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8. 伯爵家の暗部

 夜半、イヴァロール伯爵家の屋敷は灯火が少なく、ひっそりと沈んだ空気に包まれていた。正面の玄関は普段なら華やかな客を迎えるはずが、この夜ばかりは暗く閉ざされている。そこへリュディア・イヴァロールが疲れた足取りで戻ってきた。連日の看病と気苦労が重なり、髪も乱れている。だが、そのまなざしだけは諦めきれない強い光を宿していた。


 ◇◇◇


 母が苦しむ寝室は二階の奥。廊下を曲がり、柱に取り付けられた小さなランプの下を通り抜けるたびに、リュディアの胸がざわつく。


 扉をそっと開けると、そこには蒼白な顔で横たわる母がいた。傍には医師らしき人物が一人、遠巻きに様子を見ているが、治療の手立てをするわけでもなく腕を組んで眉をひそめているだけ。


 リュディアは寝台の脇に駆け寄った。


「お母様……」


 声をかけても、母は弱々しい吐息で返すのみ。呼吸が浅く、まぶたは震え、潤んだ瞳が娘をなんとか捉えようとしているようだ。


 伯爵家の従者が控えめに頭を下げた。


「お嬢様、お戻りでしたか。さきほど聖職者を呼んだのですが、やはり『平民血が絡む病は神聖な治癒では扱えない』と申されて……」


 その表情にはどうにもならない無力感が漂っている。リュディアは唇をきつく結んだ。平民だから、という言葉を母の前で口にしてほしくない。それがどれほど母の心を傷つけるのか、考えただけで胸が痛む。


 伯爵家の当主である父――リュディアの父は少し離れた場所に立っていた。張りつめた面持ちが、なにやら重い決断を先延ばしにしているようにも見える。


「リュディア、落ち着け。母の衰弱が続いているが……実は伯爵家には古くからの慣習があってな」


 母の寝顔を気遣うような声ではあるが、どこか言いにくそうだ。


 リュディアは振り返り、父の表情を探る。


「慣習って、何ですか。以前から噂は聞いていましたが、今さら隠し立てする意味があるんですか?」


 その問いかけに対して、父は苦渋に満ちた目を閉じる。


「……婚姻の際に紋章を刻む儀式だ。貴族同士であれば魔力の共有が円滑になる。しかし平民の血だと魔力が拮抗して、反動が起きやすいと言われている。お前の母がこうして苦しんでいるのも……その刻印が合わず、無理をしているからかもしれん」


 リュディアは息をのんだ。


「刻印、というのが母様の身体に負担を与えている……ということ、ですか?」


 父は答えにくそうに、わずかにうなずいた。


「私だって最初は迷信だと思っていた。だが、古くから“平民の血を混ぜてはいけない”と伯爵家の先人たちが戒めてきたのには理由があったらしい」


 重苦しい沈黙が、寝室全体を覆う。母のか細い呼吸だけがかすかに聞こえる。


「ならば余計に、早く対策を探すべきじゃありませんか!」


 思わず声を張り上げたリュディアに、父は肩を落とした。


「保守派は、この事実を公にしたくないのだ。『伯爵家の名が傷つく』と……。私が下手に動けば、あちらの逆鱗に触れる」


「名が傷つく? 母様が苦しんでいるのに、家の体面が先なんて……!」


 声を荒らげそうになるのをこらえ、リュディアは母の手をそっと握る。冷たい。


「……お母様、私が戻ったわ」


 母のまぶたが少し開いて、リュディアのほうを向く。だが、まともに言葉が出せる状態ではなさそうだ。


 医師の一人が口を開いた。


「何度も申し上げていますが、これは“平民の血”ゆえに身体が魔力の負担に耐えられないのです。伯爵家としては、いっそ静かに休ませるのが賢明かと」


 その言い方に、リュディアは胸が熱くなる。まるで母を見捨てろとでも言っているかのようだ。


「でも、ほかに方法があるかもしれないじゃないですか……学園には新しい研究もあるんです!」


「ああ、あれですか。邪道と噂の。危険を冒すより、そっとしておいたほうが伯爵家の名誉を保てるでしょう」


 医師は冷ややかにそう呟くと、何の施術もしないまま寝室を後にする。リュディアは追いかけたい衝動に駆られたが、母の手を離すわけにはいかなかった。


 ◇◇◇


 しばらくして、寝室の隅に控えていた年配の家臣が声を落として話しかけてきた。


「お嬢様、このままでは奥方様のお辛い時期が長引くだけ。保守派の方々に知られれば、イヴァロール家の評判が落ちかねません。そうなれば、伯爵家を守ることも……」


「評判、名誉、そればかり……」


 リュディアは目を伏せる。怒りと悲しみがごちゃ混ぜになっているが、母の前では感情をぶつけることもできず、震える唇を噛む。


 家臣は気まずそうに視線をそらした。


「無論、奥方様を見捨てるなど……心苦しいのですが、現に手が打てないとなると、さしあたって情報を伏せる以外に手段がないのです」


 リュディアは聞きたくない言葉を聞かされているようだった。このままでは母がどんどん悪化していくのを黙って見ているしかない。しかし伯爵家の当主である父すら、保守派に遠慮して具体的な行動を起こさない。


「情報を伏せるだけで母様が助かるわけでもないでしょう! ……ねえ、なぜ誰も何もしないの?」


「私たち下々にはわかりません。ただ、保守派に睨まれれば財政も人脈も潰されかねない。伯爵様としては……家全体を守るのが第一かと」


 薄々感じてはいたが、改めて言われると胸が痛い。家のために母を犠牲にするなんて、そんなの納得できない。リュディアは母の手を包み込み、指先に少しでも体温を与えようとする。


「お母様……」


 小さく声をかけると、母の指が弱々しく動いて、リュディアの手を握り返そうとする。か細い力だが、それが精一杯の返事なのだろう。


「大丈夫、お母様。私が何とかするから。絶対に……諦めないからね」


 そう告げても、母の瞳には不安が色濃くにじんでいる。必死に娘を励ましたいのかもしれないが、いまは言葉を発する余裕すらないようだ。


 ◇◇◇


 やがて父が再び姿を見せた。先ほどの医師を見送ってきたらしい。目がどこか沈んでいて、いつもの厳格な雰囲気が影を潜めている。


「リュディア、容体はどうだ?」


「変わりません。体力も落ちているし、治療と呼べる処置もしてもらえない。これでどうしろというの……?」


 父はベッドを覗き込みながら、低く声を押し殺した。


「伯爵家の紋章は、かつてから婚姻相手にも魔力を分け与える特異な術式が組まれている。平民血に刻印すれば支障が出るかもしれない、と古文書には……」


「それなら、その古文書を参考に何とかできる術式を探せばいいじゃないですか。今は数式魔法もあるし、私が学園で――」


「……保守派はそれを許さんだろう。私とて、お前の母を見捨てたいわけじゃない。だが、正面から動けば……伯爵家が圧力で潰される可能性もあるんだ」


 父の言葉を聞きながら、リュディアは怒りで胸が震えた。家名の重みがこれほどまで母を追い詰めるとは――。


「そんな……母様の命と家の格式、どっちが大事なの?」


「…両方だ。家を失えば伯爵領の人々も路頭に迷う。お前だって正統の後継者として将来がある。母一人を救うために、すべてを捨てる覚悟はあるのか?」


 リュディアは声を詰まらせる。まさか父にそう問われるとは思わなかった。


「私は……母様を見殺しにしたくない。ただそれだけよ」


 その短い返事に、父は目を伏せるだけで何も言わなかった。


 ◇◇◇


 夕刻が過ぎ、夜が更けても母の容体は変わらない。寝室には時折看護の者が入ってくるが、大した治療はできず、飲み水を与えるぐらい。伯爵家の者たちは噂を外へ漏らさぬよう口を閉ざし、保守派の影を恐れて落ち着かない。


 リュディアは母の枕元に座り続けた。


「ねえ、母様……このままじゃ、あなたは本当に……」


 恐ろしい想像は頭から振り払おうとするが、母の手から伝わる熱はあまりにも弱い。焦る気持ちが募るばかりだった。


 そこへ、古参の家臣が現れ、小声で耳打ちする。


「お嬢様、先ほど屋敷に立ち寄った保守派の使者が『これ以上伯爵家の秘密を探り出すな』と、遠回しに釘を刺してきました。どうやら刻印の話を知りつつあるかもしれません」


 リュディアは眉をひそめる。


「刻印が知られれば、伯爵家の恥になると……そう言いたいのね。でも、そんなことより母様を救うのが先でしょう」


 家臣は申し訳なさそうに頭を下げる。


「世の中には、家の体面ばかり重視する方々も多いのです。お嬢様がご存じのように、ここではそうした空気に逆らうのは容易ではありません」


「……でも、だからって何もせず母様を――」


 声が震えそうになるのをこらえる。ここで取り乱しても母に不安を与えるだけだ。母はきっと、自分以上に怖いはずだから。


 ◇◇◇


 夜が深まり、静まりかえった廊下にリュディアが一人出てきた。何とか母を寝かしつけ、看護の者に任せて少しだけ休むつもりだったが、眠れる気がしない。


 ふと、窓から外を見下ろすと、屋敷の門のあたりに見知らぬ影があった。どうやら保守派の手先らしき人間が伯爵家の動向を探っているらしい。かすかな月明かりに照らされて、黒いマントがちらりと動いたように見える。


「……あの人たちは、母を見捨てるようなことを本気で考えているんだろうか」


 誰にも聞かれないよう小さく呟くが、胸のうちの苛立ちはおさまらない。伯爵家の伝統、刻印の呪縛、そして保守派の存在――すべてが母を追い詰めているようだった。


 少し歩き、使用人のいない応接室に入り込む。そこには古い棚が並び、古文書の一部が無造作に突っ込まれている。


「このあたりに、何か手がかりは……?」


 無意識にそうつぶやき、棚を眺める。過去の記録の断片でも見つければ、母の治癒に役立つかもしれない。それとも、学園の誰かに見せれば何らかの糸口が得られるのか。


 けれど、本の背表紙はどれも読みにくい文字が並び、専門知識がなければ理解が難しそうだ。リュディアは気力を振りしぼってページをめくりたいが、焦点が定まらず、まぶたが重い。


「もう……限界、かも」


 そう思いながらも、本を一冊取り出して机に置いた。少しくらい何か書いていないか、すがる思いで開く。


 そこには歴代当主の家系図や書簡の写しが断片的に載っていたが、大半が「刻印がもたらす恩恵」「血の高貴さを守るために」など、貴族社会の権威を肯定するばかりの記述だ。母にとっては、むしろ毒のような文章が続く。


「母様には関係ないわ……こんな血統主義の塊……!」


 喉の奥から怒りが湧きそうだったが、それを押し殺して本を乱暴に閉じる。どうやら、ここには母を救う秘密など書かれていそうもない。


 階下から誰かがこちらに来る足音がする。家臣か父か、あるいは保守派の探りかもしれない。リュディアは本をそっと棚に戻し、息を整えて扉を開けた。


 そこにいたのは父だった。目の下に大きなくまを作り、険しい面持ち。


「こんな夜更けに……まだ何か探しているのか」


「母様の手がかりになりそうな文献を、と思ったけれど、ほとんど意味がないものでした。父様は……母様を本当に助ける気があるんですか?」


 父はうつむいたまま言葉に詰まる。


「助けたいさ。だが、保守派に背を向ければ、イヴァロール家にどんな仕打ちが待っているか……。私はお前も含め、多くのものを失うかもしれないと考えると、踏み切れない」


「私は、母様が死んだら……それこそ取り返しがつかないと思うんですけど」


 冷えた声を出してしまった自覚があるが、リュディアの怒りはどうしても抑えきれない。


 父は言い返すことができないのか、小さく息を吐いた。


「少し休め。お前が倒れては何もならん。母上を看取るのは……私の役目でもある。少しは私を信じろ」


 そう言って父はゆっくりと歩き去っていった。


 ◇◇◇


 静まりかえった屋敷の廊下を、リュディアはまた一人で歩く。足取りは思いのほか重く、頭痛がするほどの眠気を感じたが、母の姿が頭から離れない。


「……学園のほうでレオンが解読を進めてくれてるかもしれない。あの古い写しを誰かが役立ててくれれば……」


 小さく独り言をこぼし、壁に寄りかかる。レオンの頼りなさは知っている。けれど、彼にしか読み解けない文字があるなら、そこに賭けるしかない。


(ユイスもきっと協力してくれる。でも……)


 心の中で何度も葛藤しながらも、結局行動が伴わない自分をもどかしく感じる。母を救いたい気持ちと、家の体面を潰せないプレッシャー。そして何より、ユイスに弱みを見せるのが恥ずかしいという小さな意地。


「……そんなこと言ってる場合じゃないのに」


 誰もいない廊下に声が虚しく反響するだけ。


 寝室へ戻ると、母は浅い眠りのまま小さな息を繰り返していた。安堵すべきか、それとも今はただ苦しみを忘れているだけか。リュディアはベッドの近くに腰を下ろし、母の手を握る。


「大丈夫よ、母様。私が何とかする」


 その決意だけは揺るがない。明日になれば、保守派がさらに伯爵家へ圧力をかけてくるかもしれないが、構わない。何があろうと、母だけは見捨てない――そう誓い、リュディアは母の枕元で瞳を閉じた。眠気というより、意識が半ば飛んでいく感覚に近い。


 薄暗い部屋で、母の微かな呼吸音を感じながら、リュディアの心はただ一つの言葉を繰り返していた。


 ――「救いたい」。


 そんな願いと疲労が重なり合うまま、夜は深く静かに流れていく。


 彼女にははっきりとわかっていた。このままでは伯爵家は母を切り捨てる方向へ動きかねない。それを止められるのは自分だけだ、と。ならばどうする? どう動く? 疲れ切った頭には答えが浮かばない。


 床についたまま動かない母の手をじっと握り締め、リュディアは瞼を落とす。廊下からは、もう人の気配も感じられなかった。屋敷全体が夜の闇に閉ざされ、母を救うための光はまだ見えない。


 それでも、リュディアは耐える。朝が来れば、何か行動を起こさねばならない。この伯爵家の“呪い”とも呼べる刻印に――そして保守派の理不尽な視線に、正面から立ち向かう手段を探して。


 夜明け前、母の寝息に合わせて小さく呼吸を整えるリュディアの姿が、息絶えそうなか細いランプの灯りに浮かんでいた。心の中で何度もつぶやく。「今は休んで。絶対に私が何とかするから」と――。


 その誓いが、朝陽とともにどんな行動を生むのか。重苦しい伯爵家の空気を破る道は見えなくとも、リュディアは立ち止まるわけにはいかなかった。

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