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2. 胸騒ぎ

 夜の学園寮。まだ薄暗い廊下に足音が響くでもなく、リュディアは自室の椅子に腰かけたまま、半ば眠ることも忘れていた。


 テーブルの上に置かれた手紙には伯爵家の封蝋がある。ざらついた封筒を指先でなぞると、じわりと胸が締め付けられるような感覚が蘇る。


 昨夜届けられた手紙は「母の容態が再び悪化した」という報せ。どこか嫌な予感はあったが、いざ文字になって突きつけられると、想像以上に心が乱される。


「また、あの症状が出たんだわ…」


 リュディアは低くそう呟いたが、言葉に出したところで何が変わるわけでもない。伯爵家の使用人が教会や医師を呼び寄せているとも書いてあったが、あの保守派の医師たちが母の事情を真剣に診てくれるかは疑問だ。


 一瞬、すぐにでも帰るべきか迷った。けれど、学園上位クラスの立場で勝手に長期間離れるのは簡単ではない。母を支えるために家に戻れば、保守派の貴族連中が陰で何を言い出すかも分からない。


「こんな時、どうすれば…」


 彼女の視界が少しだけ滲む。思わずテーブルにこぼれそうになった涙を、慌てて手の甲で拭った。


 ◇◇◇


 翌朝。陽が昇り切る前に、リュディアはいつものように学園の上位クラス実技講義へ向かった。


 講義室には火系や風系の魔法を得意とする生徒が集まり、皆それぞれに高位術式を試すところだった。空気が張り詰めているのは、次回の実技評価が近いせいだろう。


 リュディアも着席して杖を構える。心が落ち着かなくとも、この場で動揺を露わにはできない。伯爵家の令嬢として“優等生”の仮面を被ることに慣れているからだ。


「では、イヴァロール。火の精度を確認させてもらうぞ」


 年配の教官が手振りで合図すると、リュディアは魔力を集中し、火球を緻密に形成する。球体の形が揺るがぬよう微妙な魔力制御を続け、最後は穏やかに消し去った。


 教官はわずかに頷いた。


「良い制御だな。次の段階では、詠唱の短縮を試みてみるといい」


「はい…わかりました」


 周囲の生徒たちは感嘆にも似た視線を送りつつ、自分の番が回ってくるのを待っている。リュディアは礼をして教官の前から下がったが、心ここにあらずの状態だ。


 せめて母の一大事でなければ、もう少し集中できたかもしれない。実技を一通りこなしたものの、頭の片隅には昨夜の手紙ばかり浮かぶ。


 すると、扉の外から青ざめた下級生の顔が見えた。


「リュディア・イヴァロール様に、お届けものが…」


「届けもの?」


 差し出されたのは伯爵家の紋章が入った書簡。思わず視線が鋭くなる。まさか、また緊急の報告があったのだろうか。


「失礼します、イヴァロール様…この手紙、伯爵家の使いの者が早馬で…」


「わかったわ。ありがとう」


 教官や周りの上位クラス生が“何事か”と視線を集める。だがリュディアは気丈に軽く頭を下げ、手紙を持って教室の端へ移動した。


 紙を破いて一読し、さっと顔が強張る。


 手紙の文面は、昨夜の続報。母がさらに高熱を出し、吐血に近い症状もあるとか。貴族医師が数名集まったが原因を特定できない。もしかすると血統呪縛が絡んでいるかもしれない。


「血統呪縛…そんな…」


 軽く唇を噛んでしまう。平民の血を持つ母には、伯爵家伝統の強い魔力儀式が適合せず、以前も苦しんだことがある。それが再発している?


「…どうしよう」


 講義室の空気を感じ取った教官が視線を送るが、リュディアは無言で一礼すると、教官も何も問わず彼女を送り出すように頷くだけだった。


 ◇◇◇


 廊下へ出たリュディアは、手紙を握りしめたまま早足で歩いた。肩を叩く者がいても振り向く余裕がない。頭の中では、すぐ帰るべきか、それとも一度伯爵家に連絡を取ってから動くべきか。


「母様がそんな状態なら、私が行かなくてどうするの…でも保守派の目が…」


 周囲は登校時間帯でざわめいているが、リュディアはまるで人ごみが見えていないかのように前を急ぐ。


 角を曲がると、やや人通りの少ない庭園への小道に出た。そこまで来ると足が止まる。小さな噴水があり、朝陽を受けて水面がきらりと光る。


「はぁ…」


 大きく息を吐いた。自然と頭を抱える形になってしまう。


「どうすればいいの…」


 学園に許可を取り、伯爵家へ戻るのが一番だろう。だが、伯爵家に行ったら行ったで、保守派の医師や貴族陣が「母は仕方ない」と言い出すかもしれない。母を見捨てるような策に誘導されないとは限らない。


「そんなの、嫌…」


 自分の母を見捨てるなんて考えたくもない。かといって学園に留まったままでは、母がどう扱われるのか想像するだけで胸が痛い。


「ああ、こんな時…誰に相談すれば…」


 ちらりとユイスの顔が脳裏を過ぎる。一瞬、彼の頼もしさを思い出しかけたが、すぐにかぶりを振った。


「だめよ…あの人にまで迷惑をかけたくない。自分で決めるしかないじゃない…」


 耳元に軽い足音が近づき、声がかかる。


「おい、リュディア。こんなところでどうしたんだ?」


 振り返ると、問題児クラスのトールが少し困った表情をして立っていた。その背後からエリアーヌの顔も覗いている。


「私…別に何でもないわ。用事があるならあとにして」


「でも、顔が真っ青だよ…本当に大丈夫?」


 エリアーヌが心配そうに小声で訊くと、リュディアはぎこちなく笑う。


「ごめんなさい。ちょっと急ぎの用事ができただけ。気にしないで…」


 本当は誰かにすがりたい思いもあるが、ここで余計な弱みを見せたくない。彼女はエリアーヌとトールに軽く頭を下げると、そそくさと背を向けた。


「リュディアさん…!」


 エリアーヌの呼びかけも耳に入らないふうで、リュディアは足早に去っていく。その背中を、二人は不安げに見送るしかなかった。


 ◇◇◇


 一方、校舎の渡り廊下を歩いていたグレイサーは、ちらっとリュディアの姿を認めると足を止める。


「おや、イヴァロールか…朝からずいぶん急いでいるな」


 近づく気配に気づいたリュディアは、反射的に顔を上げる。表情には戸惑いがにじむが、慌てて言葉を探した。


「ヴィトリア先生…すみません、ちょっと用事があって…」


 グレイサーはリュディアをちらりと見つめ、片手に持っていたコーヒーカップの位置を直す。


「顔色が優れないようだが?」


「いえ、平気です。問題ありません」


 リュディアの声は震えそうになるのを必死で抑えているようだった。


 グレイサーは深くは問わなかった。まるで「全て察している」かのように静かに視線を落とし、素っ気なく呟く。


「やりたいようにすればいい。ただし、後悔しない行動をとるんだな」


「……」


 言葉に詰まるリュディア。グレイサーはそれだけ言うと、カップを持ち直して背を向け、さも関心はないという調子で歩み去っていく。


 しかし彼女は、その放任じみた言葉に微かな救いを感じた気がした。


 ◇◇◇


 しばらくして、リュディアは誰もいない裏庭へ足を進める。植え込みが生い茂り、授業前の時間帯のせいか人影も少ない。


 手紙を再度読み返すたび、母の苦しむ姿が脳裏に浮かんでくる。痛みに耐える母を想像するだけで、喉が詰まるように息苦しい。


「私が戻れば、母様を守れる? でも伯爵家の人たちが…」


 そう呟くうち、涙がこぼれそうになるが、慌てて目をそらす。自分は伯爵家の令嬢であり、学園でも優等生なのだ。こんなところで泣いてはいられない。


 遠くで朝の実技講義が再開する合図の鐘が聞こえた。もうすぐ次の講義が始まる時刻。リュディアは手紙をそっと胸元にしまい込む。


「…落ち着きなさい。まずは伯爵家に返事を入れて、早急に状況を確認するわ」


 声に出して自分を叱咤する。問題を先延ばしにはできない。母を助けたい気持ちも、伯爵家後継者としての責任も、どちらも投げ出すつもりはない。


 しかし、それをどう両立させるか。答えはまだ見つからない。


 校舎へ戻る道すがら、遠目にユイスの姿が見えた。彼はノートを片手に歩きながら、ぶつぶつと何か数式めいたものを考えている様子。ちらりとこちらに気づいたようだが、リュディアが視線をそらす。


(今は…話しかけないで。自分で決めなきゃいけないことがあるの)


 唇をぎゅっと噛んだまま、リュディアは足早にその場を去った。ユイスは気づいたような、気づかないような曖昧な表情で、去りゆく背中を見守る。


 ◇◇◇


 やがて廊下の隅にある窓辺へ辿り着き、リュディアは壁にもたれかかった。心臓の鼓動が高鳴っている。


 自分の意志で伯爵家へ戻る。そのことが、どれだけの波紋を呼ぶかは想像に難くない。あの保守派たちが待ち構えているに違いない。


 けれど、行かずに後悔する方がどれほど辛いか。母を病床に残して、「伯爵家なんかに従わない」と言い切るには、あまりにも代償が大きい。


「母様、大丈夫よね…?」


 誰にも聞こえないような低い声。手紙を胸元に押し当て、震える唇で何度も自問しながら、リュディアは再び歩き出す。


 迷いは消えない。それでも動かなくては始まらない。たとえ保守派に呑まれるかもしれずとも、母を救うためなら進むしかないと思い込もうとする。


 ――そんな彼女の横を、エリアーヌやトールが心配そうに追いかけて来るが、またしてもリュディアはわずかに首を横に振って、「平気だから」と微笑してしまう。


 その笑顔はわずかに引きつっていて、本心ではないことが仲間にも分かる。だが、どう声をかければいいかエリアーヌたちも分からず、一歩引いてしまう。


 廊下の端、何もない壁にもたれたまま、リュディアはそっと瞼を閉じる。


 母の弱々しい姿が、頭の中ではっきりと浮かんで消えない。


 それでも、あと一歩が踏み出せない。その葛藤が、形にならない叫びとして胸の奥に渦巻いていた。


 ――とにかく、返事を出そう。学園行事だろうと、母様の命ほど大切なものはない。後悔だけはしたくないのだから……。


 まだ鐘の音は止まず、彼女の心は乱れたまま。手紙を握りしめた指先がかすかに震えているのを感じながら、リュディアは誰にも助けを求めずに、自分だけで立ち向かう覚悟を、かすかな息とともに決めようとしていた。

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