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10. 調査依頼

 レオンは夜通し散らかった机に向かっていた。伯爵家からの使者に渡された古い儀式の写し。簡素な紙に書き写された文字は、ほとんどが古代語か、それに似た暗号じみた符号が並んでいる。昨夜は意外にも集中でき、気づけば徹夜で一通り目を通してしまった。それでも全体像はまだつかめていない。


「……本当に、俺にできるのか」


 部屋のランプを少し傾け、レオンはぽつりと呟く。写しの端々には「平民血」「刻印」「魔力衝突」など、不穏な単語が見え隠れしている。もしこれが表に出れば、保守派の連中が面白く思わないのは確実だ。平民出の伯爵夫人――そんな存在を否定する貴族は少なくないと、レオンも何となく知っていた。


「リュディア・イヴァロールの母親か。確かに、平民の血が混ざっているって噂聞いたことはあるが……」


 彼女が書いてきた手紙には、はっきりとそう記されてはいなかった。しかし文面を読むだけでも、家の事情が複雑らしいことは察せられる。いっそ自分など関わらないほうがいいかもしれない。もともとレオンは何事にも無気力で、こじれた貴族の家筋に関わるくらいなら、本を読んでいるほうがよほど気楽だと思っていた。


「それなのに、なぜ俺を名指しで……」


 机の上には、リュディアからの短いメモが置いてある。文字こそ礼儀正しいが、どこか必死な空気が伝わってくる。「解読をお願いしたい」「母を救う糸口になり得る」「レオン・バナード以外に頼む相手が思い浮かばない」。――意外だ、と思った。彼女は学園上位クラスの優等生で、まさかこの自分を必要としてくるなど想定外だった。


「……まぁ、仕方ないな。期待されても困るんだが」


 ぼそっと皮肉を口にし、レオンは原稿用紙大の紙束をまとめる。それでも捨てきれない好奇心が、彼をじっと机に縛りつける。どうやらここには何かが隠されている。刻印の謎、平民血の呪い――それがどんな仕組みで、どうやって解消できるのか。過去に同様の儀式が試みられたとしたら、その記録はきっとどこかに眠っている。


 ◇◇◇


 朝になり、レオンが研究室へ足を運ぶと、扉の外でトールとエリアーヌが待っていた。二人とも見慣れた制服姿。むしろ朝の空気を浴びて元気いっぱいなのは、すっかり彼らの特徴だ。


「お、レオン。やっぱ来ると思ったぞ!」

「最近ずっと遅くまで図書館にこもってるって聞いたから、倒れちゃわないか心配になってね」


 トールは腕組みしながらも、どこか安心した表情を浮かべる。エリアーヌは手に小さな包みを持っていて、見せると甘い香りが漂った。


「朝食、もう食べた? これ、私とミレーヌが作ったお菓子なんだ。どこかで休んだら食べてって」

「……はあ。相変わらずだな、君たち」


 レオンは半ば呆れた顔をしつつも、その包みを受け取る。朝食代わりになるなら助かるかもしれない。貴族の分家に生まれたとはいえ、彼は自炊や簡素な食事に慣れていて、こうした手作り菓子の温かさに触れることは少ない。


「ありがとう。まぁ、一応徹夜はしたけど死んではいないよ。昨日のうちに、伯爵家から届いた写しをざっと見てみた」

「どうだった?」


「どうだも何も、ちんぷんかんぷんが大半だよ」


 事実、古代文字と特殊な呪式を混ぜ合わせたような箇所が多く、すぐに解読できそうな甘い代物ではない。しかし、ただの迷信で終わるとは思えない。なによりリュディアが必死に探している手がかりだ。


「母上を救う、って話だろ? それに伯爵家の秘伝みたいな儀式が絡んでるとか。そりゃ複雑そうだな」

「でもレオンなら絶対読めるよ。……だって、あの小領地改革でも古い歴史書をいっぱい調べて、みんなの生活改善に役立ててくれたじゃない」


 エリアーヌの言葉に、レオンは軽く目を伏せる。そのときの記憶を思い返すと、確かに自分なりに役立った場面があったかもしれない。土地の歴史や条例を調べ、必要な情報をまとめた。たったそれだけのことだったが、ユイスたちには「助かった」と感謝された。――あの感覚は、悪い気分ではなかった。


「……僕が読んだからといって、母親の病が本当に治るかわからないさ」

「そんなこと言わないでよ。リュディアさん、すっごく追い詰められてるみたいだから」


 エリアーヌは小さく眉を下げる。リュディアの母がどんな状況にあるのか、詳しくは伝わってきていないが、平民の血ゆえ辛い目に遭っているらしい――そんな断片的な噂は学園にも飛んできている。


「……まぁ、いいさ。俺だって暇じゃないけど、退屈するよりはマシだ」

 レオンは自分を誤魔化すようにそう言い、研究室の扉を開けた。


 ◇◇◇


 研究室の奥、窓際に椅子を並べて紙束を広げる。そこには昨夜まとめたメモや、古文書解析の手引きが積まれている。エリアーヌが彼の周りを片付けてくれるおかげで、空間は意外と快適だ。


「『刻印の儀式』……か。貴族の家柄によっては、結婚のときに紋章を相手にも刻む風習があったって話は聞いたことあるな。平民の血だと魔力適合が崩れる……なるほどね」

 レオンが紙を指でつつきながら、思考を巡らせる。


 トールが後ろから覗きこむが、やはり文字の意味はさっぱり分からないようで「うへぇ」と声をもらす。

「なんだその丸文字とやらは。これ、どうやって読むんだ?」

「僕にだって全部が分かるわけじゃない。まずは文献同士を突き合わせて、単語や構文のパターンを拾う作業からだよ」


 そう言いながらレオンは手元のノートに少しずつ書き込む。古代史の授業で使う参考書や、図書館にある呪術関連の本から類似の単語を引っ張り、ひとつずつ対応させていく。これは地道な作業だが、レオンはこういう“知的パズル”には案外やる気を出す。


「平民の血だと……刻印が反発を起こし、人体に悪影響を与える。リュディアの母親はまさにそれに苦しんでいる、ということか」


 口に出すことで自分の考えを整理する。貴族社会では血統こそが誇りであり、保守派は純血を神聖視している。平民と縁を結んだ伯爵家となれば、奇異の目で見られても不思議ではない。さらに刻印の儀式が不適合を起こせば、物理的にも命に関わる問題が起きる、というわけだ。


「だが、ここには“書き換え”とか“封印解除”とか、そんな類の手順がちらほら載っている。過去に試みた人がいるらしいけど……上手くいった形跡は薄いな」


 レオンはページを捲り、何度も赤ペンで下線を引く。「未完成」「暴走」「拒絶反応」といった暗いキーワードが次々と目に飛び込む。つまり、過去にも平民血の妻を救おうとした貴族がいたが、途中で頓挫した可能性が高い。


「こりゃ大変だな」とトールが頭をかく。「お前が調べても見つからないなら、もうどうしようもないってことか?」

「そこは分からない。でも……今は『数式魔法』があるだろう?」


 レオンは口調を落ち着かせて言う。どこかで、ユイスの顔が浮かんだ。――あいつなら、こうした過去の失敗例を覆す手段を何か考えられるかもしれない。レオン自身は数式理論にはそこまで精通していないが、あの男の計算能力と理屈の組み立て方は群を抜いている。


「ふーん、つまり、これを解読して、その内容をユイスに渡すわけか?」

「まぁ、それしかないだろ。細かいところは全部俺が片付けるには荷が重い。そもそも魔法の制御は得意じゃないし」


 エリアーヌが顔を輝かせて、「それだとみんなで協力できるね!」と声を上げる。彼女は楽しそうに手を叩くが、レオンは気恥ずかしくて少し目をそらす。


「まぁ、別に手伝いたいわけじゃないさ。リュディアが困ってるって聞いたから、ちょっと興味が湧いただけだ。……それに、俺の知識が役立つなら、まぁ嫌じゃない」

「レオンにしては素直じゃん」


 すると研究室の奥、ひらりとコーヒーカップを持った人物が入ってきた。彼は無造作な足取りでレオンたちに近寄り、いつもの淡々とした口調で呟く。


「おまえら、ずいぶん朝から熱心だな。レオン、伯爵家の写しを解読中か?」

「……ええ、一応。あまり期待はしないでほしいですけど」


 グレイサーはカップを片手に、レオンの机上をざっと見渡す。赤ペンで埋め尽くされたメモや古文書の複製紙が、そこそこ整然と並んでいる。まるで、いつになくやる気を見せているようにさえ見える。


「ああ、期待はしない。面白い結果を得られるなら、それでいい。今のところ保守派は黙っているが、伯爵家が実際に治療を試みるとなれば、奴らが横槍を入れてくるかもしれん。おまえも不当に責められないよう、根回しはしておくさ」

「……まぁ、ありがとうございます」


 皮肉まじりに礼を言うと、グレイサーはぼそりと付け足した。「伯爵家の母親が苦しんでいるのなら、間に合うといいがな」――それだけ言い捨てて、またコーヒーの香りとともに去っていく。


 トールが「なんだかんだ言って面倒見がいいよな、あの人」と苦笑し、エリアーヌは「放任に見えて、ちゃんと見てるんだね」と感心する。レオンは返事もせず、視線を写しに戻した。


 ◇◇◇


 昼前にはミレーヌも合流して、彼女の計算知識を活かし“必要になりそうな参考文献”や“古文書の貸出期間”などを管理してくれた。レオンは思いがけず助かっていると感じる。


「ここまで手伝われると、逆に落ち着かないんだけど」

「ご、ごめん……私が出しゃばりすぎかな?」


 申し訳なさげにミレーヌが俯くと、レオンは「いや、別に嫌じゃないよ」と言い直した。彼女が目を丸くして「レオン、今さらどうしたの?」と小声で尋ねるが、レオン自身うまく言葉にできない。いつもの自分なら「面倒だ」と言って逃げたかもしれない。でも今は、どうしても放り出したくないという思いがある。


 ――あのリュディアが、伯爵家の事情を隠してまで依頼してきたのだ。母親を救う方法がないかと必死に探している。であれば、自分ごときがやる気を失っている場合ではないのかもしれない。


(ふん、どうせ俺なんかいなくても……と思ってたけど、もし本当に必要としてくれるなら、やる価値はあるんじゃないか)


 そう心の中で呟くと、少しだけ胸があたたかくなる。これまで感じてきた“無意味”な日常が、ほんのわずかに動き出す気がした。


「よし、次はあの本棚の奥にある禁書系の資料を洗ってみよう。数年前まで使われていた一般呪術にも、似たような記述があるかもしれない」

「うん、わかった! わたしが取ってくるね」


 エリアーヌが笑顔で駆けだし、トールも「棚下ろしなら手伝うぞ!」と続く。ミレーヌは「予算管理だけでなく、書棚リストにも一応目を通しておくわ」と紙をめくり始める。研究室の空気は活気にあふれ、レオンは自然と筆を走らせる手が進んだ。


(いい雰囲気じゃないか……まぁ、悪くないな)


 彼はあくまで皮肉屋のまま、しかし僅かに口元で微笑んだ。


 ◇◇◇


 夕方になった頃、ある程度の資料を洗い出したレオンは、やっと休憩をとる。室内にはエリアーヌが淹れてくれたお茶の香りが漂い、なんとも穏やかな気分だ。トールとミレーヌは一足先に食堂へ向かい、残っているのはレオンだけだった。


「これで分かったことは、『刻印』が平民血に合わない場合、魔力の波が反転して肉体を蝕む、という仕組みらしいってこと。それを上書きする術式が必要――ここまでは何となく理解できるんだけど」


 机に広げたノートを指で叩きながら、レオンは頭をかかえる。そこに記された「再編」「術式展開」「血統呪縛リライト」などの単語は、どれも複雑で、今の彼には手に負えない要素が混じっている。――まさにユイスの数式理論の出番だろう。既存の魔法体系とは違うアプローチで、血統魔法を再構成できるかもしれない。


「とはいえ、ユイスを頼るのも何か腹立たしいな。……まったく、あいつはあいつで忙しくしてるだろうし」


 本音を口にしてしまい、レオンは小さく苦笑する。自分とユイスは、そこまで親密に語り合う仲でもなかった。が、小領地改革での彼の働きを思い出すと、あのしつこい情熱がこの呪いを乗り越える可能性を生み出すかもしれない。


 そう考えた矢先、研究室の扉が控えめにノックされた。少しして顔を出したのはグレイサー担任だ。彼は相変わらずの淡白な表情で、コーヒーカップを持っていない分、むしろ珍しく真面目に見える。


「レオン、例の書類が届いている。伯爵家の使者が正式におまえの名を挙げてきたらしい。とりあえず、俺が預かっているが」

「……やれやれ、わざわざですか。まぁ、そのほうが正式依頼っぽいか」


 グレイサーが小さく頷き、机上へさらりと封筒を置く。伯爵家の紋章が封印に押されているが、開封された痕跡があるところを見ると、グレイサーが確認したのだろう。――中には簡潔な文言が書かれていた。「刻印の解読をぜひお願いしたい。リュディア・イヴァロールより」と。


 レオンは封筒を指先でとんとんと叩きつつ、内心で決意する。もう逃げるわけにはいかない。自分にしかできない作業なのだと、リュディアがそう信じているのなら。


「わかりました。もう少し調べます。あと、ユイスにも協力を仰がないと進まないでしょうし……」

「ユイスに話を通すなら早いほうがいい。今は学園にもどったり伯爵家に呼ばれたり、忙しい身だからな。俺が絡まずとも、おまえらが勝手に連携する分には構わん」


 グレイサーの返しはそっけないが、その言葉の裏側には「好きに動け、邪魔はしない」というメッセージが見え隠れする。レオンは小さく笑みをこぼした。


「ありがとうございます。……ま、どう転がるかは分かりませんけど」

「それでいい。あとはおまえの好きにしろ」


 そう言ってグレイサーは部屋を出ていく。扉が閉まり、再び夕刻の静寂が戻ってきた研究室で、レオンは深い息をついた。


 彼は書類を見つめる。頼りにされている――というより、背に腹は代えられず、自分が最後の手段なのかもしれない。だとしても、伯爵家がここまで明確に依頼を寄こす状況は重い。リュディアの母が苦しむ姿を想像すれば、もう「面倒」と突き放すわけにはいかない。


(リュディア・イヴァロール……絶対負けないって目をしてたな。あんな奴が必死に頼ってくるなんて、よほどのことだろう)


 レオンは心のなかで独りごちる。普段は優等生で気高いリュディアが、母を守るために他者を求める姿――想像するだけで、どこか胸が苦しくなる。「自分には何もできない」と思い込んできたこの人生で、もしかしたら初めての大役を担おうとしているのかもしれない。


「……ああ、もう、勝手にやってやるよ」


 あきれ半分、勢い半分で、レオンは書類をそっとしまい込む。これからもっと詳しい資料が必要になるだろう。そのために夜遅くまで図書館に通うのも厭わない。伯爵家の母とリュディアを救えるかもしれない――そんな希望があるなら、少しは頑張ってみようと思う。


 気づけば日が暮れかけ、窓の外は赤く染まり始めていた。エリアーヌたちが戻ってくる気配はまだない。レオンはひとりで席を立ち、ノートと写しを抱えながら研究室をあとにする。向かう先は学園の図書館。夜間でも司書に許可をとれば閲覧できる本があるはずだ。


 扉を閉める前、レオンは小さく呟く。


「……リュディア、母親を捨てるなんてできるわけないよな。なら、俺が解読して、ユイスが数式魔法でなんとかして。どうなるかな、面白いかも」


 この言葉は誰に向けたものでもない。だが、そのまま夜の廊下へ足音を響かせながら、彼の背筋はいつもより少しだけ伸びていた。


 ◇◇◇


 図書館の扉はすでに人の気配がまばらだ。ランプの灯りの下、埃の積もった史料棚に向かいながら、レオンはひとりごちる。これから始まるのは、貴族の呪縛に挑む地道な“文字との戦い”だろう。過去の失敗例もある。成功の保証はない。それでも――。


「もしやり遂げれば、俺にも……」


 自信なんてものを抱いたことはないが、今度ばかりは違う結果が得られるかもしれない。親族には「いてもいなくても同じ」だと切り捨てられてきた。でも、ここでは自分が何かを成し遂げられるかもしれない。


 レオンは棚の上段に手を伸ばし、古い書物を引き抜く。タイトルは『刻印儀礼誌・下巻』。ぱらりと開くと、独特の古い記号がぎっしりと並んでいた。


「……さて、徹夜の続きといこうか」


 決意を秘めた瞳で、本のページをめくる音だけが静かに図書館へ響きわたる。やがて夜が深まり、廊下の灯りも消される頃まで、レオンの読書は終わらないだろう。彼はこの学園で、リュディアと母を救うために、初めて本気になろうとしていた。

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