3. 社交界
朝の光が差し始めた学園の回廊を、リュディア・イヴァロールはわずかに伏し目がちに歩いていた。昨夜は母の容体が悪化した報せを受けて悩み尽くし、まともに眠れなかった。それでも、今日の予定を無視するわけにはいかない。学園上層部が開く「研究発表会」と称された貴族子弟の集まり——実質、上位クラスや有力貴族の社交場のような催しに、伯爵家令嬢として顔を出さねばならないのだ。
◇◇◇
いつもより豪華な装いの貴族生たちが、学園の中央ホールに次々と集まってくる。ユイスたち問題児クラスは、会自体にはさほど関係ない立場とされ、端のほうで顔だけ出すような形で参加していた。
ユイスは壁際から、ゆったりと流れる音楽を聞きながら、リュディアを探すように視線を巡らせる。視線の先、ほかの上位クラスの生徒とともにホール中央に立つリュディアの姿があった。
だが、そのドレス姿がいくら美しくとも、彼女の表情はどこか張り詰めていて、笑みがぎこちない。
「……何か言われているのか?」
ユイスは遠目に、リュディアの相手をしている貴族子弟たちの口元が嫌な具合に歪んでいるのを感じた。彼女を囲むのは、華やかな衣装に身を包む貴族生たち——その一部は保守派の有力者の子女だという噂が絶えない面々だった。
◇◇◇
「イヴァロール伯爵家の令嬢が来ているわ。ああ、あちらね」
「でも、あの夫人は平民出なんですって? 本当に伯爵夫人として相応しいのかしら」
「血筋の薄い人間が上流にいると、王国の品位が落ちるものよ。困ったわね」
音楽の合間にひそめられた声が、まるで毒のようにリュディアの耳に突き刺さる。慣れているはずの陰口。それでも、最近の母の病状悪化が頭にこびりついているだけに、心が軋むように痛んだ。
(やっぱり……この場に来るべきではなかったのかも。でも伯爵家の立場として、出席せよと父の使者から言われてしまった以上、勝手には動けないわ)
彼女は胸の奥で呟き、こらえきれず手を軽く握る。表情だけは取り繕おうと、薄く微笑を作るが、唇の端が震えるのを自覚していた。
「リュディア様、いつも優等生でいらっしゃるから、さぞかし魔力も純粋に……いえ、まさかそんなこと……」
周囲にいた貴族子弟のひとりが、わざとらしい口調で笑う。それに釣られるように、取り巻きたちがくすくすと笑みを交わした。明らかに母の血筋を揶揄している。
「何を言っているの?」
リュディアは微笑みをたたえたまま、そっと視線を向ける。だが目の奥は冷ややかだった。
「いえいえ、伯爵令嬢として本当に立派だと思って。その……親御様も、さぞかし由緒正しい血を……」
「……母を侮辱するのはやめて。私の家には事情があるけれど、だからといって誰かに迷惑をかけているわけではないわ」
それはほとんど震えを抑えた声だった。相手は一瞬言葉を飲んだが、すぐに笑みをつくりなおす。
「まあまあ、そんなに感情的にならなくても。あなたは優秀なんでしょう? 私たちには関係ない話……そう言ってみせたいのかもしれないけど、うちは正統な血筋の家柄でね。どうしても気になるのよ、‘平民混じりの伯爵夫人’とやらが、どうやって名門に嫁いだのかって」
取り巻きが再び笑う。リュディアの心には怒りが燃え上がりかけたが、ここは社交の場。大声で反論すれば、伯爵家の体面を損ねる恐れがある。母の容体が不安定な今、これ以上波風を立てれば父にまで迷惑がかかるかもしれない。彼女は堪えた。
「……そう。ご心配は要りませんわ。私の母は、立派に伯爵家を支えてきました。血がどうこうとおっしゃるなら、わたくし自身が成果を示すまでのこと。魔力だけが全てではないわ」
「へえ? イヴァロール家の魔力は昔からそれなりに高いと聞いていましたが……母の血を引いて、その高さが果たして保たれているのかしら? まあ、頑張ってね」
嘲弄混じりの声を浴びながら、リュディアはなんとか笑顔を保とうとする。ぎゅっと握った手が微かに震え、爪が手のひらに食い込む痛みを彼女は感じた。
周囲では、別の貴族生たちが口を揃えて「平民が混じっていようが伯爵家は伯爵家」と表面的な言葉をかけてきたりするが、それもまた薄ら寒い善意の押し売りに思える。
(母がまた悪化しているのに、こんなところでくだらない会話に耐え続けなきゃいけないなんて。いったい私は何をしてるの……)
◇◇◇
一方、ホールの壁際には、ユイス・アステリアが立ち尽くしていた。
「……まずいな」
低くつぶやき、視線をリュディアへ向ける。
その周囲を取り囲む貴族子弟たちのイヤな空気。遠くまで届くほどのあからさまな侮蔑が、胸をざわつかせる。
ユイスは唇を噛んだ。問題児クラスの彼が、あの華やかな中央へ割って入るのは得策とは言えない。下手に首を突っ込めば、リュディアの立場を余計に悪くし、それこそ保守派との衝突を煽るだけだろう。
けれど、何もしないまま笑われているリュディアを見るのは辛かった。小領地改革で共闘した仲間としても、そして何より彼自身が意識してしまう特別な存在として——放っておけない気持ちが募る。
「……ちっ」
たまらず足を踏み出しかけたユイスの肩を、隣にいたトールがそっと押さえた。
「おい、ユイス。やめとけ。今割って入っても騒ぎになるだけだぞ?」
「ああ……わかってる。でも、あれは——」
「だろ? だから、いまはこらえろ。彼女だって伯爵家の令嬢だ。あの場をどう切り抜けるか、ちゃんと考えているだろ」
トールの声は低く、いつになく真面目だ。
ユイスは息を吐いた。確かに、あのリュディアならば表面上うまく笑顔を返し、この苦境を凌げるかもしれない。
しかし、ふと彼女の横顔に焦点が合ったとき、そのわずかな震えが彼の目に入り、胸がつかえるような思いをした。
(どうしてあんな顔を……)
◇◇◇
リュディアは会場の片隅のテーブルに移動し、軽食を口にする振りを装いながら深呼吸を繰り返す。誘われた会話を最小限に切り上げ、なんとか表面上は取り乱さぬようにしているが、心は散々だった。
「……ずいぶんと顔色が悪いよ。大丈夫?」
視線をあげると、後ろにはエリアーヌ・マルヴィスが立っていた。淡いドレスに身を包んだ彼女は、差し出すように小皿に乗った小さな菓子を手にしている。
「エリアーヌ……」
「甘いものが欲しいんじゃないかと思って。もしよかったら……」
エリアーヌは控えめに微笑む。リュディアは一瞬、口を開きかけ、だが何も言えないまま小皿を見つめた。
「……ありがとう。でも、今はいいわ」
「そう……あ、うん、わかった。ごめんね、余計なことだったら」
エリアーヌが遠慮がちに下がろうとする。その瞳に映るのはリュディアの疲れを憂う色だったが、リュディアは他人の気遣いを素直に受け止める余裕がなかった。
(母のことも、家のことも、どうして私が全部抱え込んでいるの……。こんなパーティ、今すぐ抜け出したい。でも伯爵家として出ろと言われて……)
自分を保つように、視線を少しだけ落とす。ふと、遠くで見守るユイスと目が合った気がして、慌ててそらす。
(彼がいてくれたら……なんて、そんな甘えたら母に申し訳ない。自分で守れるようにならなくちゃ)
彼女はそう思い直し、再び周囲へ顔を向けると、そこにはさらなる嫌味を言いたげな貴族生が近づいてきていた。
「失礼、イヴァロール伯爵令嬢。先ほども言ったけど、君のお母上は平民出らしいね。病と聞いたが、どう? 良くなりそうなのかしら?」
「……心配してくださるのはありがたいことですわ」
苦笑を浮かべるリュディアに対し、その貴族生はわざとらしくため息をつく。
「保守派の噂では、‘平民出ゆえに魔力に馴染めず、身体を壊している’って話だ。それに、貴族の血に混じっている分、病巣がさらに複雑なんじゃないかと——まあ、専門家じゃないから詳しくはわからないけどね」
「……お気遣いに感謝します。いずれにせよ、家族のことは我が家の問題ですので」
「なるほど。けれど周囲はそうもいかないよ? もしイヴァロール家が血統の問題で大きく揺らぐようなら、王国の秩序にも関わる。だからこそ、伯爵令嬢には頑張ってもらわないと困るんだ。ねえ? 君の母上が平民でも、なおイヴァロール家が正しい存在だって証明してくれないと……」
リュディアは、ギリギリと奮い立たせるように唇を噛む。その言葉の裏には「早く母を捨てて正当性を示せ」という圧力が感じられたからだ。
だが、それをまっすぐ口に出すわけでもなく、上品ぶった笑みのまま傷を抉ってくる。このどうしようもない悪意に立ち向かう術は、冷静さを維持することだけだ。
(お願い……もう放っておいて)
一瞬、視界が霞んだ。睡眠不足や精神的な疲労が重なっているせいか、頭がふらつく。
そこへかけ寄ってきたのはミレーヌ・クワントだった。彼女もまた問題児クラスの仲間で、商家出身。
「あ、あの……リュディアさん、少し休憩しませんか? 椅子があちらに……」
「わ、私は……大丈夫、よ」
「そんな……顔色が真っ青ですよ。ちょっとだけ、座りましょう? このままでは……」
ミレーヌが声を小さくしながらも必死にリュディアの腕を支える。リュディアは抗おうとしたが、フラリと体が揺れて、自分の限界に気づいた。
◇◇◇
ホールの隅で様子を見守っていたユイスは、その瞬間を逃さなかった。リュディアがよろけた。
背後でトールが「おい、行くなよ」と言いたげに声を上げかけるが、ユイスは振り払うように歩き出す。保守派がどうとか気にしている場合じゃない——彼女が倒れるかもしれないのだ。
「リュディア!」
ユイスは人々の視線を無視して、ホールの中央付近へ駆け寄る。ミレーヌがリュディアの腕を支え、なんとか転倒を防いでいた。
周囲の貴族生たちは「何だ、あの男は」と驚いた顔をする。
「大丈夫か?」
リュディアは息を整えようとするが、顔を上げたとき微妙に恥じらいと怒りが混ざったような表情を浮かべる。
「ユイス……っ、どうしてこんなところに。あなたが来たら……」
「いいから、休め。立っていられないなら、少しでも座って。今は体が一番だろ」
心配そうに覗き込むユイスに、彼女は苦しげに視線をそらす。
しかし、そのユイスの肩を別の貴族生が叩いた。やや上級生で、保守派の家に連なる者らしい。その声色には侮蔑混じりの嘲笑があった。
「おい、問題児クラスの庶民がなんの用だ? 伯爵令嬢に馴れ馴れしいぞ。場所をわきまえろ」
「……彼女が倒れそうだったからだ」
ユイスは振り向きながらも鋭い目で相手を見据える。
「倒れそう? はは、貴族令嬢がその程度で崩れるわけないだろう? 大げさなんだよ。これだから庶民は——」
その言葉を聞いた瞬間、リュディアがかすかに唇を噛むのが見えた。彼女はユイスに庇われていることへの屈辱もあれば、母を揶揄されてきたことで限界に近かったのかもしれない。
しかし彼女は必死で感情を押し殺し、表情を固める。ユイスが今ここで大声をあげたら、余計に彼女の立場が悪くなるだろうと悟ったのかもしれない。
「ユイス、いいわ。これ以上騒ぎにしないで」
リュディアが震える声でそう告げる。ユイスはぐっと拳を握りしめたが、彼女の瞳の奥に「これ以上はやめて」という願いが見えたので、口を閉じる。
周囲の貴族生たちがくすくす笑い、そして一部の生徒は同情の眼差しを送ってくる。だが、誰もはっきりとリュディアを擁護はしない。
派手な音楽が再び響き、ホールには上品な談笑が溢れていく。リュディアは軽く呼吸を整え、ユイスを制するように手を下げたまま、声を絞り出す。
「……ユイス、ごめんなさい。私、ちょっと失礼するわ。ミレーヌ、悪いけど……」
「はい、こちらへ……」
ミレーヌがリュディアを支え、ホール端のソファへゆっくりと導いた。ユイスはその背中を見送りながら、拳を解けずにいた。
「くそ……なんなんだよ、この場は」
誰にともなく洩らしたその言葉が、トールやエリアーヌの胸にも痛みを残す。みんなが分かっていた。ここは貴族主導の社交の場であり、保守派による強い支配が根付いた空気が漂っていることを。
◇◇◇
ホールの奥、少し人目が少ない一角に腰を下ろしたリュディアは、静かに目を閉じる。ミレーヌがハンカチに冷水を含ませて渡すと、彼女はそっと額を拭った。
「ありがとう。助かったわ」
「い、いえ……あの、私でできることがあれば……」
ミレーヌは恐縮しきりだが、リュディアは微かに笑みを返そうとする。しかし言葉にならない。
朝からずっと募っていたストレスが一気に爆発しそうになるのを、奥歯を噛んで耐えた。ここで泣いたり取り乱したりすれば、母の平民出自を馬鹿にされたまま、家の名誉までも汚してしまう気がして恐ろしかった。
(母の病はどうなるの……早く何とかしなくちゃ。でも、こうして伯爵家の体面を保つ場では、弱味を見せれば見せるほどあの人たちにつけ込まれるだけ)
ふと、ソファの向こう側にユイスの姿が見えた。こちらに来たいのだろうが、周囲の視線を気にして立ち止まっている。
リュディアは彼を助けたかったわけではない。むしろ彼が巻き込まれて面倒な目に遭うのを避けたかった。それでも、そのユイスがあんな顔をして心配してくれる姿を見ると、胸が少しだけ温かくなる。
(今は……堪えるしかない。母を救うためにも、私が折れちゃだめなんだ)
悪意にさらされるなか、彼女はそっと目を伏せ、すり減りかけたプライドをなんとか奮い立たせる。
誰にも言えない弱音は、心の中で繰り返すだけだ。
◇◇◇
その後、華やかなパーティらしい乾杯の声や、教会代理人による形式的な祝辞が響き渡る。開会の段階でリュディアは、形ばかりの挨拶を求められたが、短い言葉でやり過ごしてソファに戻った。
傍らにはミレーヌとエリアーヌ、少し離れた場所にトールとユイスが心配そうに佇んでいる。
他の貴族生や保守派の者たちは、こちらを見ては小声で囁く。表面上は「大丈夫?」と言いつつ、その実心配などしていないのが手に取るようにわかった。リュディアは、その全てを飲み込んだまま微動だにしない。
ユイスは一歩も近づけず、ただリュディアの姿を見つめ続ける。
(こんな茶番、どうして誰も止められないのか……どうして俺は、何もできないんだ)
怒りとやりきれなさが入り混じり、指先がかすかに震える。いつか必ず、この保守派が牛耳る空気を壊したい——そんな決意が、彼の胸中でさらに強まっていく。
しかし今は、立ち尽くすことしかできない。無力感が、ホールの華やかさの裏でじわりと2人を蝕む。そうして、長いようで短い社交の時間が続くのだった。
◇◇◇
パーティがひとまず一区切りついた頃、場を後にする貴族子弟たちが名残惜しげにちらほらと退席し始める。音楽が止み、軽食の皿を片付ける使用人が淡々と動いていた。
その光景を、リュディアは空虚な視線で眺めている。母の悪口や血統を揶揄される言葉を浴び続けた疲労は、普通の実技講義とは比べものにならない重さで彼女の体と心を苛んでいた。
ユイスはようやく周囲が散りだしたのを見計らい、ゆっくりとリュディアのそばへ歩み寄る。ミレーヌとエリアーヌが気を利かせ、二人分のスペースを少し空けるように離れていった。
「……大丈夫、か?」
精一杯の言葉だった。リュディアは一瞬返す言葉を探したが、そっと頷く。
「ええ。……平気よ。皆に心配かけて悪かったわ」
その目には潤みが宿っていたが、彼女は笑みをつくり、そのまま首を振る。
「……ここでは、あまり話せないわ。ありがとう、とだけ伝えておくわね。あなたが駆け寄ってくれたこと、わたし……嫌じゃなかったから」
最後の言葉は消え入りそうな音量だった。ユイスは眉を寄せつつも「そっか」と答える。
「……しばらく、学園の行事がこういう形で続くかもしれない。保守派の動きも活発だし、伯爵家の事情があればなおさら、こんな場に顔を出さなきゃいけないこともあるんだろ?」
「そうね。正直、母の体が……まだ先の見えない状況だけど、伯爵家の立場もあるし」
リュディアが苦く微笑む。だがその微笑がいっそう切なく映るのを、ユイスは見逃せなかった。
「……おれも、できるだけ協力する。土壇場でしか動けないのはわかってるけど、今回はごめん、何もできなくて」
「違うわよ。あなたが何もしなくたって、私は大丈夫だもの。……もう、ちょっと慣れているわ」
そう言いながら、リュディアはほんの少しだけ苦しそうに息を吐く。慣れている——どれほどの屈辱に慣れたら、あんな静かな笑みを浮かべていられるのだろう。ユイスには想像もできなかった。
その瞬間、背後で貴族生のひとりが通りすがりに鼻で笑ったのを感じた。視線に毒気が混じる。彼らは「問題児クラスの下級生と親しげにしている伯爵令嬢」を面白おかしく見ているのかもしれない。
リュディアは肩を震わせ、口をつぐむ。だが、その視線にも敢えて何も言わない。それが、彼女なりの誇りとしかたない防御策なのだろう——ユイスはそう理解し、もう一度拳を握る。
(いつか絶対、こんな空気を壊せるだけの力をつけてやる。数式魔法をもっともっと発展させて、保守派がバカにできない成果を出してやる。そうすれば……リュディアも母上も、守れるかもしれない)
心の中に、さらなる決意が芽生えた。今回のような社交の場で彼女を助けられなかった悔しさが、ユイスの胸に強く刻みこまれた。
リュディアは最後に軽く会釈すると、そっとエリアーヌの腕を借りて立ち上がる。
「今日は……もう、疲れたから。先に失礼するわ。ユイス、あなたも無理しないで。ありがとう……」
言い終わる前に、彼女は崩れそうな足取りでミレーヌとエリアーヌの二人に支えられながら会場を出ていく。
その後ろ姿を見送るユイスは、追いかけたい気持ちをぐっと飲みこんだ。問題児クラスという立ち位置、そして今はこれが精一杯なのだと自分を納得させるしかない。
◇◇◇
静まり始めたホールには、貴族たちの残り香のような華やかな空気だけが漂っている。
トールが「苦労が絶えないな……」と低く呟き、ユイスの背中を軽く叩いた。
「お前が飛び込んだときはヒヤヒヤしたが……まあ、あれで助かったところもあるんだろ。リュディアは倒れずに済んだし」
「……ああ。でも、もっと何か方法はなかったんだろうか」
「知らん。けど、保守派が牛耳るこんな場で大暴れしても、彼女がより苦しい立場になるだけだろうしな」
ユイスは苦い思いを抱えながら、もう一度ホールを見渡す。着飾った貴族子弟たちは皆、表向きは洗練された微笑を浮かべながら、自分たちの権威を示し合っている。それぞれが己の家のために取り繕う場。
あの陰口や侮蔑が渦巻く社交界で、リュディアは必死に堪え続けている——いや、伯爵家の事情がある限り、まだこれからも同じような苦痛にさらされるのだ。
母が平民出身というだけで、これほどまでに冷遇されるのか。血統魔法に囚われた保守派の思想がある限り、彼女が孤独にならざるを得ない場面は幾度でも来るだろう。
(何とかしたい。……リュディアと、あの母上を救うためにも)
ユイスは静かに呼吸を整えながら、そう強く決意した。
彼の視界に、廊下へ退席していく貴族たちの群れが映る。そこには保守派や教会代理人らしい人物の姿もあったが、遠巻きに「ほら、あれが小領地改革で名を上げた下級生だ」「聞くところによれば異端の数式魔法らしいが……」と囁いている声が聞こえる。
だが今は、彼らの揶揄など二の次だ。リュディアや伯爵夫人を嘲笑する圧力に負けない力を得るために、研究を進めなければ——そう思うと、ユイスは少し背筋を伸ばす。
その視線の先、出口へ向かう廊下で、リュディアの背中がまた一度、ふらつくように見えた。エリアーヌたちが慌てて支え、何とか転ばずにすんだようだが……。
ユイスは悔しさをにじませながら、その場をあとにする決意を固める。小領地改革で得た数式理論を、さらに発展させねばならない。いずれ来るだろう保守派との本格的な衝突を乗り越えるには、今の中途半端な力では足りないのだ。
(必ず……守ってみせる)
誰にも聞こえぬよう、彼はそう誓う。
そしてホールの明るい照明のもと、華やかな衣装に身を包んだ貴族たちの嘲弄が遠ざかっていく。リュディアの苦悶と母の不安を無視するかのように、社交界のパーティはいつもの流れで幕を下ろしていった。
その冷たい輝きは、ユイスやリュディアを取り巻く大きな壁を改めて浮かび上がらせ、物語がさらに厳しい道へ進むことを暗示しているようだった。
◇◇◇
人が少なくなったホールの隅で、ユイスは振り返る。ほのかな装飾のきらめきが、空しく見える。
トールやエリアーヌ、ミレーヌとともに最後に片付けられたテーブルを避け、出口へ向かう。心の中では、リュディアの微かな震えた声が、何度も反響していた。
(血統の差別なんてくだらないものを変えるには、もっと確固たる証明が要る。いつか絶対に、こんな侮蔑をひっくり返してやる。それが……俺の進む道だ)
彼は思わずノートの端を掴みしめる。数式魔法——その先にこそ、打開の光があるはずだった。
そして、保守派が作り上げた見えない壁を壊すためにも、リュディアが負う苦しみを終わらせるためにも、ユイスは歩みを止めない。
学園の廊下を出れば、夜風に冷やされた空気がうっすらと漂っている。
遠くからは、まだパーティ会場で遅くまで雑談に興じる貴族子弟の笑い声が聞こえていた。
だがユイスは振り返らない。——この場所で、彼女が再び笑える日をつかむために、できることは山ほどある。その想いを胸に、彼と仲間たちはホールを後にした。




