7. 古文書
夜の風が冷たくなり始めた頃、リュディアが伯爵家の門を通ると、待ち構えていた家臣数名があわただしく動いていた。馬車を降りるなり、「お嬢様、お帰りをお待ちしておりました」と深く礼をして迎える。いつもなら落ち着いた面持ちを崩さない彼らも、どこか浮足立ったように見える。リュディアは胸騒ぎを覚えた。
「父は…どちらに?」
「執務室にいらっしゃいます。ご母堂様について、お話があるとのことです」
家臣の声は静かだが、微妙に震えている。リュディアは「わかったわ」とだけ告げて屋敷の中へ急いだ。まるでいたたまれないように視線をそらす使用人たちを横目に見ながら、長い廊下を駆け抜ける。ごく控えめな明かりの灯る執務室に入ると、父イヴァロール伯爵が机に向かったまま、鋭く資料をにらんでいた。
「リュディア、来たか…」
「ええ、馬車で急いで戻りました。母は…どんな状態なの?」
伯爵は手元の書類をそっと脇へのけると、振り返って深く息をついた。その表情は尋常ではないほど険しい。
「医師は未だに原因を突き止められず、特効薬も見つからない。先ほども別の医師を呼んだが、的外れな回答ばかりでな…」
言いながら、伯爵は机の上に広げた紙束を指さした。まばらに書き込みがある古い文字列。それは写しのようだった。
「これは、先祖が使っていたという儀式や魔術書の抜粋だ。母の病、あるいは血筋に起因する呪縛の可能性も否定できんと、家臣が調べたらしい。だが専門外の者にとっては判読すら困難だ」
「魔術書、ですか…」
リュディアはその紙束に目を落とし、見覚えのない古い術式の断片が並んでいるのを確認する。歪んだ文字や年代不明の紋章図。どれも読んだことがない。胸がざわつく。もしこれが母の病の原因を解き明かす鍵なのだとしたら、何とかしなければいけない。
「専門家は呼べないの? 王都の大図書館とか、貴族派の研究者とか…」
そう問いかけると、伯爵は顔を曇らせた。
「保守派の医師が先ほど申しておった。平民の血が混ざった夫人を深く調べるよりも、血統の純粋な領主家の方を優先すべきだと…正直、協力を渋られている。結局は事実上、我が家だけで何とかするしかない。だが私も専門的な解読などできん」
歯がゆそうに拳を握る伯爵を見て、リュディアは口を結んだ。伯爵家の体面ばかりを気にする保守派が積極的に助けるはずもない。ならば、今の自分が動くしかないのだ。
「わかったわ。学園の知識を借りられるかもしれない。わたしが何とかする」
「頼む。実はもう少し詳しい史料もあったが、古い紙がボロボロで、まとめて書き写したものしか手渡せなくてな…」
伯爵はそう言いながら、紙束を数枚抜き取り、しっかりした紐で結んで差し出す。リュディアはそれを受け取り、ぱらぱらとめくる。見たことのない古語が並び、怪しげな紋様まで描かれている。
「こんなもの、わたしには読めそうにないけど…学園になら解読できる人がいるかもしれない。父様、ありがとう。母の部屋を先に見てきます」
◇◇◇
母の寝室に向かうと、重苦しい空気に包まれていた。部屋の扉をそっと開けると、冷たい香油のにおいが漂う。侍女たちがカーテンを少し開け、明かりを落とした中、母が薄く息をしているのが見えた。
「お母さま…」
ベッドの傍らに近づくと、微かな声が聞こえる。母はかすかに目を開き、リュディアを認めると申し訳なさそうな笑みを浮かべる。
「ごめんなさいね、リュディア。こんな姿ばかり見せて…あなたを煩わせたくないのに…」
「何言ってるの。わたしは大丈夫だし、絶対に母上を助けるんだから」
けれど母の呼吸は浅く、額には汗が浮かんでいる。身体が弱々しく震えているのがわかり、リュディアは胸が締め付けられた。保守派医師からは「平民の血が混ざっているため、魔力の流れに不調をきたした」と大雑把に言われただけ。対症療法しか示さないのが現実だ。
「ちゃんと休んでいてね。わたし、またすぐ戻るから」
そう言い残し、母の手をそっと握る。冷たい。いつの間にこんなに体温が下がってしまったのか。心配と焦燥を隠しながら、リュディアは必死に微笑みかけた。
◇◇◇
翌朝、リュディアは使用人を通じて学園へ書簡を送る段取りをしていた。保守派の協力を得られない以上、学園の誰かに頼むしかない。
──とはいえ、学園にはいろいろな人物がいるが、古文書の解読となると限られる。
「ユイス…は魔力理論は凄いけれど、こういう古文はどうなのかしら。あの子はどちらかというと新しい式の組み上げが得意そうだし…」
自室で書きかけの手紙に向かいながら、リュディアは一人つぶやく。思い返せば、小領地改革の際に資料をまとめて翻訳してくれたのはレオンだった。淡々と皮肉を言いつつも、難解な文献を読みこなしていた姿が印象的だ。
「レオン…あの時も何だかんだ言いながら手伝ってくれた。あの人なら、きっと…」
ばさっと紙束を抱え直して、リュディアは決心する。すぐさま机に向かい、短い文を書き留めた。
「レオン、あなたしかできないのだと思うから、どうか協力して」
細かい敬語や礼儀などを書く余裕はない。早く届けたいという思いが筆を急がせる。それでも、乱雑にならない程度には丁寧にまとめると、さっそく書き上げた手紙と古文書の写しの一部を綺麗に封筒に詰めた。
「これを学園の問題児クラスにいるレオン・バナードという生徒へ。最優先で渡してちょうだい」
使いの者に手渡しながら、リュディアは少し強めの口調になる。家臣は顔を上げ、深々と頭を下げた。
「承知いたしました。急ぎ伺います。よろしければ、ユイス殿という生徒にもお届けを…」
「いいえ、それはいいの。レオンにだけ見せたいの。……頼んだわ」
使いの者の視線には微かな疑問が見えたが、リュディアは構わず言い切った。まだユイスには頼りたくない。こんな危ない文献を手にさせて何かあったら、あの人を巻き込むかもしれない。自分がユイスの迷惑になりたくないという気持ちもある。
内心の葛藤を表に出さず、リュディアは使者を送り出した。
「……レオン。どうか読んでちょうだい。母を救うために、わたしにはあなたの力が必要なの」
誰にも聞かれないよう小さく呟き、封筒が遠のいていく様子を見送った。
◇◇◇
それから二日後、学園の教室棟。朝の身支度を整えたレオンが昇降口を出たところで、顔色の悪い従者らしき男に声をかけられた。
「バナード様、でしょうか? イヴァロール伯爵家の使いでございます。こちらの書簡と資料をお預かりいたしました」
「はあ…俺に?」
見知らぬ男から受け取った封筒には、伯爵家の紋章とリュディアの名。レオンは思わず眉根を寄せる。
「なんで伯爵令嬢が…俺なんかに?」
使者は息を切らしているらしく、礼を言う間もなく「書簡にてご確認ください」と短く言って頭を下げると、その場を去っていった。レオンは通学路の隅に寄り、何が起きたのか確かめようと封筒を破る。
「……『あなたしか頼める人がいない』…? なんだこれ」
封筒の中にはリュディアの手紙とともに数枚の紙が折りたたまれている。古びた文章の写しだろうか。妙なシンボルや古語が並んでおり、見れば見るほど意味不明。
「まさか、こんな面倒くさそうな…」
そこへ、偶然通りかかったトールが「あれ、レオン? 珍しく真剣に目ぇ通してるな」と声をかける。
「…ああ。ちょっとな。リュディアが送ってきた変な写し。俺に解読しろってよ」
「リュディアが? おまえ意外と頼りにされてるんだな」
「頼りに、ねえ…」
トールは皮肉なく素直にそう言うが、レオンは苦笑いを浮かべるだけ。頼られているといえば聞こえはいいが、“どうして自分を選んだのか”が腑に落ちない。
◇◇◇
昼休み、レオンは人目を避けるように図書室の隅へ入り、リュディアからの写しを広げてみた。椅子に腰かけ、日差しを避けるように傘の影へ身を寄せる。
「古い文字ばっかりだな…呪術か血統儀式か、どこかで見たような…。ああ、そうだ。小領地改革のときにチラッと似た文献があったか」
ページをめくりながら、レオンは無意識に顔を近づける。読みにくい筆跡だが、独特の紋様や符号がかえって興味深い。
「そもそも、あのときはもっと断片的な史料だったけど…これはずいぶん詳しい部分まで写されてる。リュディア、よくこんなの手に入れたな」
一見すると退屈そうに見えるレオンの瞳が、次第に輝きを帯びていく。肩まで投げやりに垂らしていた姿勢を正して、何か書き写すものを取り出し始めた。
「ま、気が向いたときにサラッと読んでやるか。どうせ大したことないだろうし…」
そう呟きながら、しかしペンを動かす手は止まらない。やや斜めになった古語の一節を自分なりに解読しようと試みる。文章を追ううちに、いくつもの疑問が浮かぶ。
──“血統呪縛の儀式に準じ、すべての力は上位家系に帰属する”
──“下位に連なる血は魔力を分断され、時として身体不調を来す”
「分断される、って…本当かよ。こんな話、単なる俗説だろうと思ったけど。イヴァロール伯爵家には、こういう古来の儀式があったのか?」
いつしかレオンの顔からは退屈そうな色が消えていた。ページの端々に注がれる視線は鋭く、すでに“もっと深く読みたい”と身体が訴えているようだ。
「よし、ちょっと面倒だけど…面白そうだし、読み解いてやるか。伯爵家に何かあるんだろうな」
「…ほんとに困ってるみたいだし」
レオンは軽く鼻を鳴らし、背もたれに体をあずける。自嘲気味の笑みが浮かぶ。
「頼られるなんて柄じゃないけど…なんか変な感じだな。やるしかないか」
彼の頭の中で、「必要とされるかもしれない」という意識がわずかに芽生え始める。つい数週間前までは“自分なんかいてもいなくても同じ”と突き放していたはずなのに、今はほんの少し違った光が見えているようだ。
◇◇◇
「おい、レオン」
いつの間にか傍にいたユイスが、ちらりと彼の机を覗き込んだ。古文書の複写に書き込みを加え始めているレオンを見て、少し目を見開く。
「何を読んでるんだ? 妙に真剣だな」
「…いや、別に。ちょっとした資料だ。おまえには関係ないよ」
レオンはそっけなく返し、資料を閉じようとする。しかしユイスはその断面に見える怪しげな紋様に気づいて首を傾げた。
「リュディアの…何かか? 伯爵家独自の魔術式? もし足りないものがあれば協力するぞ」
「別に。まだ何もわかってないし、全部こっちでやるから」
ユイスは唇を結んで何か言いかけたが、レオンの視線は「深入りしないでほしい」と訴えているようにも見える。結局ユイスはそれ以上問い詰めず、いつもの落ち着いたトーンで、「わかった」とだけ返して席を離れた。
レオンは背筋を伸ばし、再び紙束に目を戻す。ほんの短いやり取りだったが、それをきっかけに彼の中で何かがふっと吹き抜けるように感じられた。
「ユイスだって、リュディアを助けたいんだろうな。でも、これは俺に任せてくれ。古文書なんて、おまえより俺の方がまだ向いてるだろ」
自分にしかできない役目があるかもしれない──。そんな予感が、心のどこかでレオンを奮い立たせる。その胸の奥には、ほんの小さな火がともったような、そんな温かい気配があった。
◇◇◇
夜になり、教室を後にしたレオンは寄り道もせず、自室へ引きこもる。古い術式の断片とにらめっこしながら、懐かしい革張りの辞典を探し出した。
「まったく、手間ばっかりかかる…でも、やるしかないか」
小さく口をとがらせたまま、彼は古語辞典のページを必死にめくる。僅かに見つけた単語の糸口が繋がるとき、一瞬だけ嬉しそうに目を細める。
一方で、リュディアにとってはこれが切実な手掛かりなのだと思い出すと、妙に胸が苦しくもなる。
「リュディアは“絶対に母を助ける”ってタイプだし。…俺がどうこうする前に勝手に解決したら、それはそれで気が楽なんだけど…」
自虐的なつぶやきが漏れるものの、その手は止まらない。複雑な紋様が実は血統と呪縛を示すシンボルであると推測できる記述を見つけると、レオンはさらさらとメモに書き込んだ。
“血統儀式により、下位血統の魔力が制限される──そう書いてあるなら、イヴァロール家が持つ先祖代々の何かが、リュディア母に悪影響を及ぼしているのかも…”
「こんな噂話みたいなもん、本当にあるわけない…いや、あの伯爵家ならあり得るのか? くそ、わからない」
しかし湧き上がる興味に逆らうように、夜が更けるのを忘れて読み耽るレオン。彼は気づいていない。自分が無意識のうちに“人のために尽くす”ことへ情熱を傾けている事実を。
「さて、もう少し解きほぐしてやるか」
夜闇が深まる頃、レオンの部屋の灯りはまだ消えないままだった。彼はあくびをかみ殺しながら、古い文字に書かれた謎を一つずつ手繰っていく。
そして心のどこかで、「頼ってくれて、ありがとう」という言葉がわずかにこぼれかけていた。最後まで声にはならなかったものの、その想いは紙に向かう熱意としてはっきり刻まれていく──。




