13. 容態悪化の兆候
深夜の伯爵家は、普段ならあり得ないほど静まり返っていた。廊下には揺れる灯火が僅かに揺らめき、床に映った影を不気味な形に歪めている。リュディアは母の部屋の扉を押し開け、ゆっくりと奥へ足を踏み入れた。
ベッドの上で横たわるエリスは、苦しげに胸を押さえながら浅い呼吸を繰り返している。先ほどまで落ち着いていたはずの高熱が、また急にぶり返したようだ。額には汗が浮かび、枕元に置かれた水差しすら手に取れずにいる。
「お母さま、冷たい水を……」
リュディアがそっと指先を伸ばし、母の手のひらに触れる。するとエリスの瞳がわずかに揺れ、彼女の姿を捉えた。
「……リュディア……なの、ね」
消え入るような声。リュディアの胸がきゅっと締まる。いつも優しかった母の笑顔が、今ではこうして苦しみに歪んでいる。貴族として体面を守らなければ、そう頭では分かっていながら、娘としては何もかも投げ出してでも救いたい。だが、保守派の医師たちは揃いも揃って「手の施しようがない」と言い放つばかりだ。
「お母さま、少しだけ頑張って……水を飲んで……」
リュディアは母の首を少しだけ持ち上げ、口元へ水差しを寄せる。最初は飲み込むことさえ苦しそうに見えたが、それでもエリスは何とか喉を鳴らし、水を受け入れた。ごくり、と小さな音が響いたのを確かめると、リュディアは安堵ともいえない息を吐く。
◇◇◇
程なくして部屋へ入ってきたのは、イヴァロール伯爵家の当主、すなわちリュディアの父だった。彼の後ろには貴族医師のヴェルト・グラメルが付き従っている。伯爵は部屋に漂う重苦しさをひしひしと感じ取ったのか、会話もなく母のベッドへと視線を落とす。
「……お呼びでしょうか」
先に口を開いたのはヴェルト医師だ。彼はあくまで穏やかな表情を装っているが、リュディアが感じるのは氷のような冷淡さだった。
「リュディア、お前も居たのか」
父の言葉には、疲労と戸惑いが滲んでいた。保守派から母の排除を迫られ、しかし愛する妻を見捨てるなどできないという板挟みの苦悩。娘として、その苦悩を理解したい気持ちと、救うべき母を前に優柔不断に揺れる父を責めたい気持ちが交錯する。
「お父様……母の様子がおかしいんです。高熱だけじゃなく、魔力の流れも乱れているようで……」
そう懸命に訴えるリュディアだが、父は医師のほうへ小さく視線を送る。
「グラメル医師、何とかならないのか」
その問いに、ヴェルトは涼しい顔を保ったまま首を横に振った。
「何度も申し上げておりますが、この症状の本質は“平民血の刻印”が根底にあります。伯爵家の特有の血統魔法と相性が悪いのです。魔力の乱れがここまで進行すれば……残念ですが、手立ては乏しいと言わざるを得ません」
医師の低く穏やかな声。それでもリュディアには、どこか他人事のように聞こえた。
「そんな……平民の血だから仕方ないなんて、許せません……!」
怒りがこみ上げるが、ヴェルトはまるでスルーするかのごとく落ち着いた口調を崩さない。
「これは、血統の問題です。高度な医療魔法は伯爵家としての正しい魔力循環が前提。それを変異させる平民の因子は、余計な負担をかけているのですよ。もし無理やり治療を施せば、伯爵家の名誉にも影響が出ます」
「何を言ってるんですか。母は伯爵家の人間です!」
「あくまで、名門の“正統”としては難しいのですよ。……平民混じりである以上、血統的には“異端”に近いといえましょう。伯爵家の体面を思えば、これ以上騒ぎを大きくするのは……」
リュディアは反論したいが、怒りが言葉となって喉を突き破りそうだ。そんな彼女を見て、父は顔をしかめながらも医師に口を挟む。
「グラメル医師、そこまでだ……。とにかく、エリスを救う手段はないのか。血統魔法以外の方法でも……」
「おや、まさか“数式魔法”などと言い出すわけでは? そんな邪道、私の管轄ではありませんので。あれは魔力ランクの低い者が奇をてらっている程度のものでしょう」
言い放ち、ヴェルトはかすかに肩をすくめる。リュディアの胸には、怒りと絶望が容赦なく突き刺さった。
◇◇◇
ふと、母が苦しげに息を呑み込んだような声を上げる。
「っ……」
リュディアはすぐに毛布を取り、母の肩を温めようとする。だがエリスの肌はさっきよりも熱く、燃えるような体温に変わっていた。まるで体内の魔力が暴走しかけているかのようだ。
「お父様、やっぱり学園に連絡を……数式魔法なら、もしかするかも……」
父は明らかに動揺を見せながらも、すぐに首を振った。
「保守派がそれを許すだろうか。伯爵家が“邪道”を頼ったなどと知れたら、議会でどう責められるか分からん……。下手をすれば、イヴァロール伯爵家の位そのものが危うい」
「でも、母をこのまま見殺しにするんですか!」
リュディアの声が一瞬、部屋にこだまする。ギクリとした顔で父は言葉を失う。その間にヴェルト医師が冷ややかに口を開いた。
「私は何度も申し上げています。このままでは伯爵家の評判に傷が付く、と。今は夫人を静かに、表舞台から退かせるほうがよろしいのでは? その上で正式に後継者を決めれば、伯爵家の名誉は守られるのです」
「そんな……母を捨てろとおっしゃるんですか!」
「捨てる、というより、亡くなったらそれが自然の成り行きでしょう」
ヴェルトの淡々とした態度に、リュディアは言葉が出ない。怒りが唇を震わせるばかりだ。だが父もまた、医師の言葉を否定し切れない様子だ。
◇◇◇
深夜の時間が重苦しく進んでいく。リュディアは父も医師も部屋から退かせると、母の枕元で一人、しゃがみ込んだ。高熱に苦しむエリスの額には、びっしりと汗が滲んでいる。
「お母さま……苦しいのね……」
か細い声を聞き、リュディアは必死にエリスの手を握る。
「あ、あなたは……優秀だから……私のことなど……放っておいて、伯爵家を……」
「そんなの嫌です。お母さまを見捨てるなんて絶対に……!」
返事の途中、エリスの瞳がかすかに潤み、意識が途切れそうになる。
「……母を捨てたら、わたしは何のために伯爵家にいるの……」
彼女の声は自分に問いかけるようなものだった。家を守れと言われ、母を切れと言われる。そんな無情な選択がまかり通るのであれば、リュディアは伯爵令嬢としての誇りさえ捨てたくなる。
(ユイス……レオン……あなたたちに頼っていいの……?)
ふと脳裏に浮かぶのは、学園で夜を徹して研究に没頭する彼らの姿だった。
「数式魔法と治癒術を組み合わせることで、刻印を再編できるかもしれない……」
そう言っていたユイスの真剣な表情を思い出す。だが危険は大きいし、失敗すれば命取り。リュディアはそれでも、藁にもすがりたい思いだった。
◇◇◇
廊下に出ると、家臣たちが急いだ足取りで駆け寄ってくる。どうやら保守派の代理人が再び面会を求めているらしい。仕方なく、リュディアは父の執務室に向かった。そこには、見るからに嫌味を孕んだ態度で佇むデイムローズ子爵の姿があった。
「イヴァロール伯爵家の後継について、どうされます? 夫人がこの状態なら、近々発表していただかねば」
デイムローズの舌打ち混じりの口ぶりに、リュディアは眉をひそめる。
「まだ正式な判断はしておりません。母が回復する見込みがないと決まったわけでは……」
「またそんな悠長な。伯爵家の名誉を守るために、早く“あの方”を退かせるのが筋でしょう? それとも何ですかな? 数式魔法とやらに望みを繋ぐのですか? まさか伯爵家が、そんな怪しい研究に頼りきるなど……」
嘲るような言葉に、奥歯を噛みしめる。目の前で子爵が笑みを浮かべているが、リュディアには何も言い返せない。
「……わたしは、母を捨てるわけにはいきません」
子爵の揶揄を無視して、リュディアはかろうじて声を振り絞る。
「そうですか。ならば伯爵家は数式魔法に頼る卑劣な裏切り者として、保守派の審問を受けるかもしれませんね。いずれにせよ、このまま時間を浪費すれば、夫人は苦しみながら逝くことでしょう。可哀想に」
最後の言葉は完全に嘲笑混じりだった。リュディアは拳を強く握りしめ、何度も言い返そうとしたが、父も黙り込んだまま動かない。結局、伯爵家に沈んだ空気はさらに重くなるばかりだ。
◇◇◇
夜がさらに深まり、リュディアは母の部屋に戻った。枕もとに腰を下ろし、熱にうなされるエリスを少しでも落ち着かせようと冷たいタオルで額を拭く。その仕草を続けながら、頭の奥で何かが叫んでいた。
(母を救える方法がないなんて、そんなの嘘……絶対にあるはずよ。ユイスとレオンは諦めてない。わたしだって、こんなところで……)
「リュディア……」
母の唇が震えながら、娘の名を呼んだ。返事をしようと手を伸ばした瞬間、ノックの音が部屋の扉を叩く。
「……失礼します。深夜に恐れながら、こちらに急ぎの通信が届きました」
家臣が申し訳なさそうに入ってくる。その手には小さな筒状の魔道具。これを通じて、学園からの緊急の連絡が届くらしい。リュディアは家臣の差し出したそれを受け取ると、集中して魔力を注ぎ込む。
『リュディア、聞こえるか。俺たち、術式の再編がほぼ完成しつつある!』
筒の奥から聞こえるのはレオンの声。彼特有の少し鼻にかかったような調子が伝わるだけだが、その奥に燃える焦燥感が伝わってきた。
『精度の詰めが必要だけど、ユイスももう寝ずにやってる。あと少しで母上の刻印再編に使えそうな術式になるかもしれない。だから……』
通信はそこまでで、雑音交じりに一瞬途切れた。だがレオンの必死な声が、リュディアの中に強い希望の灯をともしていく。
『だから、諦めないでほしい……! 俺たちも間に合わせるように全力で動く。必ず、助ける方法を見つけるから!』
「レオン……ユイス……」
リュディアは通信筒を両手で包み込むように抱え、思わず目を閉じた。わずかにこぼれる涙は、静かに頬を伝って落ちていく。母の苦悶の声が後ろで続いているのに、伯爵家を守る者として何もできずにいた自分。しかし、まだ道が完全に断たれたわけではない。数式魔法で母を救える望みがあるのなら……。
◇◇◇
「お嬢様、大丈夫ですか……?」
気づけば家臣が心配そうに声をかけていた。リュディアは涙を拭って、母の枕元にそっと通信筒を置く。そして小さく頷く。
「ええ、少しは……救われました。今は、わたしが母を守らなきゃ……」
そう告げると、リュディアは毛布をしっかり引き寄せてエリスの肩を包み直す。母の弱々しい呼吸が、どこか儚げな子守唄のように胸に刺さる。
(明日には、また保守派が動くでしょう。父はきっと迷っている。わたしだって不安で仕方ない。でも、ユイスたちが術式を完成させるなら……それまで、なんとしてでもお母さまを守らなきゃ)
リュディアは深い息をつき、母の手をさする。エリスが小さなうめき声を上げたが、その先は何も言わない。冷たく汗ばんだ指先を、リュディアの温かな手が重ね合わせていく。まるで「まだ大丈夫だよ」と伝えたいかのように。
◇◇◇
廊下では、父が家臣に何やら指示を出している声が聞こえる。恐らく保守派への返答をどう先延ばしにするか、その苦しい策を練っているのだろう。今までの父ならもっと力強くリュディアを支えてくれたはずだが、伯爵家の圧力に呑み込まれ、不安のまま身動きが取れなくなっている。
(お父様が優柔不断でも、わたしは母を切り捨てるなんてできない。絶対に)
そう決意を固めると、リュディアは母の耳元にそっと囁く。
「大丈夫、まだ終わりじゃないわ。ユイスとレオンが頑張ってくれてる。だから……絶対に諦めないで」
エリスの瞳は閉じたままだが、ほんの少しだけ反応するように眉が動く。リュディアはぎゅっと唇を結び、夜明けまで付き添う覚悟を決めた。
高熱に苦しむ母を放ってなどおけない。どんなに辛い言葉を保守派から浴びせられようと、ここで踏みとどまらなければ意味がない。
(母が生きている限り、伯爵家に何が起ころうと、わたしは母を見捨てたりしない……)
◇◇◇
外はまだ闇を抱えたままで、空には月すら霞んでいる。
だが、ふと窓の外を見やれば、夜空の端がわずかに白みを帯び始めている気がした。夜の帳はそう簡単には明けないかもしれない。それでも、朝日は必ず訪れる。
リュディアは震える母の肩に毛布を掛け直しながら、微かな光を待ち望むように瞳を閉じる。心の中には、ユイスとレオンの声がはっきりと響いている。
「あと少し……本当に、あと少し……!」
高熱で苦しむ母の息遣いに耳を澄まし、リュディアは強く祈り続ける。時間はない。だが、希望だけは絶対に捨てない。いつか朝日が差し込むとき、ユイスの数式魔法がすべてを救ってくれるかもしれないのだから。
──さらに激しくなる母の熱と、保守派の圧力。リュディアはギリギリのところで踏みとどまりながら、学園から届く“完成間近”の一報に縋るように耳を傾ける。




