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12. すれ違い

 夜明け前、研究室の薄暗い明かりに照らされながら、ユイスとレオンは互いの顔を見合わせていた。


「行くのか? その状態で」


 レオンの声にはわずかな心配が混じっている。


 ユイスは机の上に散らばる古文書や数式のメモを片付けようともせず、疲労で重いまぶたを何度か瞬かせた。


「リュディアに経過を伝えないと。伯爵家の様子も気になるし」


「そうか。けど、無理はするなよ。これ以上倒れられたら解読の続きが進まない」


 言い終えるとレオンは皮肉めかしたように、しかしほんの少し優しげな表情を浮かべてユイスを見やる。ユイスは乾いた笑みを返し、背中にしっかりとノートを背負った。


 ◇◇◇


 朝日が差し始めた頃、ユイスはイヴァロール伯爵家の門前に立っていた。ここ数日の徹夜作業で足元はおぼつかない。それでも、重い扉をくぐって長い廊下を進み、使用人の案内で客間へと通される。


 そこにリュディアはいた。張り詰めた面持ちで椅子に腰かけ、ぼんやりと窓の外を見つめている。


「……リュディア。母上の容体はどうだ?」


 やや遠慮がちな口調で尋ねると、リュディアは一瞬だけこちらを見、それから視線をそらして吐き捨てるように言った。


「あまり良くない。保守派の医師は『これ以上の治療は難しい』って。母が平民の血を引いているからだとか、失礼なことばかり言われて…」


 わずかに声が震えているように聞こえるが、リュディアは必死に表情を保っているようだ。


「僕の方は刻印再編の術式を何とか進めている。まだ動物実験の段階だけど、もし成功すれば人間にも応用できるかもしれない」


「……本当にできるの?」


 リュディアは顔を伏せたまま、こちらに冷たい声を向ける。いつもなら優等生然とした落ち着きが漂うはずの彼女の姿は、今はひどく棘を帯びている。


「理論上は。でもリスクもある。人体への干渉は危険だ。暴発すれば……」


「わかってる。そんなこと、あなたに言われなくても理解してるわ」


 リュディアは急に椅子から立ち上がり、床に視線を落としたまま続ける。


「失敗したらどうするの? うちの母が、あなたの実験で取り返しのつかないことになったら……あなたに責任なんて取れないでしょ」


「……もちろん全力で成功させる。失敗なんて考えたくない」


 ユイスは喉の奥がひりつくような感覚を覚えながら答えた。だが、リュディアはさらに口を開く。


「結局、数式魔法なんて邪道だって言われているし、伯爵家の当主ですら信用してない。そんなものに母を委ねる私の立場はどうなると思う?」


「そんな……でも、じゃあ他に手段があるのか? 保守派はまともに治療しようとしてくれないんじゃないか」


「だから……わかってるわよ、そんなこと」


 そう言いながら、リュディアはそのまま踵を返す。ぱたん、と小さな音を立ててドアが閉まり、ユイスは客間にひとり取り残された。


 ◇◇◇


 ユイスは伯爵家を後にし、帰り道をとぼとぼと歩く。


 すれ違う人々の視線が妙に痛い。貴族街には見なれない地味なローブ姿だからというだけでなく、さっきのリュディアの態度が頭にこびりつき、心に鉛の重さを落としている。


 ――自分には何もできないんじゃないか。あの時と同じように。


 ふと、フィオナの面影がよぎる。瞳を閉じると、流れ込む記憶。


 幼かったあの日、フィオナは病気を患いながらも笑顔を絶やさなかった。しかし当時のユイスには何の力もなく、血統を尊ぶ領主は「平民の少女なら治療は不要」と切り捨てた。


 助けるための術式を、自分はまだ築き上げていなかった。数式魔法の理論を抱えながら未熟で、目の前の命を見殺しにしてしまったのだ。


「また、同じことになるのか……」


 小さな声でつぶやくと、風が一瞬、吹きさらしの坂道を駆け抜けた。


 ◇◇◇


 学園に戻ったユイスを待ち構えていたのは、トールとエリアーヌ、そしてミレーヌの三人だった。研究室の前で待機していたらしく、彼の姿を見つけるなり駆け寄ってくる。


「ユイス! 伯爵家はどうだったんだ?」


 先に声をかけたのはトール。彼がいつも以上に大きな声を出すので、ユイスは一瞬驚いたように身を引く。


「……あまりうまくいかない。リュディアも、母上が苦しんでるのを前にどうにもならなくて、ああいう態度になるのも仕方ないんだ」


 ユイスが投げやりに言うと、エリアーヌが悲しげに眉を下げる。


「本音ではきっと助けてもらいたいんだよ、リュディアは。でも、怖いんじゃないかな? 大切な人を預けて、万が一失敗したら……って思うと」


「そう……だよな。けど僕も失敗なんてしたくない」


 ユイスは研究室の扉に手をかけ、深く息をつく。


「自分が間違っていたら彼女の母を救えない。前にも、フィオナを……。俺は……」


 そこで言葉は自然と途切れる。ミレーヌが小走りに近づき、控えめに口を開く。


「大丈夫。あなたはちゃんとやれる。私たちもできる限りサポートするから……ね?」


 緊張を隠しきれない震える声だが、彼女の必死さは痛いほど伝わる。トールは拳をぐっと握って見せた。


「お前の数式魔法が失敗するなんて想像つかねえよ! 燃やすしか能がない俺ですら少しは役に立てるんだ。なんとかなるって!」


 エリアーヌも、「気持ちはわかるけど、あんまり自分を追い詰めないで?」と、しきりにユイスの肩をさする。ユイスは苦笑いをしながら、わずかに肩の力を抜いた。


「ありがとう。みんな」


 ◇◇◇


 一方で、リュディアは伯爵家の廊下を足早に進んでいた。屋敷の奥、病室の扉を開けると、そこには衰弱した母エリスの姿がある。


 椅子を引き寄せ、その傍らにそっと座った。


「ごめんなさい、お母さま……ちゃんとした治療法がまだ見つからなくて。あの医師は何もしてくれないに等しいし……」


 母は力ないまなざしでリュディアを見つめる。唇をうっすら動かすが、声になっていない。微弱な魔力の流れが乱れているのを、リュディアは痛感する。


 そして、思わず目を伏せた。さっきユイスをあんな風に追い返したことが脳裏に浮かぶ。


(本当は、助けてほしい。ユイスの数式魔法が必要だって、心から思ってる。でもユイスは平民…もし失敗したら…)


 それでも保守派が幅を利かせる伯爵家で、母に万が一のことが起こったらどう責任を取るのかと、周囲は攻撃的に責め立てるだろう。


(わたしは、母を捨てるなんて絶対にしたくない。でもユイスに押しつけて、母を死なせてしまったら……そんなの、耐えられない)


 すがるように母の手を握る。冷たく痩せ細った指先が、かすかにぴくりと動いて、リュディアの頬に触れようとしたが、それさえもうまくいかない。


「お母さま……」


 堪えきれず小さな涙が落ちる。そのとき、彼女の背後で部屋の扉が静かに開く音がした。


 入ってきたのは当主である父。だが彼は母の病状に触れることもなく、ただ「保守派の人々に失礼がないようにしろよ」と冷たく言い残すだけ。


「数式魔法などを頼るとなれば、伯爵家の格式が疑われる。それを理解しているな、リュディア」


 リュディアは返事もせず、かたく唇を結んだ。何も言わずにいる娘を見て、父は小さくため息をつき、踵を返す。


 扉が閉まると、病室にはまた母娘だけが残る。


「どうすれば……いいの……」


 母は目を閉じたまま、意思を伝えられずにいる。リュディアは震える声を押し殺すように呟いた。


 ◇◇◇


 その夜遅く、ユイスは研究室の机に突っ伏したまま、半ば寝落ちしていた。散乱するノートには、いくつもの数式魔法の改良案が書き込まれ、その横にはフィオナの名を記した小さなメモが挟まれている。


 カサリと物音がして、レオンが顔を覗かせた。


「相変わらず、無理してるみたいだな」


「……レオンか。悪い、ちょっと仮眠してた」


「やけにうなされてたけど、大丈夫か?」


 レオンは照れを誤魔化すように、そっぽを向きながらボソッと言う。ユイスはこめかみを押さえつつ、机の上の書類を探る。


「リュディアとちゃんと話したはずなのに、どうにもすれ違ってばかりだ。こっちから近づけば拒まれるし、かといって待っていても何も変わらない。フィオナのときみたいな後悔は……もう嫌なんだ」


 レオンは黙って机上の古文書を手に取る。真面目な顔で一瞥しながら静かに言葉を続けた。


「俺だって、何もできないわけじゃない。古い儀式の記述をさらに漁れば、刻印そのものを再編するヒントが見つかるかもしれない。おまえの理論と合わせれば、きっと突破口はある。……だから、焦りすぎるなよ」


 その声はどこか不器用ながら優しい。ユイスは思わずはっと顔を上げる。


「ありがとう、レオン。おまえの協力がなきゃ、絶対に無理だからな……」


「ふん、まあ退屈しのぎに付き合ってやってるだけだ」


 そう言い捨ててレオンはわざと肩をすくめる。だが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。


 ◇◇◇


 夜中をまわり、学園の廊下はひっそりと静まっている。


 ユイスは資料を抱えたまま小さく伸びをして、大きく息を吐く。レオンはその隣で欠伸をかみ殺している。


「さて、もう少し踏ん張るか……リュディアを救うためにも」


 自分に言い聞かせるようにつぶやいたユイスの瞳には、まだ微かな決意の灯が宿っていた。


 一方、伯爵家の自室に戻ったリュディアは、机に向かって書きかけの手紙を眺めている。――ユイスに宛てた謝罪と救いの言葉。しかしそこまで書いたものの、最後の数行がどうしても綴れない。


 震えるペンをそっと置いて、リュディアは窓の外を見る。月明かりが広い庭を照らし、どこか物寂しい。


「……ごめんね」


 誰にも届かない小さな声が部屋に落ちる。書きかけの手紙はそのまま封もされず、彼女の切なる思いは宙をさまよっていた。


 外では夜風が、深い憂いを抱えたまま屋敷の壁をそっと撫でていく。お互いに素直になれないまま、すれ違いだけが重なっていく――そんな夜が、静かに更けていった。

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