、彼はそれを拾い上げることもなくページをめくり続ける。


「……残りは、これと……こっち、か」


 声はやや掠れている。ここ数日はロクに寝ていないせいで喉も喉で痛むが、今さら気にする余力などない。リュディアの母を救うため、自分が持つ知識を全力で活かさねばならない——そう思えるようになったのは、つい最近のことだ。


 かつては「どうせ俺なんか」と卑屈になり、何もしないまま日々を消費していた。それが今や、こんな深夜まで古文書を漁る男になっている。


「レオン、大丈夫? もう朝になっちゃうわよ?」


 書庫の入り口から、小さな声がかけられる。エリアーヌ・マルヴィスだ。彼女もまた“問題児クラス”と揶揄されてきた仲間の一人。少し不安げに眉を下げながら、両手に湯気の立つ飲み物を携えて近づいてくる。


「ありがと。……でも、まだ寝られそうにない。どうしても確かめたい部分があるんだ」


 レオンは本から顔を上げず、エリアーヌの差し出すカップを受け取った。温かな香りが鼻をくすぐる。薬草茶のようだ。こういう気遣いを欠かさないのが彼女のいいところだと、内心で思う。


「ユイスたちは? 夜の研究室にこもったまま?」


「うん。ユイスも検証に夢中。何度か私が行ったんだけど、集中してるときに邪魔しちゃ悪いかなって……」


 エリアーヌはカップを持つレオンの手をそっと見やる。彼の指先は古文書をたどりすぎてインクや埃で汚れている。しかし当のレオンは平然とそれを無視してページを繰る。


 もともとあまり熱血というタイプではなかった彼が、これほど熱を込めて研究に没頭する様子は、仲間ですら驚きだ。だが今の彼には“自分にしかできない役目”がある。


「……この一節、やっぱり伯爵家の血統に関連があるな。かつての封印儀式で、平民の血が交じると、逆に刻印が暴走する可能性が高まると書いてある」


 古めかしい文章を読み解きながら、レオンは浅く息をついた。


 リュディア母の病には、伯爵家特有の血統刻印——その呪縛が絡んでいる。保守派の医師連中は「平民の血ゆえに、正統なる刻印が混乱している」と切り捨てるばかり。だが、その実態はもっと複雑に違いない。


 血統の力は時に“呪い”にも転じる。文献を探るうちに、レオンはその片鱗を確信していた。


「これさえ解き明かせば……数式魔法で刻印の『書き換え』が可能かもしれない」


「刻印の書き換え、ね……」


 エリアーヌは難しそうな表情を浮かべたが、すぐに軽く首を振る。


「でも、レオンならできるって信じてるよ。ユイスも言ってたもの。『レオンの解読力があれば、古代術式の裏を取れる』って」


「……まぁ、今まではさ、俺もこんなこと面倒だからやらないって思ってたんだけど」


 レオンは半ば自嘲するように微笑む。だがエリアーヌはそれを否定するように目を瞬かせた。


 レオン自身が気づかぬうちに、彼はどこか誇らしげに見える。これまで「自分には価値がない」と卑屈になっていた彼にとって、“誰かを救う手段を握っている”という事実は、かけがえのないモチベーションになり始めている。


「……もう少し調べるよ。あと一時間、いや二時間。夜が明けるまでには、術式全体をまとめきりたい」


 そう言ってレオンは再び文献に目を戻す。


 エリアーヌは「うん、じゃあお茶は机に置いとくから」と囁き、小走りで書庫から出ていった。きっと自分の仕事に戻るのだろう。むしろ彼女のほうが、皆の様子を気遣って休めていないはずだ。


 そう考えると、レオンはほんの少し心が温かくなる。仲間がいるという実感。以前の自分なら鬱陶しく思ったかもしれないが、今はそれが力になると素直に思える。


 ◇◇◇


 どれくらいの時間が経ったのだろう。


 隣の研究室へ一旦移動し、貴重な禁書や追加の魔法図を探していると、廊下のほうが騒がしい。ミレーヌの慌てた声が聞こえる。


「レオン、これ追加の資料! 見つかったのはこれだけだけど……」


「ありがたい。とにかくそこに置いといてくれ。俺はこっちの解析を先に片付ける」


 大きな紙束を抱えたミレーヌが、ドアを開けながらそそくさと部屋へ入ってくる。彼女は商家の娘だけあって、必要経費や希少素材の入手先など実務面で大活躍だ。


 だが今は「魔道書を探すならどの蔵書室が空いているか」「禁書閲覧の許可を引き出すにはどうするか」など裏方を奔走し、ようやくいくつかの古文献を集めてきてくれたというところだ。


「……ごめん、私、魔法の中身は全然わからなくて……役に立たないかも」


「いや、そんなことない。こうして必要な書物をそろえてくれるだけで大助かりだよ」


 レオンは資料をぱらりと眺めてから、ちらりとミレーヌを見やる。彼女は自分に自信がないらしく、普段から「ごめんね」と言いがちだ。


 しかし今のレオンは、彼女の役割も十分わかっている。自分が効率的に解読を進められるのは、こうして必要物資を完璧にそろえてくれる仲間がいるからこそだ。


「あと少しで術式の全体像が見えそうなんだ。そしたら、ユイスが数式化する段階に入れるはず……」


「ほんと? それなら、リュディアさんのお母様も……」


 ミレーヌの瞳が淡い期待に震える。だが同時に「あがり症」の彼女は、おそらく心の中で「でも保守派に邪魔されるかも……」と不安を抱えているのだろう。


 その表情を見て、レオンはかすかな苦笑を浮かべた。


「まあ、やるだけやってみるさ。ここで投げ出してたら、リュディアが困るだろうし……いや、リュディア母が困るっていうのが一番だな」


「そ、そうだね。……私、あとでトールとエリアーヌに声かけて、馬車の手配とか確認しておくね。伯爵家へすぐ向かえるように」


「頼む。ありがとう」


 ミレーヌが部屋を出たあと、レオンは机の上で積み重なった書物へ視線を戻す。


 ——あの頃の自分は、同じ場面に遭遇しても「面倒だ」と逃げ出していたかもしれない。だが今は違う。誰かを救う方法が、ほんのわずかでも自分の手に委ねられているなら、それを成し遂げたいと思っている。


「……リュディア母を救わないと、あいつ、潰れちまうしな」


 ぽつりと呟いて、レオンはインク瓶に筆を浸す。いくつもの文献から拾い上げた術式断片を、“読みやすい形”にリライトする作業に入る。


 薄明かりの灯火が机上を照らし、彼の瞳はぎらぎらと集中力を放っていた。


 ◇◇◇


 一方、同じ校舎のはずれにある研究室。そこではユイスが一心不乱に数式魔法の制御盤へ書き込みをしていた。


 誰もいない深夜の研究スペース。だが扉の外に人の気配を感じ、ユイスは手を止めてそっと振り返る。


「ユイス、悪い。ちょっと割り込むぞ」


 扉を開けて入ってきたのはトール・ラグナー。その逞しい腕には、どこかの倉庫から運んできたらしい魔道具が抱えられている。


 トールは炎魔法が得意な熱血タイプ。とはいえ、こういう細かい研究に付き合うときは力仕事しかできないと自称しているが、それでも夜通し手伝ってくれるのだ。


「グレイサー先生が、“これも参考にしとけ”って。古い魔力計測器みたいだけど……使えるか?」


「ありがたい。測定が必要な場面も出るかもしれない」


 ユイスはそう答えると、魔力計測器らしき機械をトールと一緒に机へ置き、簡単なチェックを始めた。


 これがあれば、刻印術式を組む段階で暴走の兆候を数値化できる。リュディア母に施す際、制御限界を把握する手助けになるかもしれない。


「で、どうだ? レオンの解読は進んでんのか?」


「進んでる。連絡があった。『かなり核心に近づいた』って。あいつ、普段は皮肉屋だけど、こういうときは本当に頼りになる」


 そう言いながらユイスは自作の数式式図をにらむ。リュディア母の刻印をどう書き換えるか——それは一歩間違えれば命を落としかねない大手術。


 しかし彼の表情には決して暗さはない。今こそ、フィオナのとき救えなかった無念を越えるチャンスだと思っているからだ。


「トール、馬車の準備はどうなってる?」


「エリアーヌとミレーヌが確認してる。夜明けと同時に出せるようにするってさ。あとはおまえらが式を完成させるのを待つだけだ」


「頼む。ここで失敗はできない。絶対、リュディアの母を救いたいんだ」


 ユイスの声は静かだが、その瞳には何より強い意志が宿っている。トールはそれを見て、安心したように頷いた。


「わかった。なんか力仕事があれば言ってくれ。……炎で焼き切るとか、そういうのはさすがに要らねえか」


「切り刻んだら困るな。まあ、手伝いが必要になったらすぐ呼ぶよ」


 軽く笑い合って、トールは研究室を後にする。その背中を見届けたあと、ユイスは計測器に視線を戻した。


「……レオン、早く解読してくれ。そしたらこっちも最終調整に入れる」


 小さく呟き、彼は再び机に向かって数式群と格闘を始める。眠気などとっくに吹き飛んでいる。朝が来るまでに、どうにか術式に最善の安全策を付与したい——そう思うと、不思議と集中が途切れないのだ。


 ◇◇◇


 そのころ書庫では、ふたたびレオンが黙々と筆を走らせていた。


 高い天井から吊るされたランタンの光が、古文書の文字を薄く映し出す。何十、何百もの断片情報をリンクさせるのは至難の業だが、レオンはまるで別人のような集中力を示す。


 やがて少しの手応えを感じ、彼はペンを置いて、大きく息をついた。


「これで……だいたい繋がったか」


 古く難解な儀式言語を無理やり現代の魔法式に焼き直す。加えて、平民の血によって起きる刻印のズレをどう補正するか。そこに数式魔法の理屈を応用すれば、ある程度の回復策が見える——そんな仮説が、ようやく形を成し始めている。


 レオンは紙にびっしりと書き込んだメモをざっと眺め直す。意味不明な符号や単語が混在していて、普通の人なら読むだけで頭が痛くなりそうだ。だが今の彼は微かな興奮に満ちている。


「まさか……俺がこんなに必死になるとはね」


 苦笑が漏れる。


 “自分には何もできない”“どうせ僕なんて”と拗ねていた昔の姿が、遥か遠く感じられる。リュディアの母を助けたい——その一心で突き動かされ、ここまで解読を続けてきた結果、もう一歩先に踏み出せそうなのだ。


「レオン、入ってもいいか?」


 ふいに背後から低い声がして、レオンは振り向いた。見ると、グレイサー・ヴィトリアが扉のところに立っている。問題児クラスの担任だが、普段は放任主義でほとんど干渉してこない。


 そんなグレイサーがわざわざ書庫まで来るとは珍しい。レオンは少し驚きつつも「ああ、どうぞ」とうなずいた。


 グレイサーはコーヒーカップを手に、どこか気だるそうな足取りで近づき、レオンの机をちらりと覗く。


「夜通しやってるようだな。姿が見えないと思ったら、ずいぶんと精を出してるじゃないか」


「まあ、こんな俺でも必要とされてるなら、やるしかないでしょ」


 グレイサーは唇の端をわずかに上げる。それが「悪くない」と言わんばかりの表情に見えた。


「……保守派が、この解読を黙って見過ごすとは限らない。最終的に術式が完成し、伯爵家の夫人が救われれば、あちらさんが面白く思わないのは確実だ」


「わかってます。でも、だからと言って途中で止める気にはなれない。リュディアやユイスが待ってるから」


 レオンの言葉に、グレイサーはそれ以上何も言わなかった。ただ短く「そうか」とつぶやき、少し離れた書棚を見やる。


「おまえら、やりたいようにやればいい。結果を楽しみにしてる。——もっとも、失敗すれば一悶着になるがな」


「覚悟の上ですよ。……先生、俺、もう少しやりますから」


 再び筆を走らせ始めるレオンを見て、グレイサーはコーヒーの香りを漂わせながら踵を返した。


「邪魔したな。夜明けまでには仕上げろよ。馬車が動き出したときに間に合わなければ、意味がない」


 いつものようにぶっきらぼうに投げて、廊下へ消える。その足音が遠ざかったあと、レオンは苦笑混じりにこぼす。


「やれやれ……。先生なりに心配してくれてるのかもな。……よし、続きだ」


 再び書物に向き直る。脳裏には、リュディアが必死にこらえながら「母を見捨てるなんてできない」と言っていたあの表情が浮かぶ。


 そして、守ってやりたいのに守れなかったフィオナの面影もちらりと甦る。あのとき誰かが——いや、自分が本気を出して救えたなら結果は違ったはずだ。


 だからこそ、今度は間に合うように。


 レオンは強くそう願い、最後の詰めに取りかかった。


 ◇◇◇


 日の出まであとわずかというタイミングで、レオンが研究室へ駆け込んできたとき、ユイスもまた山のような術式ノートとにらみ合っていた。


 扉を乱暴に開いたレオンに、ユイスが一瞬驚くが、その表情を見てすぐに察する。


 レオンは笑みすら湛えている。それも、皮肉屋のいつもの歪んだ笑いではない、誇らしげな明るい笑いだ。


「ユイス! だいたい分かった。あの刻印、意外に根本の構造はシンプルだった。平民の血が混じると上手く発動できずに暴走しかけるんだけど……その発動式を数式魔法に適合させりゃ、暴走を抑えられるはずなんだよ!」


「本当か……! じゃあ、あとはおれがリライティングで詠唱を最適化すれば……」


 ユイスがさっとノートを開き、レオンから差し出されるメモを照らし合わせる。そこには複雑な儀式言語が現在の魔法式へ強引に翻訳されている。


 二人は一言も無駄にせず、一気に作業を進める。レオンが解読した要点に対し、ユイスが数式魔法の知識を加え、修正と補強を繰り返す。


「……なるほど。ここの位相演算を逆転させれば、元の血統刻印も再編しやすいわけか」


「そうそう。従来の血統術なら封印なんかで無理やり固定してたけど、数式で可変要素を持たせれば、平民血でも対応できると思う」


「いけるかもしれない。……レオン、ありがとう。おまえの解読がなきゃ絶対無理だった」


 ユイスが真顔で礼を言うと、レオンは少し照れたように顔をそむける。


「別に。……まぁ、今までゴロゴロしてたツケを払ってるだけさ。リュディア母の命がかかってるんだから、当然だろ」


「ふっ……」


 二人の視線が合う。そこにはお互いへの尊重が浮かんでいた。


 そして、奥の部屋から手紙の道具を持ってきたエリアーヌが「できたの!?」とぱっと明るい声を上げる。


「一応、最終段階の設計はまとまった。まだ実際に試す必要はあるけど……もう時間がないからな。伯爵家で直接実行するしかない」


 ユイスが告げると、エリアーヌは満面の笑みで「やったね!」と跳ねる。そして隣で待機していたトールが力強く頷く。


「よっしゃあ! んじゃ、すぐ出発だろ? 馬車は用意してあるぜ。ミレーヌも手配済みって言ってた」


「うん。書き上げた術式は道中で最終確認しよう。レオン、君も来てくれるか?」


「当たり前だ。……リュディア母を救うには、最終的な呪文フローを修正する必要があるかもしれないし」


 レオンはノートと書類を手際よく束ねる。


 エリアーヌとトールもそれぞれ荷物を抱え、準備に走り出す。まるで緊急搬送のような慌ただしさだが、全員の顔には希望が宿っていた。


 リュディア母を救う——その一点に向かって、彼らは迷うことなく伯爵家へ向かうつもりだ。


「じゃあ、行こう。今ならまだ間に合うはずだ」


 ユイスがノートを胸に抱え、仲間たちを見回す。レオンも深く息をつき、小さく頷いた。


「……まったく、こんな夜明け前に慌ただしいやつらだな」


 誰もいない廊下の隅から、コーヒーカップを片手にグレイサー・ヴィトリアが呟いている。その声はどこか呆れ半分、しかし誇らしげでもある。


 仲間たちは気づかぬまま、足早に階段を降りていった。校門の外にはミレーヌが待つ馬車があるはずだ。


 レオンは最後に研究室の灯りを振り返る。昨日まで籠もっていた場所。自分が自分であることを嫌っていた時間。今はもう、そんな暗さは感じない。


「……俺は、逃げないんだ」


 かすかに呟き、レオンは足を踏み出した。


 夜明けがそろそろ訪れる。空は薄い藍色から橙色に変わり始め、学園の塔も明るい光に染まるだろう。その光の下で、彼は生まれ変わるような予感がしていた。


 扉を閉めると同時に、仲間の声がかすかに聞こえる。


「レオン、早く!」「馬車出すわよ!」


「わかった、急ぐから待てって……!」


 こうして問題児クラスの面々は、リュディア母のもとへ向かうべく、一斉に駆け出していく。まだ朝の鐘さえ鳴っていないが、すでに彼らの瞳には明確な目的地が映っていた。


 彼らの乗る馬車の車輪がガタガタと鳴り、学園の門を抜ける。その行方に待ち受けるのは、伯爵家での緊急手術とも言うべき刻印再構築の大勝負。


 レオンは窓から朝焼けを見上げ、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。


 ——自分には価値などないと思っていた。でも、今は人を救うために知識を振るうのだと心に決めた。もう引き返す気はない。


 轍の音が離れていくにつれ、学園の門番が眠そうにまばたきをしている。やがて馬車は視界から消え、そっと風だけがその通りを吹き抜けていった。

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