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9. 母を切り捨てれば…

 夜の帳が静かに伯爵家を包み始めたころ、リュディア・イヴァロールは母の寝室を出て廊下に立ち尽くしていた。母の熱は夕方からまた上がり始め、弱々しく何度も息を乱している。呼吸をするだけで苦しそうなあの顔を思い出すたび、何かを壊したいほどの衝動に駆られるが、今の自分にはどうすることもできない。


「お嬢様、失礼いたします」


 足音に気づいて振り向くと、一人の家臣が恭しく頭を下げている。いつもは穏やかな面差しの若い男だが、今夜の表情は硬い。どうやら来客があるらしい。リュディアは唇をきつく結びながら家臣の後をついていった。


 ◇◇◇


 イヴァロール伯爵の執務室に入ると、そこには父と数人の家臣、そして見るからに高位貴族の手先と思しき男が座していた。そいつはファルネーゼ侯爵の代理を名乗る男だとすぐにわかる。豪華な刺繍の入った服を纏いながら、どこか嫌らしく笑っている。


「リュディア、あちらのお方はファルネーゼ侯爵の使者だ」


 父は意を決したように低い声で言った。視線は机の上に落ちており、まるで代理人の顔を見るのがはばかられるかのようだ。リュディアは一度だけ父のほうを横目で見、軽く会釈をしてから、あからさまに鼻を鳴らしている代理人に目を向ける。


「はじめまして。ファルネーゼ侯爵様の名代として参りました、デイムローズ子爵の執事を務めておりますアドラーと申します」


 名乗りの声は尊大な響きをまとい、どうやらそれなりに高い身分のつもりでいるらしい。リュディアは礼儀だけは崩さず、そっと頭を下げた。アドラーのほうは伯爵家の父を上から見下すような態度を隠しもしない。


「イヴァロール伯爵。このたびは後継者問題を早急に整えていただきたく、侯爵様よりの伝言を預かっております。ご存じのように、伯爵家の血統に…ええ、いささか不都合があると耳にしておりましたので」


 その言い回しが、どこか嫌な含みを持っている。父も家臣らも声を失ったように押し黙る。遠慮がちに傍に控えている家臣が、小さく肩を落としているのが見えた。


「不都合というのは、母のことですね?」


 リュディアはなるべく抑えた口調でそう問いかける。アドラーの口元がいっそう歪んだ。


「そう。あの平民出の伯爵夫人だ。いや、夫人と呼んでよいのかどうか。伯爵家に入りながら血統に問題がある以上、後継者としての正統性を示したいなら……まあ、申し上げるまでもないでしょう」


「……そんな言い方、あんまりではありませんか」


「ほほう、お嬢様は気が強い。ですが、侯爵様も決して無茶を仰っているわけではない。イヴァロール伯爵家の威信をお守りになるためには、あまり目立たない形で、その…平民の血を隠していただくのが賢明というもの。そうすれば伯爵家の跡継ぎを正式に認めよう、と仰せです」


 リュディアは息を呑む。「母を隠す」ということは、要するに母を公に切り捨てるも同然なのだ。苦しんでいる母を、あたかも恥じる存在のように扱えというのか。父がその傲慢な言葉を黙って聞いているのも、胸に鋭く刺さってくる。


「ふざけないでください…」


 どこかで爆発しそうになった気持ちを必死に抑え込む。もしここで怒鳴り散らせば、保守派に隙を与えるだけだとわかっているからだ。リュディアは爪を食い込ませるほど手を握り締め、なんとか言葉を紡ぐ。


「母は病で苦しんでいます。何か治療の方法を考えるより先に、あまりにも酷いではありませんか。伯爵家の名誉だかなんだか知りませんけど、そんなことのために、母を—」


「リュディア」


 父の低い声が割り込む。いつも穏やかな父の顔はますます暗く、リュディアの視線をまともに受け止めようとしない。父は唇をわずかに震わせながら、代理人のほうへ向きを変えた。


「アドラー殿。いきなりの要求ではあるが、少しばかり時間を頂けないだろうか。伯爵家としても、これ以上事態を荒立てるのは望まないので……」


「心得ておりますよ。ファルネーゼ家といたしましても、速やかな解決を願っているだけです。どうか伯爵家として賢明な判断をくだされるよう」


 代理人のアドラーが、冷淡な笑みを残して立ち上がる。背後で控えていた従者が小声で「それでは失礼します」と告げると、父と数人の家臣が連れ立って部屋を出ていく。その場にはリュディアだけが残されようとしていたが、彼女もいたたまれず、最後にアドラーをにらみつけてから踵を返した。


 ◇◇◇


 執務室を出ると、奥の回廊のほうから使用人たちの忙しげな足音が聞こえてくる。母の寝室へ向かう気持ちと、保守派からの屈辱的な要求への怒りが頭の中で渦を巻いて、リュディアの呼吸は早鐘のようだ。


(伯爵家を守るために、母を隠せ……)


 その言葉がどこまでも追いすがってくる。自分の大切な人を「要らないもの」のように扱われるこの感覚。どうして伯爵家であるはずの父は、あんな連中に弱い姿勢を取らねばならないのか。心に募る疑問と苛立ちが、リュディアの内面に暗い影を落としていた。


 ◇◇◇


 母の寝室は淡い明かりがともり、数人の侍女が看護のために付き添っている。薄手の毛布に包まれている母は、まだ目を閉じたままだが、荒い呼吸が音となって伝わってくる。枕元に腰を下ろし、そっと冷えた額に触れたとき、母のまぶたが少しだけ動いた。


「リュディア…ごめんなさい。あなたを……困らせてばかりで」


 か細い声がリュディアの胸を締めつける。とっさに「何も謝ることはないわ!」と返そうとするが、うまく声にならない。悔しさと悲しみがのしかかってくるせいで、言葉が途切れそうになる。


「母上…」


 ようやくリュディアが呼びかけると、母は幽かな笑みを浮かべようとした。しかし、その表情には疲労と苦しみの色しか感じられない。


「本当はね、あなたが伯爵家を継ぐことで幸せになれると信じてたの。だけど私が平民出だから……伯爵家に迷惑をかけるばかりで」


 母がしぼり出すように言うたび、リュディアの喉が詰まる。保守派が押しつけてくる要求――“平民の血は家の汚点だ”と切り捨てるような言動――が脳裏をかすめる。母がこんなに自分を責めているのが、やり切れなかった。


「お願いですから、そんなこと言わないで。母上がいなければ、私は……」


 最後まで言い切る前に、母の腕が微かにリュディアの手を探ってきた。弱々しいが、確かな温もりだ。その手を強く握り返すリュディアに、母はまた小さく微笑もうとした。


「大丈夫、私は……平気です。あなたが伯爵家を守ってくれるなら、それで……」


 その言葉にリュディアの胸はえぐられる。まるで自分さえ消えれば、伯爵家は円満に収まるかもしれないと思っているようだ。実際、保守派の言い分はそうだった。母を事実上隠し、平民の血を認めなければ、リュディアは後継者として正式に扱われるという。


 しかし、そんな未来はリュディアにとって到底受け入れられるものではなかった。母をないがしろにする伯爵家を、このまま守っていくなど考えたくない。かといって、母を助けるために伯爵家を捨てるのか? 自分の立場を失えば、それはそれで母の治療費さえ望めないかもしれない。


 歯がみしながら、母の肩にそっと手を置く。答えを見つけられないまま、ただ母を想う気持ちだけがこの部屋に漂っている。


 ◇◇◇


 息苦しさを感じて、リュディアは寝室を出た。大きく息をつき、廊下にひっそり灯されたランプを見つめる。伯爵家を守るか、母を守るか――そんな二択を迫られる状況が理不尽でならない。


 わずかに開いた窓から夜風が差し込み、リュディアの焦燥感を冷やそうとするかのように揺れている。視線を遠くへ送ると、壁にかかった小さな家系図の軸が目に入った。先日、古い血筋や刻印の伝承を探すために出してみたものだが、詳しいことは読み解けないまま放置されている。


(レオンなら、こういうのを解読できるかもしれない。彼がしっかりと古文書を読めば、刻印の正体ももっとはっきりするはず…)


 ふとレオンやユイスの顔が脳裏に浮かんだ。学園で古い文献を調べたり、新しい魔法理論を考えたり、あの二人なら何か打開策を見つけてくれるかもしれない。そう思うと、ほんの少しだけ気持ちが軽くなる。


「リュディア」


 背後から父の声がかかった。振り向くと、父は言葉を探すように苦しげに眉を寄せている。さっきの執務室ではまともに目を合わせなかったくせに、今になって何を言うのだろう。リュディアは表情を硬くしたまま、静かに父を見つめた。


「悪かった。保守派の言葉に何も言い返せなくて……だが、伯爵家の格式を守らねば、イヴァロール家が終わってしまうかもしれない。どうすればいいか、私にもわからないんだ」


「家が終わるより、母さまが苦しむほうがよほど大問題です。そもそも、平民だというだけであんな扱いをされるなんて。なぜ誰も声を上げられないの?」


 父は押し黙る。リュディアは初めて見る父の弱さに、わずかに胸が痛んだ。伯爵家としての重圧があるのだろう。しかし、そんな言い訳で母を見捨てるわけにはいかない。


「いつまでに結論を出せと言われているんですか?」


「近いうちだ。ファルネーゼ侯爵が大々的に“伯爵家後継者の発表”を予定しているそうだ。そこにエリスの存在をどう扱うのか……」


 言葉の途中で、父の声がかすれた。リュディアは答えずに軽く唇を噛み、父の横をすり抜けるように歩き出した。


 ◇◇◇


 その夜、リュディアはほとんど眠れなかった。母の容体が心配で何度も寝室を訪ね、微熱が下がりきらない姿を見守る。侍女たちが交代で看病を続けるが、根本的に治療法が見つからないかぎりは苦痛を癒せない。


「お嬢様。少しでもお休みになったほうが……」


 使用人の一人がそれとなく進言するが、リュディアは首を振った。


「大丈夫、ありがとう。私はただ、母さまのそばにいたいだけ。もし母さまが何か言いたいときに、すぐに耳を貸してあげたいの」


 母が時折意識を取り戻すと、決まって「ごめんね」とか「あなたは学園に戻ったほうが…」などと口にしてしまう。そのたびにリュディアは違うと言いたくて、胸がぎゅっと締めつけられる。夜明け前、母が短い安らぎの寝息を立ててくれたころ、リュディアはゆっくりと椅子から立ち上がった。


 ◇◇◇


 廊下に出ると、かすかな朝の光が差し込み始めていた。伯爵家の窓から覗く空は、ほんのりと紫がかった淡い光をまとい、遠くの方で小鳥が鳴いている。


(ファルネーゼ侯爵は母さまを捨てろと言った。父もそれを拒みきれない。だけど、そんなのおかしい。私は母さまを必ず助けたい)


 母の病には“刻印”と呼ばれる呪縛めいた魔術が絡んでいるらしい、という話を聞いている。その刻印が平民の血を受け止めきれずに、魔力の流れを歪めている——。伯爵家に伝わる古文書にはそう書かれているというが、決定的な解決策は見つからないままだ。


(レオンが解読を進めてくれているはず。ユイスも、きっと何とかしてくれる。自分だけじゃ無理かもしれないけど、学園の仲間たちならきっと……)


 思わずそこまで考えて、しかし同時に“頼りすぎるのもどうなのだろう”と葛藤する。家の恥を外部に見せたくないという気持ちが、リュディアにはいまだに拭えない。だが、保守派がこんなにも母を侮辱してくる以上、もはやそんなプライドにしがみついてはいられないのかもしれない。


 心中で迷いながら、リュディアは母の寝室の扉を振り返った。どんな方法でもいい、母をこの苦しみから救いたい。そうでなければ、伯爵家を守る意味なんてない。


「待っていて、母さま。もう少しだけ頑張って…」


 静かにそう呟き、彼女は廊下の奥へと歩き出す。今のところ取れる手段は多くないが、何としても保守派の思い通りにさせたくはない。そう胸に誓う。やがて、夜が明けきらぬ伯爵家の一角に小さな風が吹き、リュディアの髪を揺らした。


 ◇◇◇


 同じころ、ファルネーゼ侯爵の代理アドラーは馬車に揺られながら王都ラグレアへ向かっていた。伯爵家からの反応はあまり芳しくはないが、そう遠くないうちに連中も折れてくるだろう。アドラーは車内で薄笑いを浮かべた。結局、母を裏に隠すようにしむければ、リュディア・イヴァロールは保守派に頭を下げるしかなくなる。そのときこそ、ファルネーゼ侯爵の力を思い知るはずだ。彼には、その絵図が容易に浮かぶ。


「伯爵家に平民血など、所詮は汚点にしかならん」


 ぽつりとそう漏らした声は、ガタガタと音を立てる車輪に掻き消された。


 ◇◇◇


 一方でリュディアは、わずかな仮眠も取らぬまま朝の光を浴びていた。母の部屋は静かだが、いつまた苦しい声をあげるかわからない。あのファルネーゼ陣営が正式に動き出したとき、伯爵家はどうなるのか。考えるだけで胸が苦しくなる。


 それでも彼女の目に、一条の光がかすかに宿っていた。学園で古文書を読み解くレオンの姿を脳裏に思い出し、そしてユイスが言っていた“数式魔法なら、伝統的な血統呪縛にも対抗できるかもしれない”という言葉を思い起こす。


「私があの人たちを信じないで、どうするの……」


 自分を奮い立たせるように呟いたその声は、まだ眠りから覚めきらない伯爵家の静寂の中に、すっと消えた。


 リュディアはまた母の寝室へ足を向ける。保守派の汚い手に乗りたくはない。母を絶対に切り捨てない——その一点だけは、何があっても曲げられない。今は確たる手段がなくても、解読を続けるレオンと、“新しい魔法の可能性”を探り続けるユイス。彼らが必ず、光を示してくれる。


(待ってて、母上。あなたを見捨てたりしない…)


 そう心の中で誓いながら、リュディアは再び扉を開いた。母の寝息を確かめるように近づき、そっとベッドサイドに膝をつく。母の指先に触れたとき、そのかすかな温もりが、リュディアの心に僅かながら勇気を灯していくのを感じる。


 遠く窓の外から朝の鳥が鳴いた。その澄んだ声は、まだ先行きの見えない不安を吹き飛ばすほど力強くはない。それでも、ほんの少しずつ夜が明けるのだと知らせてくれるかのようだ。リュディアは母の細い指を握りしめて、もう一度静かに誓った。


「大丈夫。私が絶対に守ってみせる。どんな圧力があろうと、絶対に……」


 そう呟いた彼女の瞳は曇ったまま。それでも、かすかな希望を捨てずに、朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。保守派は再び伯爵家へ来るだろう。あの嫌味な代理人が条件を突きつけ、父がそれに押し流されそうになるのも目に見えている。だが、最後の最後で母を捨てない道を選ぶには、今は耐え、策を模索し続けるしかないのだ。


(レオンとユイス、どうか早く何かを掴んで)


 リュディアは母の顔をそっとのぞき込みながら、心の奥で学園に思いを馳せる。その視線はわずかに震えながらも、伯爵家の冷たい朝を切り裂く小さな光を探していた。


 そうして、日が昇るにつれて伯爵家の廊下は人の気配で少しずつ満たされていく。リュディアはなおも決断のつかないまま、母にかける布を整え、白い頬をなでてやる。いずれにせよ、保守派の圧力を拒むならば大きな代償を強いられるだろう。彼女は覚悟を固めかける――母を見捨てるくらいなら、伯爵家後継の座など捨ててしまえばいい。だが、それで本当に母を救えるのか。父をはじめ、ここで働く家臣たちをも苦しめることにならないか。幾重にも絡まり合う思考が、またリュディアの胸を締めつける。


 室内を温めようと暖炉に火をくべる侍女の動作を横目で見ながら、リュディアは拳を強く握った。伯爵家の当主や家臣が、保守派の顔色をうかがうしかない現状が悔しくてたまらない。しかし諦めるわけにはいかない。母への思いが、どうしてもその一線を譲らせてくれないのだ。


 疲労が溜まり、頭が重くなってきたところで、侍女の一人がそっと声をかける。


「お嬢様、少しお休みになられたほうが……。夜明け前からほとんど休まれていないご様子ですし」


 リュディアは振り返り、言葉を飲んだ。勧められるまま素直に休んだところで、母の病が好転するわけではないし、保守派の要求が消えるわけでもない。だが、このまま無理を続けるのも母を安心させることにはならない。


「……そうね、少しだけ横になるわ」


 声がかすれたのが自分でもわかった。リュディアは母の寝顔をもう一度確かめると、心苦しさを押し殺して部屋を出る。脳裏で何度も繰り返すのは、ファルネーゼ侯爵の配下の言葉。“母を隠せば後継者として認める”。そんな命を軽んじた選択をするくらいなら、伯爵家がどうなろうとも構わない——そう言い切れればどんなに楽だろう。しかし家族の一員として、簡単に投げ出せるものでもない。


(レオンが……解読を進めてくれている。ユイスもきっと……。絶対、何か方法があるはず)


 ぐらつく足取りのまま、廊下を曲がって自室へ向かいながら、リュディアは固く瞼を閉じる。遠く離れた学園で、夜を徹して資料を読み解くレオンの様子が脳裏に浮かんだ。ユイスが数式魔法の手がかりを得る場面を想像し、かすかな期待にすがるように息を吐く。母は必ず救う。それだけを糧にして、リュディアは疲労に重たいまぶたを落とし始めた。


 その瞼の裏で、さっきまでの冷たい交渉の光景が一瞬よぎる。あの無慈悲な保守派の笑みを、いつか打ち砕きたい。心の奥が燃えるように疼いた。


(絶対に、諦めない)


 寝室の戸口についた頃には、自身もふらつくほどの疲れを感じていたが、心のどこかで強い炎がともり続けているのを感じる。母の手を再びしっかり握れるまでは、どれだけ苦しくても立ち止まるわけにはいかない。


 そうしてリュディアは扉を開き、ふと振り返って廊下を一瞥した。この先にあるのは保守派との衝突、伯爵家の動揺、そして母の容体がさらに悪化するかもしれないという恐怖。しかし、きっと何らかの道があると信じたい。レオンの解読が進めば、呪いの刻印の正体がはっきりするはずだ。ユイスなら、その欠片を理論的に組み直す術を編み出すかもしれない。


「お願い……間に合って」


 小さな呟きが夜明けの静寂に溶けていく。伯爵家の暗部に光が射すときまで、リュディアは耐え続けるしかない。母のために、そして自分自身のためにも——。


 彼女はそっと自室へ入り、扉を閉めた。いつ再び保守派が押しかけてくるかわからないが、その前にほんの少しだけ休息を取ろうと思う。疲労で倒れてしまえば、母を支えることも叶わない。この戦いはまだ始まったばかりだ。遠く、朝の鳥の声が聞こえた。夜の闇が徐々に光に溶け、伯爵家には新しい一日が忍び寄っている。しかしリュディアの心には、決断を迫る重い影が変わらず大きくのしかかっていた。


 彼女の瞼が下りた瞬間、廊下からは慌ただしい声が聞こえる。伯爵家の家臣が何かを呼び合っている。だがリュディアは、震える足をかろうじて止めることを選んだ。もう限界だった。ほんのわずかな休みでもとらなければ、次にくる保守派の要求を迎え撃つことさえままならないだろう。


 深いため息に混じり、微かな決意がこぼれ落ちる。


「母上、もう少しだけ待っていて……私、絶対に諦めないから」


 戸外から射し込む朝のかすかな光が、リュディアのかじかむ指を照らしていた。部屋の中はひんやりと静かだが、心の内には尽きない闘志と焦りが渦巻いている。ファルネーゼ侯爵の代理はまた来る。言葉巧みに伯爵家を追い詰めるだろう。けれど、屈するわけにはいかない。母を断念するなど、あり得ない選択だ。


 一日の始まりを告げる鐘の音が遠くにかすんでいる。リュディアはその音を聞きながら、まぶたを閉じた。数刻もすれば再び母のもとに戻ろう。そこで微笑むことが、今の自分にできるせめてもの行動だ。どうか、レオンとユイスの解読が間に合いますように——その祈りだけを胸に抱えて。

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