1. 王都ラグレアの洗礼
「新入生か? お前、育成寮の部屋割り、間違ってないか?」
学園の正門を抜け、白亜の本館を横切って事務局へ入ると、奥のカウンター越しに座る職員がこちらの書類をじろりと確認した。
小さく息を吐きつつ、俺は最低限の手続きだけを済ませようとする。すると、職員の女は眼鏡の奥で目を細め、どこかおもしろがるような口調で言う。
「ユイス・アステリア……特例奨学生ね。魔力評価は、あまり高くないみたいだけど? まあ、頑張りなさいな。寮は……育成クラス寮になるわね。世間じゃ“問題児クラス”と呼んでるけど」
その言葉にほんの少しの嘲りが混じる。俺は無言で頷き、差し出された地図や書類を受け取った。貴族寮との格差をまざまざと示すかのように、彼女の横にいる他の職員までくすくす笑っている。ここには、王都の身分差別がすでに当たり前の形で根を下ろしているのだと感じた。
廊下へ出ると、中庭から差し込む陽光が眩しい。実技演習なのか、遠くで風を切るような魔法の気配がする。貴族らしき学生が談笑する一方、俺のような庶民出身者には目もくれない。その光景を心に留めつつ、裏手の道を進んでいく。
地図をたよりに裏手まで回り込むと、これが育成クラス――いわゆる問題児たちをまとめた寮が視界に入った。外壁は古び、屋根瓦にはところどころ剥がれかけの跡が残る。錆びついた看板が“育成クラス寮”と辛うじて読めるが、その呼称とは裏腹の扱いが見て取れた。
扉を開いた瞬間、古い木の床がぎしりと大きく軋む。踏み出すたびに廊下は重苦しい音を立てるが、ここが自分の新生活の場だと思うと、奇妙な決意が胸に広がる。
「……とにかく入ってみるしかない、か」
自分にそう言い聞かせ、廊下を奥へ進んだ。少し行くと、階段のそばで長身の少年と目が合う。がっしりした体格と火系の魔術書が目立ち、まっすぐな視線を投げかけてきた。
「やっぱり新入生だよな? 俺、トール・ラグナー! 君もここに来たってことは……育成クラスか?」
明るく伸びのある声。俺は鞄を肩に掛け直しながら軽く頷く。
「ユイス・アステリア。まあ、同じようなもんだ」
「そっか。育成クラスって聞こえはいいけど、実際は問題児ばかり集められてるらしいよな。俺、火系魔法が好きなんだけど、暴走しやすいのがネックで……試験もギリギリ合格だったんだ」
苦笑いを浮かべながらも、その瞳は妙に澄んでいる。熱意でいっぱいという感じだ。
「とりあえず荷物置いてくるわ! また後で会おう!」
そう言い残すと、トールは大荷物を抱えたまま先に階段を駆け上がっていった。
彼がいなくなった廊下をさらに進むと、今度は細身の少女が両腕に荷物を抱えて歩いてくる。その小柄な体とは裏腹に荷物が大きいせいか、歩調が不安定に見えた。俺と目が合うと、少女は少し驚いたように立ち止まり、縮こまるように頭を下げる。
「す、すみません……あなたも新入生、ですか……?」
か細い声。俺は静かに頷き返す。
「ユイス・アステリア。きみも育成クラス……だよな?」
「はい、ミレーヌ・クワントっていいます。初めてで……あまり慣れてなくて……」
声が震え、恥ずかしそうに視線を落としたまま小さく会釈する。俺は何か声をかけようかと迷うが、彼女自身が慌てて「また後で……っ」と言い残し、足早に行ってしまう。何やら緊張しやすい性格らしいが、ここで過ごすうちに慣れるのだろうか。
そんなふうに、俺と同じように“不安”を抱えた新入生がいることが、ほんの少しだけ気持ちを落ち着かせてくれる。地図を手に、部屋番号を確かめながらようやく目的の扉を見つけた。
ドアを開けると、埃っぽい空気が出迎える。窓は小さいが、学園の中庭がかろうじて見下ろせる位置にある。壁紙はところどころ染みだらけで、何度張り替えたのかわからないほど傷んでいた。
「……まあ、雨さえ凌げれば文句は言えないか」
荷物を降ろし、簡素なベッドに腰掛けると、旅路の疲れが一気に押し寄せる。しばらく目を閉じかけたところで、廊下を歩く足音が止まった気配がした。やがて戸をノックする代わりに、誰かの声がかかる。
ドアを開けて顔を覗かせたのは、先輩らしき男だ。くわえ煙管のようなものを片手にぶらさげ、呆れたような笑みを浮かべている。
「ああ、間違ってないはずですが……」
「そっか。ま、ようこそ“問題児の集まり”へってとこだな。ここ、夜になると床がさらにギシギシうるさくなるから、覚悟しとけよ」
彼は自嘲気味な笑い声を漏らし、疲れた様子で頭を掻いている。
「最初は寝られないかもしれないが、そのうち慣れる。……じゃ、俺は戻るわ」
それだけ言うと、先輩は苦笑を残して去っていった。古い寮も、住めば都ということなのか。
やがて日も傾き始め、軽い夕食を食堂で済ませて部屋に戻った。灯りは薄暗く、深夜を待たずとも廊下に足音が反響する。どこか落ち着かないが、ここが自分の居場所になる以上は受け入れるしかない。
扉を閉め、狭い机に小さなランタンを置いて火を灯す。揺らめく光が壁の古傷を映し出すが、それに目を向けることなく、俺はカバンからノートを取り出した。
ページを開くと、自分なりに工夫を重ねた数式理論の断片が詰め込まれている。短縮詠唱や火力制御、魔力量の差を埋める術式の最適化……まだ完成には遠いが、ここでの学習や資料を使えば、さらにブラッシュアップできるはずだ。
その思いと同時に、胸の奥がずしりと沈むような感覚がわずかに疼く。あれからずっと抱えてきた重苦しさが、言葉にならない形で心を覆う。
ほんの一瞬、遠い記憶の笑顔が脳裏をかすめたが、今は研究に没頭するしかない。深く息を吸い込み、筆を握る。夜の静寂はかえって集中しやすい。ペン先が紙を走る音だけが、薄暗い部屋に満ちている。
「……ここからが始まりだ」
誰に向けるでもなく小さく呟く。育成クラス──問題児と揶揄されるこの場所で、俺は絶対に成果を掴み取る。失われたものを思い返すより先に、まずは前へ進むための術式を組み立てなければならない。
夜風の混ざった涼しい空気が窓からかすかに入ってくる。明日は学園生活の第一歩が本格的に始まるはずだ。ここで、すべてを変える。胸底に眠る思いをぐっと押し隠しながら、俺はノートに向かって筆を走らせ続けた。