11. 実験
夜の図書館。高い天井に浮かぶ灯りがぼんやりと影を揺らす。
レオン・バナードは大きな書架から古書を二冊ほど引き抜き、自身が陣取った机の上に重ねた。先刻までかじりついていた古文書の写しをパラパラとめくり、何度も同じ箇所を読み返す。
「刻印の深部構造か……過去の例がこんなに少ないなんて、面倒な話だな」
半ば投げやりに呟きつつ、彼は小声で古語の文言を確かめる。リュディアの母が抱える“平民血と刻印の齟齬”について、正確な記録がほとんど残っていないのが最大の難点だった。
「ずいぶん調子よく解読を始めてるじゃないか」
やや疲れた顔で声をかけたのはユイス・アステリアだ。深夜だというのに、彼もまた図書館の一角へ足を運んでいた。床には紙束やメモ書きが散らばり、いかにも研究が佳境にある様子だ。
ユイスは二、三枚のメモをレオンに見せて軽く首を傾げる。
「刻印を数式魔法で再構築できないか、と考えてはいる。けど正直、人体の深部――特に血統呪縛が組み込まれている部位に干渉するのは危険すぎるんじゃないか?」
「……危険度は確かに高い。それでも何もしなけりゃ、リュディアの母はただ苦しむだけだろう」
レオンはそっけなく視線を下げながら言う。
「要は刻印に込められた魔力回路の形を“書き換える”ってことだろ? その理屈を形にするのが、おまえの数式魔法の役目じゃないか」
ユイスは息をつめるように一瞬黙り、それから肩を落とすように続けた。
「俺は、回復魔法や治癒理論を数式化する流れ自体は検討してた。けど、血統刻印みたいな特殊な呪縛を無理に消そうとすると、術者への反動がすさまじいらしい。既に過去の事例で腕を失った研究者もいたとか」
するとレオンは鼻を鳴らす。「そんなもん、昔の研究者だから失敗しただけかもな。今はおまえがいるだろ」
「……ずいぶん言ってくれるじゃないか。おまえこそ大丈夫なのか? 皮肉交じりに『やってられない』とか言い出さない?」
「へぇ、馬鹿にしないでくれ。どうせ退屈だし、これくらいしかやることがないんだよ」
レオンが椅子にふんぞり返ると、図書館の扉からこそこそと仲間たちの姿が覗いた。
エリアーヌ・マルヴィスが手製の籠を抱え、小走りで二人の所へやって来る。
「夜更かしに耐えられるように、甘いお菓子持ってきたよ! あんまり図書館で食べるのはよくないけど……みんな飢えてるでしょ?」
その後ろからトール・ラグナー、さらにミレーヌ・クワントも追いつく。トールは両腕に何やら書類と小さな木箱を抱えていた。
「ユイスが呼んだからな、手伝いに来たぜ。何だか“人体に代わる実験素材”がいるとか言ってただろ? 農家出身だから、こういう草木なら俺が運んでやれる」
「あと材料費とかコスト計算は、私が管理するから……」とミレーヌが不安げな面持ちで、でも意欲的に頷く。
◇◇◇
場所を学園の研究室へ移したのは、それから少し経った深夜だった。図書館の管理人から「そろそろ閉館」と促され、グレイサーが「研究室の一角を好きに使え」と渋々許可を出したおかげだ。
「じゃあ、ここでいいだろう」
ユイスは薄暗い明かりに照らされた机の上に、簡単な魔法陣を描き始める。紙の上に専用インクで円を描き、いくつかの数式演算を象徴するルーンを組み合わせる。
レオンがその様子を覗き込む。「要するに、この陣で“擬似刻印”を再現するのか」
「そういうこと。実際に人体へ刻むわけにはいかないから、まずは植物や小動物の魔力パターンでテストする。植物ならすぐ枯れてしまうかもしれないが、最低限の流れは確認できるはずだ」
エリアーヌが心配そうな声をあげる。「でも暴走したら……どうなるの?」
「そのときは俺が全部吹っ飛ばして止めてやる!」とトールが両腕を構える。だがエリアーヌは「吹っ飛ばしたら困るんじゃ……」とおろおろしている。
「実際、暴走はあり得る。だから注意深くやるさ」ユイスは平然と答え、ミレーヌが思わず青ざめた顔をする。「危ないことになると、いろいろ費用が……いや、そんなこと言ってる場合じゃないか」
ユイスは少し苦笑いを見せ、「費用面はまた後で相談させてくれ」と小声で返す。
そして円陣の中央に小さな鉢植え――トールが農家知識を駆使して用意した“魔力が通りやすい草花”――をそっと置いた。
◇◇◇
「さて、数式魔法と治癒魔法の組み合わせ方を考えようか」
ユイスは仲間たちに向けて短く説明を始める。
「通常の治癒魔法は、対象の負傷や毒を‘癒す’イメージで魔力を流し込む。血統魔法の場合は、血の力を使うから出力も安定感も大きい。ただ刻印の書き換えとなると、治癒以上に‘相手の魔力回路’を変更する工程が必要だ」
レオンが頷く。「その変更こそが、今回の核心か。平民血だろうが、ちゃんと適合する形に刻印をリライトできれば……」
「ただし成功するまで、暴走リスクと時間との勝負になる」
鉢植えに向けて、彼は少しだけ詠唱を始める。
「数式魔法”術式リライト”……対象の魔力経路を再定義……刻印作成の代わりに仮定構造を付与……」
紙上の魔法陣がかすかに淡い光を帯びると、草花の根の部分に紫色の筋がじわりと現れた。
エリアーヌが小さく息を呑む。「なんか根が……変な形に見えるよ」
「ここで過度に魔力を流すと、一気に壊れる」ユイスが額にうっすら汗を浮かべる。「……ああ、集中しないと」
流れ込む魔力が安定したかに見えた、ほんの一瞬。だが次の瞬間、根がびくりと震え、一気に黒ずみを帯びる。
「まずい!」トールが声を上げる。ユイスは踏ん張るように魔法陣に右手を置き、どうにか暴走を抑えようとする。
レオンが即座にノートを取り出し、目にも留まらぬ速さで書き込みを始めた。「今の演算、ここが重複してる! 早くそこをキャンセルしろ!」
ユイスはすぐに反応し、紙にもう一つ短い式を書き加える。薄紫色の光は乱れたが、最後の最後で静まった。
結果――草花の根は、一部が焦げたように崩れてしまった。葉もぐったりと萎れ始める。
「……やっぱり難しいな。下手に干渉すると魔力暴走が起きる」ユイスが肩を落とした。「でも完全に爆発しなかっただけマシか」
トールがホッと息をつく。「一瞬ヒヤッとしたぞ。爆発したら火事になってたかもな」
エリアーヌがそっと鉢を確認する。「根は枯れちゃったけど、一部の繊維は残ってるね……これって、ほんの少しは刻印構造が成功したってこと?」
レオンが目を伏せて考える。「どうだろうな……ゼロではないが、成功とは呼べない。でも、何かしらの手応えを感じる。途中までは魔力が安定してたから」
ミレーヌがメモを握りしめ、「でもこの短時間の実験だけで、かなり道具やインクを消費してるわよ。もしこれを何度もやるなら、予算がかなり厳しい……」と小さな声で言う。
「仕方ない。予算のことは後でまたまとめよう。リュディアの母上を救うには、何より実験とデータが必要だ」ユイスが言い聞かせるように呟き、書類をめくる。
「刻印再編がどれほど難易度高いか、これで嫌というほどわかった。……でも、諦める気はないよ。リュディア母が長くないなら、一刻も早く術式を仕上げなきゃ」
レオンは面倒そうな顔をしつつ、「好きにしろ」という風に手をひらひらと振った。しかし、その眼には負けず嫌いな光が宿っている。
「分かった。じゃあ今の実験データから重複演算を外し、もう少し負荷を分散する方法を考えよう。古文書にある‘刻印の結合式’も、もっと読めばヒントがあるかもしれないからな。俺だって、このまま引き下がったら情けないし」
◇◇◇
少し休憩を挟んだ後、ユイスとレオンは再度机を囲んで資料を突き合わせた。トールが新しい鉢を準備し、エリアーヌは菓子やお茶を配り歩く。
「ごめん、こんな夜更けに巻き込んで……」ユイスがエリアーヌに視線を向けると、彼女はにこっと笑った。
「大丈夫だよ。わたしはむしろ、こうやって何かの役に立ちたいから。リュディアのお母さんが、いつも優しいって聞いてるし……助けられるなら助けたい」
ミレーヌもふうっと息をついて、「私も同じ。金銭面の計算は苦しいけど、今はそんなこと言ってられないわ」と小さく笑う。
「ありがたいな。……正直、俺だけじゃどうにもならないことばかりだから」
「おまえがそこまでやるってことは、やっぱり“誰かを救う”って執念があるんだろう? どうせ捨て身で突っ走るんだろうし、まあ俺も付き合うよ。利用されるわけじゃないが、興味深い研究でもあるしな」
ユイスは苦笑気味にうなずき、改めて書類に目を落とす。「そっちの翻訳が進めば、数式リライトの方も少しは精度が上がるかも。明日はもう一度リュディアに手紙を送るよ。少しでもいい知らせを届けたいし」
「……時間との戦いだな」レオンがメモを走り書きしながら呟く。「伯爵家がいつまで持ちこたえてくれるか、保守派がどう動くか、まるで爆弾を抱えてる気分だ」
「保守派が邪魔してきても、オレが身体張るぜ!」とトールが雄々しく拳を振り上げ、エリアーヌが「でも吹っ飛ばさないでね」と焦る。
そんな一幕に、ミレーヌがくすりと微笑した。「やれやれ、こんな夜中なのに賑やかね。……じゃあ、わたしたち、もうちょっとだけ頑張ろう」
◇◇◇
その後、ミレーヌが経費の試算を続ける一方、トールは次の実験用の草木を点検する。エリアーヌは皆にお茶を注ぎ、レオンとユイスは再び解読と数式の検討に没頭。
やがて深夜も深まるころ、レオンがぽそりと切り出した。
「ユイス、おまえの考える治癒魔法って、どんな構想なんだ? 一般的な治癒魔法を単純に強化しても、今回の問題は解決しないだろう?」
「そうだな……治癒魔法は、傷口や病巣を‘元通り’に戻す程度。でも血統呪縛が絡むと“呪い”のような構造が血肉に刻まれてるから、普通に治癒するだけじゃ何も解決しない。そこを、数式理論でいったん分解してから再構築できれば……刻印を“改変”するようなイメージだ」
「理屈はわかったが、本当にそんなことが可能なのか? いや、可能だとしても膨大な魔力か演算が必要じゃないか?」
ユイスは苦い顔をする。
「そこなんだよな。魔力量が低い俺が、大きな呪縛構造に干渉するのは無謀と言われそうだ。だから今は“分割詠唱”や“フェイズ・コンパイル”みたいな技術を組み合わせてカバーできないか試してるわけで……まあ、前例はないけどやるしかないさ」
レオンがうっすら笑みを浮かべる。
「前例がないなら、おまえ好みだろう。破天荒な理論を現実にするのが得意じゃないか」
「破天荒な……俺も笑えないよ」とユイスは言いつつも、その瞳には僅かな情熱が宿っていた。
◇◇◇
同じころ、廊下から足音が近づき、ひょいと覗いたのは担任のグレイサーだった。彼はコーヒーカップを片手に軽く睨むように部屋の中を見渡す。
「夜更かしとは熱心だな。……面倒を起こすなよ。他の教師どもに騒がれたら厄介だから、研究室を爆破したりしないように」
レオンが顔を背けるように「わかってる」とつぶやく。グレイサーはその様子を確認しただけで、コーヒーをすすりながら引き返していった。その背は相変わらず無頓着そうに見えるが、陰ながら学園上層部に口を利いてくれているのだろうと、ユイスは感じている。
「ありがたいような、ありがたくないような……」
ユイスが小声でそう言うと、レオンは肩をすくめた。「俺たちが爆発でもしたら、一番困るのはグレイサーかもな。あれでも多少は、俺たちを信用してるのかもしれない」
そう言いつつも、二人は再び資料へ目を落とす。夜の研究室は薄暗いが、まだやるべきことが山ほど残っていた。
◇◇◇
結局、何度か実験を繰り返し、草花の根を焼き尽くしては失敗しを繰り返すうちに夜明けが近づいた。エリアーヌとトールは先に力尽きて机に突っ伏し、ミレーヌもデータを取りまとめたままウトウトしている。
レオンも目がしばしばし始め、「そろそろ無理だな……寝落ちして文献が読めなくなる前に、区切るとするか」と自分に言い聞かせる。
ユイスはまだ図面を眺めていたが、さすがに限界を感じたのか、大きくあくびをした。
「……今日はここまでにしようか。明日改めて動こう。それでもまだ、リュディア母には時間がない……」
最後の言葉がひどく重い。だがレオンはそこで卑屈な皮肉を言わず、ごく静かに立ち上がった。
「少しずつだけど、成功の兆しはあるんじゃないか? たとえ草木が枯れたとしても、刻印構造を再編できる可能性はゼロじゃない。あの子――リュディアが待っているなら、俺たちがやるしかないだろう」
「……そうだな。俺もそう思う」
誰もが疲れ切った表情でうなずき合う。
エリアーヌが目を覚まし、「お、おはよう……じゃなかった、こんな時間に……」と眠そうにまばたきしている。トールは「すまん、オレ寝てた……なんか手伝い残ってるか?」と慌てるが、ユイスは首を横に振った。
「いや、もう今日は終わり。おまえら付き合ってくれて感謝する。次は、レオンの翻訳が進みしだい実験内容をさらに変える予定だ。きっと何とかなる……いや、何とかするしかない」
レオンはその言葉に応じてわずかに唇をゆがめ、「もともと寝不足は慣れっこだ」と嘯きながら資料を抱える。そしてドアへ向かおうとする後ろ姿に、エリアーヌが「帰るときは暗いから気をつけて」と声をかけた。
◇◇◇
こうして彼らの長い夜は幕を閉じた。
試行錯誤の末に手ごたえを掴みかけるも、まだ草木ですら刻印再編に耐えきれない。リュディアの母へ間に合うまでに、どれほどの壁を越えなければならないのか――誰にも見通せなかった。
だがユイスもレオンも、決して歩みを止めない。学園の一角で行われる数式魔法と刻印理論の融合は、いつか確かな結果をもたらすはずだと信じて。
夜が白み始める研究棟の廊下で、ユイスは小さくつぶやく。
「あと少し……もう少しで、光が見えるかもしれない。リュディア母さん、待っててくれよ」
その言葉を聞き取った者は誰もいなかったが、静かな空気の中、まるでそれを支えるように一筋の朝焼けが差し込み始めていた。




