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5. 不器用

 ――夜の帳が明けきらない早朝の学園寮。レオンが息を潜めるように部屋へ戻ったのは、ほんの数時間前のことだった。廊下からかすかに聞こえる足音や、朝食を求めて動き出す生徒たちの気配。けれど彼はベッドに横になったまま瞼を閉じ、寝ているのか起きているのか判別しづらいほど静かだった。


 ◇◇◇


 一方、同じ寮の一階ではユイス・アステリアが廊下を歩いている。乱れがちな寝癖を指先でなんとか押さえつつ、ぼんやりとした足取りだ。夜遅くまで研究室にこもっていたせいで、目の下のクマはいつにも増して濃い。


「おはよ、ユイス」

 エリアーヌが背後からひょこりと顔をのぞかせる。


 彼女は両手に菓子の包みがいくつか入ったバスケットを抱え、どこか浮き足立っているようでもある。


「……朝からずいぶん元気だな」


 ユイスは顔をしかめながらも、ちょっとだけ和んだ表情になった。いつもの調子の良いエリアーヌを見ると、自分が抱えている重苦しい気分が少しだけ薄らぐから不思議だ。


「リュディアさんにお見舞いのお菓子でも持っていこうと思って。気が滅入ってるみたいだから、何か甘いものを食べて元気になってほしいなって」


「そっか……でも、彼女、そんな気分じゃないかもしれない」


 エリアーヌは「うーん」と唸りつつも、包みを抱えなおした。「それでも、わたし黙っていられなくて。ユイスはどう? 彼女と話せそう?」


「正直、よくわからない。リュディアの表情見るたびに、声をかけてもいいのか躊躇ってしまうんだ。……母親のこと、相当気にしてるのはわかるんだけど、どう踏み込めばいいか見当がつかなくて」


 ユイスは苦い顔を浮かべながら答える。


 エリアーヌは「そっかあ」と困ったように微笑んだ。けれど、いつもの調子でぱっと笑みを返すと、「ま、あたしはあたしのやり方で頑張るね!」と前向きな声を残して階段を駆け上がっていく。食堂へ向かう仲間に菓子を分けるつもりなのかもしれない。


 残されたユイスは小さく息をついて、胸ポケットにしまっていたノートを取り出した。そこにはフィオナの名前と、いくつかの術式計算がぎっしり記されている。夜な夜な書き殴ったメモの断片をざっと見返し、すぐに閉じる。


「……どうして、いつも同じなんだろうな」


 誰に向けるでもない独白が、廊下の床に吸い込まれていった。


 ◇◇◇


 朝の講義が終わり、学園の中庭。ここは貴族の子弟や上位クラスの生徒がよく行き来する場所だ。緑が整えられた庭園の小道を、リュディア・イヴァロールが一人通り抜けようとしていた。


 その姿を見つけたユイスは、少し勇気を出して近づく。


「リュディア。……母親のこと、何か手伝えることはないか?」


 彼女は振り向き、わずかに眉をひそめる。


「急にどうしたの? わたしは別に、あなたに相談なんかしてないけど」


「そうだけど……最近、いろいろ大変そうに見えるから。気のせいならいいんだけど」


「気のせいよ。余計な心配なんかしないで。大丈夫なんだから」


 リュディアは一瞬言葉を飲み込んでからそう付け足す。だが、口調に宿る硬さは隠しきれない。


 ユイスはそれを察しつつも、どう返していいかわからず、途方に暮れた面持ちだ。


「でも、もし何か力になれそうなことがあったら、遠慮せずに言ってくれ。俺は、その、困っている人を放っておけない」


「……放っておいてよ」


 リュディアは小さく息をついて、視線をそらす。


「あなたが関われば、また変な噂になりそうだし。わたしの家のことだって……結局うまくいくかどうか、わからないから。あなたまで巻き込みたくない」


 言い終えると、リュディアは足早に去っていく。ユイスは追おうと一歩踏み出しかけたが、彼女の背中を呼び止める言葉が出てこなかった。


 ◇◇◇


 そんな光景を遠くから見ていたトールが、慌てた様子でユイスのもとへ近づいてくる。


「リュディア、どんな感じだった? まともに話してくれたか?」


 ユイスは肩を落としながら首を振る。「全然。手伝うとは言ったんだけど、拒まれたよ。別に無理強いはしたくないけど……どうすればいいのかな」


 トールは髪をがしがしとかき乱し、「明らかに余裕なさそうだろ? それでも意地張ってるっていうか、抱え込みすぎなんだよなあ。見てるこっちまで落ち着かないぞ」と苦笑する。


 そこへエリアーヌも合流してきた。彼女はいくぶんしゅんとした表情で、「わたしも甘いお菓子持っていったけど、“気遣いはありがたいけど、今はそういうのじゃない”って……」とこぼす。


 ユイスはその言葉にうなずきながら、ふとノートを取り出し、無造作にページをめくった。そこにはフィオナを救えなかった記憶と、それを埋めようとする数式理論の計算がびっしり残っている。


 ――あの時、もっと早く完成させていれば、あるいは彼女を救えたかもしれない――


 その思いがまた痛みのようにこみ上げる。もしリュディアまで見捨てることになったら、自分は同じ過ちを繰り返すことになるんじゃないか。


「……俺は、何とかしたい。放っておけないんだ」


 ユイスがぽつりとつぶやくと、エリアーヌは明るい声で返す。「そうだよ。ユイスはそういう人だし、リュディアさんだって本当は頼りにしたいかもしれないもん。ただ、今は素直に言えないだけかも」


「そうだな……」


 ユイスは小さく笑おうとしたが、笑みがぎこちなく止まる。気ばかりが空回りする感覚が残り、彼の心からはもどかしさが消えなかった。


 ◇◇◇


 その夜、ユイスは研究室にこもっていた。分厚い本とノートを机の上に広げ、新しい術式の可能性を探っているようだ。


 隅の棚には、小領地改革で実験に使った魔道具がいくつも並ぶ。動力の規模こそ小さいが、それらを複合的に組み合わせれば、血統魔法の壁を超える方法があるかもしれない……そう信じている。


「リュディアが何も言ってこないなら、それまでに俺にできることを進めておくしかない」


 声に出すと、少しだけ気が紛れる。


「……もしフィオナのときに、誰かがこんなふうに助けをくれていたら、違う未来があったのかな」


 脳裏に浮かぶのは、儚い笑みを残してこの世を去った幼馴染の姿。助けたくても助けられなかった痛切な記憶が、彼を追い立てるように術式の計算へと駆り立てる。


 しかし、論理式を書き連ねている最中も、リュディアのことが頭から離れない。「本当に俺の手を必要としてくれる日が来るのか」――その不安と、同時にどうしようもない期待。言葉にならない渦が胸中で渦巻く。


 ◇◇◇


 翌朝。図書室の窓から薄日の差す早い時間。


 朝の講義に備えて本を探しに来た学生がちらほら見える中、ユイスはひとり背の高い書棚の前に立っている。重めの史書を開き、古い儀式や呪縛の記録を確認していた。


「リュディアがいつ、助けを求めてもいいように……」そう呟き、ページをめくる指先は迷いを含んでいる。彼女が母を救うための方法を探すなら、こうした情報が役に立つはず。だが、それをリュディア本人に押しつけるのは躊躇われる。


「……おまえ、随分と肩に力入ってんな」


 と、不意に声がかかる。担任のグレイサー・ヴィトリアがいつの間にか隣に立って、相変わらず素っ気ない表情でコーヒーカップを片手にしている。


「グレイサー先生……」


「お前が何を思って動いているかは知らんが、やりたいようにやるしかないんじゃないか? 下手に誰かに合わせようとすればするほど、自分も相手も疲れるだろう」


 ユイスは一瞬口をつぐみ、しばらくしてから小さく息を吐く。


「そう、ですよね。……相手の気持ちを尊重したいんです。でも、余計なお世話かもしれないって思うと、足が止まってしまうんです」


 グレイサーは「ふん」と鼻を鳴らし、コーヒーをひとくちすすってから視線を遠くへ向ける。


「余計なお世話かもしれんし、そうじゃないかもしれん。結果はやってみなければわからんが、やらずに後悔するよりはいいんじゃないのか? どうせ、お前はそういう性分だろう」


 それだけ言い残すと、彼は「まあ、適当にやれ」と言わんばかりに踵を返して図書室を出ていった。ユイスはその背中に軽く頭を下げ、再び本へと目を戻す。グレイサーの言葉の通り、立ち止まっている場合じゃないかもしれない――そう思うと、ほんの少しだけ胸が軽くなった。


 ◇◇◇


 昼下がり、学園の中庭を行き交う生徒の間に、リュディアの姿は見えない。ユイスはしきりに気にしながらも、彼女の姿を探し続けることを躊躇っている。アプローチを重ねても「放っておいて」と言われるなら、無理強いはできない。


 そんな歯がゆい気持ちを振り払うように、ユイスは研究室へ急ぐ。そして机いっぱいに広げた資料を睨み、ノートにペン先を走らせた。


「もし、リュディアがいつか俺に助けを求めてくれるなら……」


 囁くようなその声は、誰にも届かない。それでも彼は手を止めない。まるで、かつて救えなかったフィオナの無念を晴らすように、術式の方程式を書き進める。文字や数字が連なるほどに、彼の焦燥と希望が混じり合っていく。


 ――言いたいことはあるのに、うまく言葉にならない。力になりたいのに、相手はそれを拒んでいる。


 悶々とした想いを抱えたまま、ユイスはひたすらノートを埋め尽くす計算へと没頭した。今はそれしかできない。不器用な自分にできる最善の形――そう信じて、夜が来るまで手を止めることはなかった。


 ◇◇◇


 そしてまた日が沈む頃。研究室から出たユイスは、懐にノートを押し込み、人気の少ない廊下を歩いて寮へ戻ろうとしている。視線はうつむきがちで、疲労の色が濃い。それでも、脳裏に浮かぶのはリュディアの姿だ。


「彼女が本当につらいときに、俺はちゃんと支えられるのかな……」


 声に出せない独り言が、空気に溶けていく。答えはまだ見つからない。それでも前へ進まなければと自分を叱咤するように、ユイスは足を速めた。遠回りなやり方しかできない自分がもどかしい。いつか彼女が助けを求めてきたとき、無力なままでは終わりたくない――それだけが、彼の足を動かしていた。


 昼間に交わしたリュディアの冷たい言葉が、何度も頭をよぎる。だが、それが彼を止める理由にはならない。


「俺にできることを、ただ積み重ねていくしかないんだ。あの時みたいには、もう二度と……」


 そんな決意を抱えて、ユイスは人気の途絶えた学園の渡り廊下を駆け抜けていく。その姿は不器用だが、どこか揺るぎないものを感じさせた。フィオナへの痛ましい後悔が、彼を奮い立たせているのは間違いない。


 夜風の冷たさが、ほんの少しだけ心を締めつける。しかし彼は唇を一文字に結び、次の朝へ向かう寮の扉を開けた。


 まだリュディアとの距離は遠いまま。けれど、一歩ずつでも近づける道があるのなら、彼は迷わずそこを歩くだろう――そう信じるように、深呼吸をして足を踏み出す。今はまだ、言いたいことを言えない不器用な毎日。それでも、扉の向こうに待つ夜明けが、いつか報われる日を連れてきてくれることを願いながら。

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