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4. レオンの憂鬱

 レオンは朝の光が差し込む図書館の片隅で、重たそうに分厚い本をめくっていた。眠気と無気力の入り混じった視線がページの上をなぞるが、内容が頭に入ってくる気配はない。周囲の生徒たちが活気に満ちた足取りで本を探し、次々と席に着くのを横目に見ながら、レオンは形ばかりに本を開いているだけだった。


「……こんなところにいても意味はないのにな」


 自分でも聞き取れるかどうかという小さな声で、そんな本音をこぼす。話し相手がいるわけでもないが、気づけば口の端から嘆息がもれ出る。その吐息は図書館の静寂に吸い込まれ、誰にも気づかれずに消えていく。


 レオンは小声を漏らしたあと、椅子にもたれるように寄りかかる。視線を少しだけ上げれば、窓の外には整然とした学園の中庭が広がっていた。まだ朝の時間帯ゆえに生徒たちの姿はまばらだが、元気な声がかすかに聞こえてくる。あの中に入れば、エリートと呼ばれる上位クラスや研究に熱心なクラスメイトたちが、楽しそうに何かを議論しているのだろう。そう想像するだけで、レオンは頭の芯が痛むような疲労感を覚えた。


「どうせ、現状で大きな成果を出しても……“ユイスがすごい”で終わりなんだよな」


 本当はその言葉の裏に、ひそかな嫉妬や空しさが混じっている。しかし自分で認めるつもりもなかった。レオンにとって、ユイスは特別に光る存在だったし、本人が無自覚であろうと人を惹きつける力をもっている。あの小領地改革だって結果的にはユイスが中心で成功し、それを見た周囲も、みんながユイスに注目していたではないか。


 レオンは、その成功の裏で自分が地図の解析や古い資料の翻訳など、いくつか重要な仕事をこなしたことを一応は知っている。けれど誰もそれを正面から認めてはくれなかった——少なくともレオンにはそう思えてならない。


「結局、俺なんて、いなくても変わらなかった……」


 小領地に行かずに学園に居残っていても、たぶん同じ結果だっただろう。そんな卑屈な観念がこびりついて離れない。本人ですらそう思い込んでいるからこそ、周りが何を言おうと心に響かないのだ。


 ◇◇◇


 昼食の時刻が近づき、生徒たちが徐々に図書館を出て行く。レオンもさすがに空腹を感じ、重い腰を上げた。


 学園の食堂に入ると、もともと活気づいていた室内は昼休みを迎えたばかりで席がほぼ埋まっている。トレーを手にしたレオンは、人込みの隙間をすり抜けるように進み、奥まったテーブルを見つけようとする。と、その途中でエリアーヌとミレーヌ、それにトールの姿が目に入った。


「レオン、こっち座れって!」


 大きく手を振っていたのはトールだった。少し離れた席から、レオンを目ざとく見つけて手招きをしている。その近くでエリアーヌとミレーヌがにこやかに微笑みかけるのが見えた。


 一瞬、レオンの足が止まる。彼らと食事をとるのは別に嫌ではなかった。むしろ、気にかけてくれる仲間がいるという事実は彼をほんの少しだけ安心させる。それでも、心のどこかで「どうせ一緒にいても俺はたいした話をできない」という思いが先に立つ。


「……ま、いいか」


 誰にも聞こえない程度にそうつぶやき、レオンは彼らのテーブルへと向かった。テーブルにつくとトールが元気な声を上げる。


「おう、今日は図書館か? 朝から姿が見えなくてよ。黙って一人飯かと思ったぜ」


「俺は別に、なんとなく……」


 曖昧な返事をしながらスープをすすろうとすると、エリアーヌがテーブル越しに身を乗り出すように言った。


「そういえば、この前の小領地の地図解読、すごく助かったんだよ。私、あんなに複雑な地形を把握できなかったし……レオンがまとめてくれたおかげで移動も楽だったなぁ」


「……ああ、そう。まあ、たまたまだろ」


 レオンが視線を落としてぼそりと返すと、ミレーヌまでが少し興奮気味に続ける。


「うちの父が言うには、地形と商路の分析ってすごく重要なんだって。レオン、ああいうの得意なんでしょう? もっと活かせる機会があると思うのに……もったいないよ」


「得意ってわけじゃないよ。たまたま本で見かけた知識を繋ぎ合わせただけだ」


 せっかく仲間が褒めてくれているのに、レオンの返事はどこか投げやりだった。トールが首をかしげる。


「まあ、おまえの知識はすげえと思うけどなぁ。どうしてそんなふうに卑屈になるんだ? 胸張っとけばいいだろ?」


「胸張るのが苦手なんだよ」


 そう言ってレオンはわざと淡々とした口調を維持した。少し気恥ずかしさもあり、周りの温かい言葉を素直に受け取るのがどうにも苦手なのだ。


 昼食はそれなりに和やかだったが、レオンの口数は少なかった。エリアーヌやミレーヌはレオンにもっと話を振ろうとしたが、返答は相変わらず「別に」「どうでもいい」で済まされていく。トールも「無理せず喋ればいいさ」と大らかな笑みを投げるが、レオン本人には心の底から乗り気になる気配はなかった。


 ◇◇◇


 昼食後、レオンは食堂から抜け出し、再び図書館へ向かうことにした。もっとも、もう一度本を読む気力が湧くわけではない。ただ、図書館の静かな空気に身を置いていれば、余計な会話をせずに済む。それだけの理由だ。


 ところが廊下を曲がると、ちょうどミレーヌが待ち構えていたかのように声をかけてくる。


「レ、レオン……今、少し時間ある?」


「……なに?」


 レオンの声は少し警戒気味だった。声をかけられる理由がわからず、さらに先回りまでされると、なんとなく居心地が悪い。


「今度ね、ユイスが新しい魔道具を使った簡易調査を企画しているらしいの。数式魔法の実験の一環だって。古文書とか読むの得意でしょ? こういう調査では色々な情報が必要なんだけど……手伝ってくれないかな?」


「俺が? 別に手伝わなくてもユイスが勝手にやるだろ」


 一言目がそれだった。ミレーヌは一瞬むっとしたが、眉を下げてそれでも続ける。


「でも、あなたの翻訳とか解析がないと苦労するだろうし……。トールやエリアーヌも“レオンがいればもっと効率がいい”って言ってたんだよ?」


「そうか。……でも、面倒だしな」


 目を伏せて短く答えるレオン。ミレーヌは困ったように視線を彷徨わせる。その様子がありありと伝わるが、レオンは気にしないふりをしていた。


「ご、ごめんね。押しつける気はなかったんだけど、あなたがいてくれたら心強いし……」


「心強い、ねぇ。……悪いけど、今はそんな気分じゃない。疲れてるし」


 それ以上追及する空気でもないと悟り、ミレーヌは黙った。小さく「そっか、わかった」とだけ言うと、遠慮がちに頭を下げて廊下を去っていく。レオンは彼女の背中を見送ることなく、目をそらして歩き始める。胸の中に申し訳ない気持ちがわずかに揺らぐが、それを押し殺すように歩調を速めた。


 ◇◇◇


 図書館に戻ろうとしたレオンだが、途中でなんとなく気が変わり、窓のある広い廊下へ向かった。廊下の先には学園敷地を見渡せる大きなガラス窓があり、そこから青い空や校庭を見下ろすことができる。人気も少なく、休憩にちょうどいい場所だ。


 欄干に体を預けて外を眺めていると、人の気配を感じる。後ろから近づいてきたのは、グレイサー・ヴィトリア。問題児クラスの担任とはいえ、基本的に放任主義で、生徒とのコミュニケーションも希薄な人物だ。だからレオンも警戒はせず、ただ「なんだ、先生か」という程度の反応を見せるだけだった。


「おまえがここでサボってるとは珍しいな」


 グレイサーはコーヒーカップを片手に、淡々とした声を落とす。


「サボってるわけじゃない。……図書館に戻る気が失せただけ」


 レオンはそっぽを向いたまま答える。グレイサーは気にする様子もなく、同じように窓枠に寄りかかった。


「おまえが古文書の解読をやめたら誰がやるんだ。興味ある奴は限られるし…まあ、意外と探せばいるかもしれないな」


「……“意外”と? さあね。別に俺以外にも知識ある奴はたくさんいるんじゃないの。得意な人がやればいい」


 言葉じりにある棘が、レオンの内側に渦巻く卑屈を証明していた。グレイサーはそんな様子をちらりと見やり、口の端をわずかに上げる。


「ふむ。数式理論は、上手く組み上げるのに専門的な知識を要する。文献の解読も同じだ。おまえは無気力そうに見えて、やればそれなりにやるだろう。……そう考えているのは俺だけか」


「先生も気休めが上手いね。悪いけど、この話はやめてくれ」


 レオンが早口で遮る。グレイサーはそれ以上突っ込まず、軽く息を吐いた。


「やるもやらないも勝手だ。だが、おまえ自身が『自分にできることなどない』と決めつけるうちは、何も変わらないな」


「決めつけてるわけじゃ……」


 否定しかけたが、言い切れず言葉を濁す。グレイサーはそれ以上コメントを続けず、カップのコーヒーを口に含むだけ。室内には沈黙が満ち、レオンは居づらさを抱えたまま視線を逸らす。


「……もう、いいだろ」


 立ち去ろうとするレオンに、グレイサーは声をかけず、ただその背を見送った。短いやり取りだったが、レオンの胸には痛いところを突かれたような感覚が残る。結局、自分の価値を認められないのは自分自身。それを痛感させられると、余計にやるせない思いだけが広がった。


 ◇◇◇


 校舎裏の小さな中庭に歩を進める。ここは人気が少なく、いつも静かな場所としてレオンが時折好んで使う隠れ家のような場所だ。煉瓦の壁沿いに植えられた草花がそよ風に揺れ、軽やかな音を立てている。


 レオンは小さく息をつき、そのまま煉瓦の縁に腰掛けた。頭を垂れ、じっと靴先を見る。


 回想が途切れ途切れに襲ってくる。自宅で何も評価されずに下を向いていた頃、兄たちの前で粗末に扱われた記憶、学園に入っても大きく実績を上げられず、結局はユイスたちのサポート役にとどまった自分——。どの場面を切り取っても、「レオンは別にいなくても構わない」と言われている気がしてならない。


「お前には何も期待していない」


 過去に家族から投げかけられたその言葉は、今もなお心を縛る鎖となっている。実際、レオン自身も結果を出したと実感する場面を思い返せない。小領地改革で多少貢献したところで、自分がいなくてもユイスやみんなが成功させただろう、と考えてしまうのだ。


「必要とされないな……俺なんか……」


 廊下でミレーヌに掛けられた言葉も、トールやエリアーヌの励ましも、心の表面を撫でては滑っていく。深いところまで届く前に、卑屈な膜がそれらを弾いてしまう。


 今も、せっかく声をかけてくれた仲間や担任がいるのに、レオンはすべてを「面倒」「無駄」と切り捨て、独りになろうとしている。半ば自分から孤立を選んでいるともいえる。その様子を外から見れば「もったいない」と思われるだろうが、本人にはそれこそが唯一楽な方法だった。


 ——それでも、胸の奥底にはかすかな違和感がある。


 本当は「誰かの力になりたい」という願いが消えてはいない。かつて、古文書を読み解いたときや、地図を分析して皆が喜んでくれた瞬間に感じた誇らしさ、それを知っているからこそ、完全な無気力ではいられないのだ。


 しかし、その一瞬の誇らしさは“大きな結果”に埋もれて消えてしまう。表彰台の中央にいるのはいつもユイスか、保守派を打ち負かした中心人物であり、レオンは裏方のまま。


「結局、俺なんて裏方で、舞台に立つ資格なんかないんだよな……」


 レオンは深々と溜め息をつく。周囲には誰もいない。この静かな中庭で彼が何を思おうと、誰に文句を言おうと、聞く耳を持つ者はいない。


 その寂しさと安堵感に包まれ、彼はしばらく何もする気になれず、ただうつむき続けた。


 ◇◇◇


 夕暮れが近づき、学園の敷地に橙色の光が混じり始めるころ、レオンはようやく立ち上がった。無気力という重いしがらみは胸に残ったままだが、ずっと座り込んでいるわけにもいかない。


 教室棟へ戻ろうと歩き出すと、廊下の先でミレーヌがまた何か書類を抱えて行き来している姿が見えた。レオンは気づかれないように身を翻して、反対側の廊下へ回り込む。


「……彼女に会っても、どうせ同じことを繰り返すだけだろ」


 再び話しかけられても、気の利いた返答はできまい。実際、さっき冷たく断ってしまったばかりだ。自分のことを心配してくれるのはわかっているが、こういうときほど逃げたくなるのだから始末に負えない。


 自嘲ぎみに笑って、レオンは階段をのぼる。意識が遠のくように足を進めながら、とにかく“誰もいない場所”を求めていた。


 彼が最後に辿り着いたのは、人気のない教室だった。問題児クラスが使っていない予備室のようで、整然と机が並んでいるが照明は落とされたまま。僅かに残った陽の光が窓ガラスを透かし、部屋の中に影を作り出している。


 レオンはドアをそっと閉め、静かな教室の奥で椅子を引き、自分の鞄を置いた。


「……はぁ」


 息が重い。どうして自分はこんなに嫌な気分を引きずっているのか、考えようとしてもわからない。


 孤独を望んでいるわけではないのに、仲間からの呼びかけを拒んでしまう。結局、すべての言葉を遠ざけた先に残るのは、隙間風のような冷えた空気だけ。


 レオンは机に突っ伏すようにして、目を閉じた。耳に聞こえるのは、自分の呼吸と胸の鼓動。それ以外の音はない——まるで、自分一人が世界から切り離されたみたいだ。


「……こんなふうに無駄に過ごすのが、いちばん楽なのかな」


 つぶやきに反応する者は誰もいない。彼はそのまま、顔を机に埋めてしばらく動かずにいた。


 自分なんかいなくてもいい——そう思ってしまう心の闇と、どこかで「それでも認められたい」と渇望する本心。それらがせめぎ合い、どうにもなれずに閉じこもる。


 明日になればまた仲間たちに声をかけられるかもしれない。そのとき自分はどう振る舞うのか、想像もできない。いっそ逃げ出したい気持ちと、わずかに燻る期待の狭間で身動きがとれなくなるのだ。


 教室の窓から夕陽が差し込み、ほんのり赤い光が床を染めていく。その変化に気づくでもなく、レオンはひたすら机に伏せている。人一倍頭が回るはずの彼の思考は、今はただ自己否定と放棄のループを繰り返していた。


 どこに向かえばいいのか。このまま全てから逃げ出してしまいたいのか。


 数式魔法の研究や、古文書の解読を任せてもらえる可能性だってあるのに——それを知りながら、意欲が空回りして生まれない。


「誰にも必要とされない」と思い込む心は、周囲の励ましを自動的に打ち消すフィルターのように働き、レオンが手を伸ばそうとする意志を奪い続ける。


 沈黙が続く教室の中、彼はひとり苦い無気力と戦いながら、夕闇へと傾いていく空の気配をぼんやりと感じ取るだけだった。


 ——このまま何も変わらないのだろうか。


 誰かの記憶が脳裏をかすめるが、レオンはそれに気づかないふりで心を閉ざす。今日という日が終われば、また同じような明日が来る。そんな諦めにも似た思いを抱えながら、彼は深い嘆息を重ねていた。


 ◇◇◇


 日は落ち、校内にも静寂が漂い始める時刻。レオンはようやく重い頭を持ち上げた。窓の外を見ると、すでに薄暗くなりかけている。


「……帰ろう」


 誰に向かうでもない呟きを最後に、彼は立ち上がる。扉を開けて廊下に出ると、どこかでエリアーヌたちの声が聞こえたが、すぐに気づかれないよう逃げるように背を向けた。


 無理に関わることはない。また明日になれば、同じように声をかけられるかもしれない。でも今は、自分が何をすべきか考える余裕もなかった。


 足音だけが淡々と響く夜の校舎を出て、静かな寮への道を進む。心は相変わらず重いが、場所を選ばず鬱々とするより、部屋で一人になって寝てしまう方がましだ——そう思った。


 前を歩く人影もまばらな道を、レオンは淡々と進む。ささやかな風が制服のすそを揺らし、遠くで夜鳥の声が聞こえる。学園の夜はこれから深まっていくが、レオンの視界は灰色のまま。明日の自分も同じだろうと思い込みながら、彼は暗い闇の奥へと溶け込むように歩みを続けた。


 それが、彼の長い一日だった。空っぽな心に希望を見出せず、周囲の善意を拒絶してしまう自分がいやになる。ならば堂々と突き進めばいいじゃないか——そう言う声がどこかにあるかもしれないが、彼には聞こえない。


 しばらくは、何も変わらないだろう。


 誰にも必要とされないと信じ込む、憂鬱な日々が続いていく。


 レオンは、その夜を迎えるために足早に寮へと消えていった。息を詰まらせながら、誰にも振り返られないように。

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