6. 伯爵家からの呼び出し
夜空に浮かぶ淡い月の光が、学園の中庭を静かに照らしていた。ユイスは昨日の夜と同じ道を歩きながら、思わずため息をつく。最近はいつも夜更かしが続き、肌寒い風が体にしみるように感じられた。
◇◇◇
昼下がりの講義が終わろうとしていた頃だった。控え室の前に見慣れない男が立ち、探し物でもするようにあたりをきょろきょろと見回している。その衣服についた紋章から一目でわかる。イヴァロール伯爵家の紋章だ。
「失礼、リュディア・イヴァロール様はどちらに……」
男は通りがかった生徒に問いかけていたが、その声を聞きつけたリュディアがすぐに姿を見せた。
「私です。何か用でしょうか?」
伯爵家の使者を名乗る男は急いだ様子で膝を折り、かしこまった態度をとる。
「ご令嬢、至急お戻りいただきたいとのお達しです。ご夫人のご容態がさらに……大変よろしくないと」
周囲の空気が張りつめた。リュディアの目がわずかに揺れる。
「母が……そんなに悪化したの?」
さすがの彼女も動揺を隠せず、少し震えた声で問い返した。使者は沈んだ表情でうなずく。
「当主様も相当にご心配されています。なるべく早くご帰館を、と」
リュディアは返事もそこそこに、その場から駆け出すように移動を始める。行き先は寮。最低限の荷物をまとめて、すぐに馬車で伯爵家へ戻るつもりなのだろう。彼女の真剣な足取りを見て、周りにいたエリアーヌやトールらも慌てて後を追う。
◇◇◇
寮の玄関ホールで、リュディアは小さな鞄に必要な書類と衣類だけを詰めこんでいた。まだ日が沈むには早いはずなのに、学園の廊下はどこかひっそりして見える。
「リュディア、馬車の手配とか大丈夫なの? あたし、今からでも出入り口まで走って……」
エリアーヌが不安げに声をかけるが、リュディアは首を横に振る。
「伯爵家から使者が来たのなら、もう門の外で待っているはず。気遣いはありがとう。でもこれ以上みんなを巻き込みたくないわ」
小さな声だが、その口調には硬い決意がにじんでいた。
トールが「俺たちも一緒に行って、何かあれば助けるからさ」と頼もしげに申し出るも、リュディアは首を振るだけだ。
「お気持ちは嬉しい。でも家のことは家族でなんとかしないと。皆さんにまで迷惑はかけられない」
実際には、大勢で押しかければ保守派から何を言われるかわからない。彼女はいつも以上に、学園の仲間を巻き込みたくないという思いが強いようだった。隠そうとするつもりはないが、自分で解決しなくてはという責任感が優先しているのだ。
横からミレーヌがそっと声をかける。
「あの……何かあったとき、連絡はしてくれるよね? 私も、できる限りのことをしたいし……」
あがり症の彼女は、リュディアの顔をまともに見ることもできずに落ち着かない様子だが、それでも懸命に気持ちを伝えようとしていた。
リュディアは一瞬、微笑むような表情になりかけるが、またすぐにきつい面持ちに戻ってしまう。
「ありがとう。でも……まだわからないわ。伯爵家のことは私が背負うべきだから。母の治療も……きっと、何とかなるはず」
声の端がかすかに震えている。彼女が平気なはずはない――だが、それを周囲に悟られまいとするかのように、鞄をしっかり握りしめた。
◇◇◇
リュディアが寮を出たところで、ちょうどユイスが駆けつける。研究室から飛び出してきたのだろうか、息が少し荒い。
「……リュディア! 本当にひとりで戻る気なのか?」
彼の問いかけに、リュディアはふと立ち止まる。周りはエリアーヌやトールも心配そうに見守っているが、このときばかりは誰も二人の間に割って入ろうとしなかった。ユイスは普段よりも鋭い目つきで、真剣に彼女の目を見据える。
「何かあれば力になる。……俺も行こうか?」
彼の言葉には自分でも驚くほどの熱がこもっていた。リュディアは一瞬ためらう。――正直、心強いと思う気持ちはある。しかし、そのまま素直に頷けないのがリュディアだ。
「気持ちは感謝する。でも……今は私がどうにかしなくちゃいけない。ユイスにまで負担をかけたくないの」
そう言う彼女の声はやわらかく、小さく震えていた。ツンとした態度をとるいつものリュディアとは微妙に違う。ユイスもそれを感じ取ったようで、踏み込む言葉を失いそうになる。
「……わかった。でも、もし本当にどうしようもなくなったら連絡してくれ」
ユイスがそう言いかけたとき、リュディアは弱々しい笑みを浮かべて、視線をそらすように馬車のほうへ足を向ける。
「ありがとう。大丈夫だから……」
わずかな感謝と、遠慮がないまぜになったそのひと言。ユイスはそれを背中越しに聞きながら、何も言えず見送るしかなかった。
◇◇◇
伯爵家の使者が用意した馬車は、すでに学園の門近くに止まっている。リュディアが駆け寄ると、従者が慌ただしく扉を開ける。
「リュディア様、お急ぎください。道中も速いペースで向かいますので、しっかりお掴まりを」
彼女は振り返らずに馬車へと乗り込む。その背中を、問題児クラスの仲間たちが数メートル離れて見つめていた。ユイスも少し離れた場所に立ち、黙ってその姿が遠ざかるのを見届ける。強く握った拳が、複雑な悔しさを物語っていた。
扉が閉まり、車輪が石畳を擦る音が響く。馬車は速度を上げて学園の門を出ていく。リュディアの姿は、もう見えない。
そのあと、しばらくの間、誰も言葉を発しなかった。エリアーヌは不安そうに指先をもじもじさせ、トールは黙って地面をにらんでいる。レオンの姿はどこかに消えたかもしれない――あるいは、図書館の奥へ走ったのか。
ユイスは胸の奥に生まれたもどかしさを吐き出せず、ただ立ちすくむ。
(フィオナのときも、もっとできることがあったはずなのに。今回もまた……俺は何もできないのか?)
そんな問いが頭をよぎるが、すぐに首を振る。
(いや、何もしないわけにはいかない。リュディアが戻ってきたときに、すぐに助けられるようにしておくんだ。俺にできる準備を……)
思考がまとまらないまま、彼は拳をほどき、仲間たちに向き直る。
「……とりあえず、寮に戻ろう。今日はもう遅いし、また何か情報があったら共有しよう」
誰もがそれに頷いたものの、足取りは重い。緊迫した空気と、リュディアがいない寮。いつもほどの騒がしさはなく、夕方の静寂だけがあたりを支配していた。
◇◇◇
夜になっても、ユイスは食堂で少しの夕食を口にしただけで、自分の研究室にこもっていた。ノートを開き、治癒と呪縛解除の術式を見比べる。
「何かあれば、すぐ応じられるようにしないと……」
リュディアの母の症状は、血統魔法が絡む複雑なものだろう。保守派の医師が簡単に対応できない以上、数式魔法による新しいアプローチこそ鍵になる。
ユイスが懸命に術式を組み直す姿は、かつてフィオナを救えなかった過去と同じ後悔を繰り返すまいとする意志の表れだ。
しかし、心の片隅でわずかな焦りも拭えない。もし彼女が、あのまま一人で伯爵家に押し流され、保守派に利用されるかもしれない……。学園の仲間や自分を巻き込みたくないと考えてしまうリュディアの強情さを、ユイスは痛いほど理解していた。
(リュディア、どうか無事でいてくれ――いつでも、助けたいんだがな。)
そんな心の声は、夜の静寂とともに彼の胸の奥でくすぶり続けている。
◇◇◇
外はもう真っ暗だ。月の光だけが、学園の石畳に淡い影を落としていた。
研究室の明かりを落として廊下へ出ると、ユイスは人の気配を感じない静かな校舎を足早に進む。昨夜と同じ場所を歩きながら、いつも以上に夜風が冷たいと感じた。
(リュディア……戻ってこいよ。絶対何か力になるから。)
そう呟くように唇を震わせ、ユイスは寮への道を急ぐ。今夜は身体を休め、明日から本格的に数式理論を再検討するつもりだ。もしリュディアから連絡が来たなら、迷わず伯爵家へ向かおう――たとえ拒まれたとしても、放っておけるはずがない。
ユイスは自分を鼓舞するように足を踏み出し、星のまたたく校舎の外灯を背に、寮の扉を開けていった。




